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一皿になるまで -Before Serving-

作者: 翠碧ノ人
掲載日:2026/04/16

 朝の光が、やわらかく街をなぞる。


 石畳の隙間に落ちた影はまだ浅くて、世界はどこか“始まりきっていない”顔をしていた。


 《リミナーレ》。


 料理になる前のものたちが、最後の選択をする場所。


 ――そんな説明を、アーリオは何度も聞いてきた。


 でも正直なところ、いまいち実感がなかった。


「……ねえ」


 気づくと、彼女はすぐ目の前に立っていた。


 金色の瞳が、まっすぐこちらを見ている。


「私ってさ」


 少しだけ首をかしげる。


「これで、完成してると思う?」


 唐突な問いだった。


 でも、冗談じゃないのはすぐに分かった。


 その目は、ちゃんと答えを欲しがっていたからだ。


「変だよね」


 アーリオは小さく笑って、視線を逸らす。


「ニンニクと、オイルだけって」


 胸元を軽くつまむようにして、続ける。


「普通、もうちょっと足すでしょ」


 その言葉は軽いのに、どこか重かった。


 通りの向こうで、カルボナーラが人に囲まれている。


 白くて、なめらかで、隙がない。


「ああいうのが“ちゃんとしてる”ってやつでしょ」


 アーリオはそちらを見ないまま言った。


「濃くて、分かりやすくて、満たされる感じ」


 少しだけ間を置く。


「私ってさ……薄い?」


 答えを待つ前に、彼女は苦笑した。


「ごめん。困るよね」


 でも、離れない。


 むしろ、ほんの少しだけ近づく。


「さっきね、“足りない”って言われた」


 ぽつり、とこぼす。


「足さないのは逃げだって」


 風が吹いて、オリーブの葉が揺れた。


 光がちらつく。


「そうなのかな」


 アーリオは、ゆっくりと目を細める。


「でもさ」


 一拍。


「これ以上、何が必要なの?」


 強がりじゃなかった。


 本気で分からない、という顔だった。


「分かんないんだよね」


 肩をすくめる。


「足した方がいいのか、このままでいいのか」


 そのまま、少しだけ黙る。


 街の音が戻ってくる。


 遠くの笑い声と、食器の触れる音。


 その中で、彼女はふっと息を吐いた。


「……ねえ」


 手が差し出される。


 迷いながら、それでもまっすぐな手。


「一緒に、確かめてみない?」


 導かれるままに歩く。


 白い皿の前。


 まだ何も乗っていない、静かな場所。


「ここに立つとさ」


 アーリオが隣で言う。


「向こうに行けるんだって」


「向こう?」


「うん。人のいる方」


 少しだけ笑う。


「味になる場所」


 怖くないのか、と聞こうとした瞬間、彼女が先に言った。


「怖いよ」


 あっさりと。


「でも」


 一歩、踏み出す。


「分からないままよりは、いいかなって」


 振り返る。


 ほんの少しだけ照れた顔。


「もしさ」


 言葉がやわらかくなる。


「“そのままでいい”って思えたら」


 一瞬、間が空く。


「……ちょっとは、自信持てる気がする」


 そのまま、光の中へ。


 やわらかく包まれる感覚。


 熱でも、痛みでもない。


 ただ、ほどけていくような――。


 次に目を開けたとき、そこは別の場所だった。


 木のテーブル。


 差し込む昼の光。


 人の手が、ゆっくりと伸びてくる。


 一口。


 短い沈黙。


 アーリオは、ただ待った。


 評価でも、正解でもない、何かを。


 やがて、その人は小さく言った。


「……シンプルだけど、いいね」


 それだけだった。


 でも、その声はやけにやさしかった。


 気づけば、また《リミナーレ》に戻っていた。


 同じ石畳。


 同じ風。


 でも、ほんの少しだけ違う。


「……どうだったと思う?」


 アーリオが、少しいたずらっぽく聞いてくる。


 その目は、もうさっきほど揺れていなかった。


「分かんないよね」


 自分で言って、小さく笑う。


「私も、分かんない」


 それでも。


「でもさ」


 胸に手を当てる。


「悪くなかった」


 風が吹く。


 オリーブの葉が揺れる。


「もうちょっと、このままでいいかも」


 その言葉は、決意じゃない。


 でも、逃げでもなかった。


 アーリオは少しだけ近づいて、こちらを見上げる。


「ねえ」


 やわらかい声。


「また、付き合ってくれる?」


 手が、少しだけこちらに伸びる。


 触れられそうで、触れない距離。


 まだ、決まっていない。


 まだ、完成していない。


 それでも――


 この時間は、確かに“味になりかけている”。


 朝よりも少しだけ強くなった光の中で、


 アーリオは、やさしく笑った。


挿絵(By みてみん)

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