オルフェウスの独白
野づらを渡るそよ風が、頬を撫でてとおり過ぎる。
いつもと違い、風には香りがなかった。
朝日と共に目覚めた野の草花の香り、とりわけ、森に棲まうニンフたちの薄桃色の
なめらかな肌から匂い立つ甘い芳香が鼻腔を擽ることで、
私の意識は眠りの底から引き上げられるのだが、今朝はその香りがない。
昨日と違うことは、むしろ私にとって微かな希望を意味していたが、ニンフの芳香を凌駕する、
軽やかさの内に豊かななまめかしさを備えた匂いが傍らから薫るわけではないらしい。
今朝も私の指は、愛しい女のしなやかな肢体に触れることがないのだった。
今、傍らにあるのは愛用の竪琴ばかりである。
草の褥から身を起こし、竪琴を爪弾いてみる。
大気の状態が不安定なせいか、心なしか音の響きに伸びがない。
微かに空気を振るわせる音の波に呼応して小鳥たちが囀ずりだすはずだが、
その気配もない。
やはり、昨日までとは何かが違う。
私は益々、あの世界に帰ってきたのではないかと感じて立ち上がった。
竪琴を小脇に抱えたまま、向かう先は、森の中にある湖である。
森の逆側にある山岳地帯に源を発する小川に沿って歩く、その終着点に湖がある。
湖の畔には菩提樹の巨木があって、かつて私はその巨木の根元に穿たれた穴の中に
身を躍らせて彼岸の世界へと下ったのだが、その穴も今はない。
目の前には、朝日を浴びて、光の反射の具合に応じて水面が七色に変化する湖が
横たわているだけだ。
水面を覗き込むと、その一帯は青一色に染められており、水鏡に映し出された私の顔は、
いつも以上に蒼ざめてみえた。
不意に、亡くなった直後、指の腹で軽く押せば薄桃色に染まった彼女の肌が、
次第に青黒く変色していく様を思い出す。
踝を毒蛇に噛まれただけの損傷のない肉体を我が腕に抱いて涙にくれる私が、
死の事実を思い知らされたのは、あのしなやかにしなる柔らかな躰が硬直を始めた時だ。
我に返った私が思案したのは、彼女の骸を如何に葬るかだった。
土中に埋めることも考えたが、まだ、原形を留めている肉体が地虫どもに食い散らされて
朽ち果て、白骨となる様を思い浮かべて躊躇した。
また、大海に葬ることも考えたが、水ぶくれして腐乱した躰が、
これも魚の餌食になることを考えて寒気を覚えた。
薄桃色の盛り上がった柔らかな唇が青黒く変色するまでの間、彼女の唇を吸いながら、
私は決心したのだった。
火山の火口に棺もろとも投げ込むことを。
生前、彼女の友人だったニンフの幾人かが駆け付けてくれ、蒼白な死に顔に薄化粧を施し、
唇に深紅の紅をさしてくれた。
横たわる棺の中には、色とりどりの野の花が敷き詰められ、心なしか、
彼女は微笑んでいるように見える。
私はそっと、唇に触れてみたのだったが、最早、それは硬直していて、
全身が彫像の肌と化していた。
刹那、彼女の躰を彫像として残しておきたいという欲望が沸き起こったが、
その時期を失していることと、かのビグマリオンのような造形の才がないことを覚り、
諦めたのだった。
ニンフたちは喪に服する証として、黒衣を素肌に纏い、棺を担いで私の後につき従った。
私が先頭に立ち、竪琴で惜別の詩を奏でると、野の獣たちも嘆きの咆哮をあげた。
やがて、野辺の送りの行列は、なだらかな丘陵地帯を越えて、カルデラ様式の火山の
火口に辿り着いた。
濛々とあがる噴煙の中、棺は火口に投げ込まれ、私の視界から消えていった。
この時、私は気づくべきだったのだ。
ニンフたちの目にはすでにユリディースに対する惜別の情はなく、その瞳には早くも、
欲情の焔が燃え盛っていることに。