第8章 誰もいない海で、君と生きていく
朝、目が覚めた瞬間、胸の奥が温かかった。昨日の遼の笑顔、冷たくて確かにそこにあった手、夕日に映る透明な瞳。全部が頭の中に鮮やかに残ってる。ゴボッ、ゴボッって水の音はもう聞こえない。代わりに、遼の声が耳の奥で響いてる。「今の君が好きだよ」。枕を触ると、乾いてる。鼻の奥に、かすかに海の匂い。まるで、俺の心が水の底から完全に浮かび上がったみたいだ。
「遼、ちゃんとそこにいるよな?」
呟いた声は、静かな部屋に響く。時計は朝の5時半。外は薄明るい。いつもならまだ寝ぼけてる時間だけど、今日は体が軽い。制服に着替えて、顔を洗う。水道の水が手のひらを滑る感触が、遼の手を思い出させる。冷たくて、でも確かにそこにあった。鏡に映る俺の顔、目が赤いけど、なんか笑ってる。初めて、こんな気分だ。
今日、俺と遼は海に行く。ちゃんとした海。アクア・シェルターの水槽じゃない、広い、自由な海。胸の奥で、なんか熱いものが燃えてる。怖くない。遼と一緒なら、どこだって行ける。
駅前の改札で、遼が待ってた。白い制服、濡れたみたいに光る黒髪。透明な瞳が、俺を見つめる。なんか、いつもよりちゃんとそこにいる。実体がある。遼は小さく笑って、俺に手を振った。
「陽翔、早いね」
「当たり前だろ。約束したんだから」
俺はニッと笑って、遼の隣に並ぶ。電車に乗ると、車窓に映る遼の顔が、なんか眩しい。俺はそっと、遼の肩に手を置いた。遼は驚いたみたいに俺を見たけど、すぐに笑った。
「君、ほんと変な人だね」
「変なのはお前だろ。こんな笑顔、反則だ」
俺たちは笑い合った。電車の中、ガタゴト揺れる音が心地いい。遼が車窓に目をやって、ぽつりと呟いた。
「海、初めてちゃんと見るかも」
「俺もだ。東京じゃ、こんな広い海、なかったからな」
遼はクスッと笑って、俺の手をそっと握ってきた。冷たいけど、確かにそこにある。胸の奥が、ドクンと跳ねる。なんか、普通の会話なのに、めっちゃ大事な気がする。
電車が止まって、俺たちは海辺の駅に降りた。春の海、冷たい風が吹いてる。誰もいない砂浜が、目の前に広がる。波の音が、シャー、シャーって響く。遼が砂浜に立って、目を細めた。
「こんなに広かったんだ」
その言葉に、俺の胸が熱くなる。遼は、まるで初めて世界を見たみたいに、目を輝かせてる。俺は遼の隣に立って、波打ち際を歩いた。足元で、冷たい水が靴を濡らす。でも、嫌いじゃない。この水は、遼の水族館とは違う。自由だ。
「なあ、遼。覚えてる? あの水族館のこと」
俺の質問に、遼は一瞬目を伏せた。そしたら、ぽつりと呟いた。
「なんか、夢だったんじゃないかって思う。でも、君の声、ちゃんと覚えてる」
その言葉に、俺の心臓がギュッと締め付けられる。夢? いや、夢じゃなかった。あの場所で、俺たちは確かに会った。遼の声、ちゃんと届いたんだ。俺は深呼吸して、笑ってみせた。
「俺もだ。お前がいたこと、全部覚えてる」
遼は小さく笑って、波を見つめた。波が、クラゲの影みたいに揺れてる。遼の目が、涙で光る。そしたら、遼がぽつりと呟いた。
「やっと、泣けるようになった」
その言葉に、俺の胸が熱くなる。俺はそっと、遼の頬に触れた。冷たいけど、確かにそこにある。遼の涙を、指先で拭う。遼は小さく笑って、俺の手を握り返した。
「陽翔、ありがとう」
その声が、胸の奥に染み込む。俺は遼の手を強く握って、呟いた。
「俺が全部覚えてる。お前がいたこと、絶対に」
遼は小さく頷いて、俺の肩にもたれた。波の音が、俺たちを包む。まるで、クラゲの光みたいに。俺たちは砂浜に座って、未来の話をした。進路のこと、夢のこと。遼が言った。
「君と出会えてよかった」
その言葉に、俺の心臓がドクンと跳ねる。俺は遼を見つめて、そっと呟いた。
「俺もだ。遼」
そしたら、俺は思わず、遼の額にそっとキスをした。遼は驚いたみたいに目を見開いて、それから小さく笑った。透明な瞳が、俺をまっすぐ見つめる。胸の奥が、熱くて、苦しくて、でも幸せだ。
「陽翔、君の声、忘れないよ」
遼の声が、波の音に混じる。俺は遼の手を強く握って、呟いた。
「俺も、お前の声を絶対忘れない」
俺たちは手を繋いで、砂浜を歩いた。冷たい風が、俺たちの髪を揺らす。波が、足元を濡らす。でも、怖くない。遼がいる。俺がいる。俺たちは、ちゃんとここにいる。
電車の中、帰り道。俺と遼は肩を寄せ合って、眠った。ガタゴト揺れる音が、心地いい。夢の中で、俺はまたあの水族館を見た。クラゲの光。遼の笑顔。でも、もう溺れない。俺は目を閉じたまま、呟いた。
「誰もいない水族館で溺れる夢は終わった。今、俺は――君と生きている」
目が覚めると、遼が隣で眠ってる。透明な瞳、閉じたまま。俺はそっと、遼の手を握った。冷たいけど、確かにそこにある。俺は知ってる。遼はここにいる。俺が信じてる限り、絶対に。




