第6章 それでも、君に触れたい
目が覚めた瞬間、胸の奥がズキンと疼いた。昨夜の水族館、遼の冷たい手、クラゲの光に溶けそうだったあの笑顔。全部が頭の中にこびりついてる。ゴボッ、ゴボッって水の音が、耳の奥でまだ響いてる気がする。枕を触ると、びっしょり濡れてる。汗じゃない。水だ。鼻の奥に、塩水の匂いが濃く残ってる。ベッドの上で拳を握りしめながら、俺は呟いた。
「遼、ちゃんとそこにいるよな?」
声は静かな部屋に吸い込まれる。時計は朝の5時。外はまだ薄暗い。いつもならまだ寝ぼけてる時間だけど、今日は体が勝手に動く。制服に着替えて、顔を洗う。水道の水が手のひらを滑る感触が、遼の手を思い出させる。鏡に映る俺の顔、目が赤くて、なんかやつれてる。寝不足だ。まあ、仕方ない。あいつのことが頭から離れないんだから。
アクア・シェルターは昨日で閉館した。あの場所はもうない。遼の場所が、なくなった。でも、俺は信じてる。あいつはそこにいた。冷たい手、確かに触れたんだ。消えるなんて、ありえない。俺はベッドの上で拳を握りしめた。
学校に行く途中、雨は止んでたけど、空気が湿っぽく肌にまとわりつく。道端の水たまりに映る空が、まるで水槽の底みたいだ。制服の袖、昨日と同じくびっしょり濡れてる。なんでだ? 昨夜、水族館を出た時も濡れてた。まるで、遼の存在が俺の体に染み込んでるみたいだ。
教室に入ると、いつものざわめき。クラスメイトの声が、遠くで響く波の音みたいに聞こえる。窓際の席に座って、炭酸水のペットボトルを開ける。プシュッという音が、ちょっとだけ心を落ち着けてくれる。スマホの待ち受け、兄貴と俺の写真をチラッと見る。笑ってる兄貴の顔が、胸を締め付ける。あの事故の日、俺は何もできなかった。ただ、兄貴が水に沈んでくのを見てただけ。遼も、同じだった。声を出したのに、届かなかった。
「三崎、なんかマジでやばい顔してるぞ。大丈夫?」
隣の席の奴が、ニヤニヤしながら話しかけてきた。名前、思い出せねえ。まあ、いいや。
「別に。ちょっと考え事」
そう言って、窓の外に目をやる。海が遠くに見える。この町、ほんと静かだ。まるで時間が止まってるみたい。いや、止まってるのは俺の心か? 遼のあの言葉、「もう長くはいられない」。あいつ、ほんとに消えたのか? そんなの、絶対に許さない。
昼休み、担任に直行した。
「志月遼って、ほんとにこの学校にいたんですか?」
担任は一瞬、首をかしげた。
「志月? そんな生徒、いたっけ? 陽翔くん、誰かと勘違いしてるんじゃない?」
心臓がギュッと締め付けられる。勘違い? そんなわけないだろ。遼の声、笑顔、全部覚えてる。なのに、なんで誰も知らないんだ? 図書室に行って、昨日見た生徒会誌を探した。でも、どこにもない。あの『志月遼、クラゲの観察記録』ってノート、なくなってる。司書の先生に聞いても、「そんなノート、見たことないよ」って。遼の存在が、まるでこの世界から消えてるみたいだ。
「ふざけんな……あいつ、いたんだよ」
胸の奥が、キリキリ疼く。遼、お前、ほんとにそこにいたよな? 俺は屋上に上がって、炭酸水を飲みながら、兄貴の写真を見つめた。兄貴、いつも言ってたよな。「陽翔、人のことちゃんと見てるお前が好きだ」って。あの時、俺はちゃんと見てなかった。兄貴が溺れてくのを、ただ見てただけ。遼も、同じだったんだ。声を出したのに、届かなかった。
「もう、あんな後悔はしない」
拳を握りしめて、俺は呟いた。遼を、絶対に放さない。消えるなんて、させない。俺から動くんだ。
放課後、俺はアクア・シェルターの跡地に向かった。もう建物はない。シャッターも、水槽も、クラゲの光も、全部なくなってる。そこには、ただの更地。雑草が風に揺れてるだけ。でも、俺は知ってる。あの場所に、遼がいた。俺はクラゲの水槽があった辺りに立つ。鼻の奥に、かすかに塩水の匂い。ゴボッ、ゴボッ。水の音が、耳の奥で響く。
「遼、いるよな?」
声に出して呼びかける。返事はない。でも、俺は信じてる。あいつはここにいる。絶対に。風が吹いて、雑草が揺れる。そしたら、かすかに水の音が聞こえた。ゴボッ、ゴボッ。まるで、遼が応えてるみたいに。
「遼! 出てこいよ!」
叫んだ瞬間、空気が揺れた。まるで、水面が波打つみたいに。目の前に、遼が立ってる。白い制服、濡れた黒髪。透明な瞳が、俺をまっすぐ見つめる。でも、なんか違う。いつもより、ちゃんとそこにいる。光に透けてない。実体がある。
「陽翔……来てくれたんだ」
遼の声が、かすかに震えてる。俺は思わず、遼に手を伸ばした。指先が、遼の手に触れる。冷たいけど、確かにそこにある。遼は小さく笑って、俺の手を握り返した。
「君が呼んでくれたから」
その言葉に、胸の奥が熱くなる。俺は遼の手を強く握った。
「お前が消えるなんて、ありえない。俺が信じてる。お前がここにいたって、絶対に」
遼の目が、揺れる。涙が、クラゲの光みたいに光る。遼は小さく笑って、ぽつりと呟いた。
「もう、独りじゃない」
その言葉が、胸の奥に染み込む。俺は遼の頬にそっと触れた。冷たいけど、確かにそこにある。遼は涙をこぼしながら、俺の手を握り返した。
「陽翔、ありがとう」
その瞬間、風が吹いて、雑草が揺れた。空には、星が一つだけ光ってる。まるで、遼の目みたいに。俺は遼を見つめて、呟いた。
「お前がここにいること、俺が証明してやる」
遼は小さく笑って、俺の手を強く握った。
「うん。君がいてくれるなら、僕も」
その言葉に、胸の奥が熱くなる。怖いのに、嬉しい。遼の存在が、俺の心に染み込んでくる。まるで、水槽の光が俺たちを包むみたいに。
跡地を出ると、夜の空気が冷たかった。制服はびっしょり濡れてる。見上げた空には、月が水面に映るみたいに光ってる。家に帰って、ベッドに倒れ込む。耳の奥で、遼の声が響く。
「君が呼んでくれたから」
俺は目を閉じて、そっと呟いた。
「遼、俺、お前の声を絶対忘れない」
夢の中で、またあの水族館。クラゲの光。遼の笑顔。そして、俺の叫び。俺は知ってる。遼はそこにいる。俺が信じてる限り、絶対に。そしていつか、俺たちは外の光を見るんだ。一緒に。




