一皿になるまで -Before Serving-
朝の光が、やわらかく街をなぞる。
石畳の隙間に落ちた影はまだ浅くて、世界はどこか“始まりきっていない”顔をしていた。
《リミナーレ》。
料理になる前のものたちが、最後の選択をする場所。
――そんな説明を、アーリオは何度も聞いてきた。
でも正直なところ、いまいち実感がなかった。
「……ねえ」
気づくと、彼女はすぐ目の前に立っていた。
金色の瞳が、まっすぐこちらを見ている。
「私ってさ」
少しだけ首をかしげる。
「これで、完成してると思う?」
唐突な問いだった。
でも、冗談じゃないのはすぐに分かった。
その目は、ちゃんと答えを欲しがっていたからだ。
「変だよね」
アーリオは小さく笑って、視線を逸らす。
「ニンニクと、オイルだけって」
胸元を軽くつまむようにして、続ける。
「普通、もうちょっと足すでしょ」
その言葉は軽いのに、どこか重かった。
通りの向こうで、カルボナーラが人に囲まれている。
白くて、なめらかで、隙がない。
「ああいうのが“ちゃんとしてる”ってやつでしょ」
アーリオはそちらを見ないまま言った。
「濃くて、分かりやすくて、満たされる感じ」
少しだけ間を置く。
「私ってさ……薄い?」
答えを待つ前に、彼女は苦笑した。
「ごめん。困るよね」
でも、離れない。
むしろ、ほんの少しだけ近づく。
「さっきね、“足りない”って言われた」
ぽつり、とこぼす。
「足さないのは逃げだって」
風が吹いて、オリーブの葉が揺れた。
光がちらつく。
「そうなのかな」
アーリオは、ゆっくりと目を細める。
「でもさ」
一拍。
「これ以上、何が必要なの?」
強がりじゃなかった。
本気で分からない、という顔だった。
「分かんないんだよね」
肩をすくめる。
「足した方がいいのか、このままでいいのか」
そのまま、少しだけ黙る。
街の音が戻ってくる。
遠くの笑い声と、食器の触れる音。
その中で、彼女はふっと息を吐いた。
「……ねえ」
手が差し出される。
迷いながら、それでもまっすぐな手。
「一緒に、確かめてみない?」
導かれるままに歩く。
白い皿の前。
まだ何も乗っていない、静かな場所。
「ここに立つとさ」
アーリオが隣で言う。
「向こうに行けるんだって」
「向こう?」
「うん。人のいる方」
少しだけ笑う。
「味になる場所」
怖くないのか、と聞こうとした瞬間、彼女が先に言った。
「怖いよ」
あっさりと。
「でも」
一歩、踏み出す。
「分からないままよりは、いいかなって」
振り返る。
ほんの少しだけ照れた顔。
「もしさ」
言葉がやわらかくなる。
「“そのままでいい”って思えたら」
一瞬、間が空く。
「……ちょっとは、自信持てる気がする」
そのまま、光の中へ。
やわらかく包まれる感覚。
熱でも、痛みでもない。
ただ、ほどけていくような――。
次に目を開けたとき、そこは別の場所だった。
木のテーブル。
差し込む昼の光。
人の手が、ゆっくりと伸びてくる。
一口。
短い沈黙。
アーリオは、ただ待った。
評価でも、正解でもない、何かを。
やがて、その人は小さく言った。
「……シンプルだけど、いいね」
それだけだった。
でも、その声はやけにやさしかった。
気づけば、また《リミナーレ》に戻っていた。
同じ石畳。
同じ風。
でも、ほんの少しだけ違う。
「……どうだったと思う?」
アーリオが、少しいたずらっぽく聞いてくる。
その目は、もうさっきほど揺れていなかった。
「分かんないよね」
自分で言って、小さく笑う。
「私も、分かんない」
それでも。
「でもさ」
胸に手を当てる。
「悪くなかった」
風が吹く。
オリーブの葉が揺れる。
「もうちょっと、このままでいいかも」
その言葉は、決意じゃない。
でも、逃げでもなかった。
アーリオは少しだけ近づいて、こちらを見上げる。
「ねえ」
やわらかい声。
「また、付き合ってくれる?」
手が、少しだけこちらに伸びる。
触れられそうで、触れない距離。
まだ、決まっていない。
まだ、完成していない。
それでも――
この時間は、確かに“味になりかけている”。
朝よりも少しだけ強くなった光の中で、
アーリオは、やさしく笑った。




