第2章 水槽の中の約束
目が覚めた瞬間、胸の奥がざわついた。昨夜の夢が、まだ頭の中にこびりついてる。クラゲの水槽、青白い光、そして遼の声。ゴボッ、ゴボッって水の音が、耳の奥で響いてる気がする。ベッドの上で寝汗に濡れたシャツを握りしめながら、俺は天井を見つめた。
「ちゃんと、そこにいるんだよな?」
自分の声が部屋に響く。誰もいない。時計は朝の6時を指してる。いつもなら二度寝する時間だけど、今日はなんか体が勝手に動く。制服に着替えて、顔を洗う。水道の水が手のひらを滑る感触が、妙にリアルで、昨夜の水族館を思い出させた。
学校に行く途中、雨上がりの空気が湿っぽく肌にまとわりつく。道端の水たまりに映る空が、まるで水槽の底みたいだ。ふと、制服の袖を見ると、昨夜の水族館で濡れたはずの部分がまだ少し湿ってる。いや、まさか。気のせいだろ? でも、指で触ると、確かに冷たい。
教室に入ると、いつものざわめき。クラスメイトの声が、遠くで響く波の音みたいに聞こえる。俺は窓際の席に座って、炭酸水のペットボトルを開ける。プシュッという音が、ちょっとだけ心を落ち着けてくれる。スマホの待ち受け、兄貴と俺の写真をチラッと見る。笑ってる兄貴の顔が、胸を締め付ける。
「三崎、なんかぼーっとしてんな。寝不足?」
隣の席の奴が、ニヤニヤしながら話しかけてきた。名前、なんだっけ。まあ、いいや。
「別に。ちょっと考え事」
そう言って、俺は窓の外に目をやる。海が遠くに見える。この町、ほんと静かだな。いや、静かすぎる。まるで時間が止まってるみたいだ。
放課後、俺はまた水族館に向かった。昨日と同じ道、昨日と同じ看板。「アクア・シェルター」。錆びたクラゲのイラストが、雨に濡れて滲んでる。門はまたしても開いてた。なんでだ? 臨時閉館のはずなのに。まあ、いい。どうせ誰もいないんだろ。
中に入ると、昨日と同じ薄暗い通路。非常灯の緑が、床に揺れる水の影を映してる。ゴボッ、ゴボッ。水槽の水が動く音が、静寂を破る。鼻の奥に、塩水と何か懐かしい匂いが混じる。なんだこの感じ。怖いはずなのに、どこか落ち着くんだよな。
クラゲの展示エリアに着くと、心臓が少し速くなる。あいつ、いるかな。いるよな? 俺は水槽の前に立つ。青白い光が、ふわふわ漂うクラゲを照らしてる。そしたら、背後でかすかな足音。振り返ると、そこに遼がいた。
「また来てくれたんだ」
遼の声は、静かで、でもどこか温かい。白い制服、濡れたみたいに光る黒髪。透明な瞳が、俺をまっすぐ見つめる。昨日と同じなのに、なんか今日の遼は少しだけ違う。ほんの少し、笑ってるみたいだ。
「当たり前だろ。約束したじゃん」
俺はそう言って、ニッと笑ってみせる。遼は一瞬目を丸くして、それから小さく頷いた。
「うん……ありがとう」
その言葉に、胸の奥がじんわり熱くなる。バカみたいだろ? 昨日会ったばかりの奴に、こんな気持ちになるなんて。でも、なんかこの瞬間、遼がちゃんとそこにいるって感じがした。
「なあ、遼。ここで何してんの? 毎日こんなとこで突っ立ってんの?」
俺の質問に、遼は少しだけ目を伏せた。水槽の光が、彼の顔に揺れる影を作る。
「ただ……待ってるだけ。誰かが来るのを」
「誰かって、誰だよ?」
「わからない。誰か、かな」
遼の声は、まるで水の底から響いてくるみたいだった。なんだそれ。モヤモヤするけど、なんかその曖昧さが遼らしい気がした。
「じゃあ、俺が来るまでここにいるってこと?」
「うん……君が来てくれるなら」
その言葉に、俺は一瞬言葉を失った。なんだよ、その言い方。まるで、俺を待ってたみたいじゃん。顔が熱くなるのを感じて、慌てて水槽の方に目をやる。クラゲがふわふわ漂ってる。心臓がドクドクしてるのをごまかすみたいに、俺は口を開いた。
「なあ、遼。好きな生き物とかいる? 水族館の」
遼は少し考えて、そっと答えた。
「クラゲ。見てると、なんか……落ち着くんだ」
「へえ、クラゲか。俺はアザラシかな。なんか、あの丸い目が好き」
「アザラシ、か。君らしいね」
遼がクスッと笑った。その笑顔が、めっちゃくちゃ眩しくて、俺は思わず目を逸らした。なんだよ、この気持ち。心臓、うるさいんだけど。
「君は、なんでここに来たの?」
今度は遼が聞いてきた。俺は少し考えて、肩をすくめる。
「さあな。なんか、呼ばれた気がしたんだよ」
「呼ばれた?」
「うん。お前の声、聞こえた気がして」
嘘じゃない。あの水の音、遼の声、全部が俺をここに引き寄せた気がする。遼は一瞬驚いたみたいに目を見開いて、それから静かに微笑んだ。
「そっか。なら、よかった」
その笑顔が、胸の奥をぎゅっと締め付ける。なんだよ、これ。怖いのに、離れられない。遼の存在が、まるで水みたいに俺の心に染み込んでくる。
そのあと、俺たちは他愛もない話を続けた。好きな食べ物(遼はフルーツサンド、俺は炭酸水)、嫌いなもの(遼は雷、俺は閉じた空間)。なんか、普通の会話なのに、めっちゃ楽しい。遼の声、静かだけど、ちゃんとそこにある。実体があるって感じがする。
でも、ふと気づいた。遼の姿が、時々光に透けるみたいに見える。クラゲの水槽の光が、彼の輪郭をぼやけさせる。え、なんだ? 俺の目がおかしいのか? 思わず手を伸ばして、遼の肩に触れようとした。でも、指先が空を切る。遼は少し悲しそうに笑った。
「まだ、触れないよ」
「は? どういう……」
聞こうとした瞬間、イルカの水槽の方で何か動いた。チラッと見ると、水面に手が映ってる。遼の手じゃない。誰かの手。ゾクッとした。振り返ると、遼がその水槽をじっと見つめてる。なんか、怯えたみたいな目だ。
「遼? どうした?」
「なんでもない。……忘れたいだけ」
遼の声は、いつもより小さかった。なんだよ、それ。聞きたいけど、なんか今は聞かない方がいい気がした。俺は深呼吸して、話題を変える。
「なあ、遼。明日もここで会おうぜ。約束な」
遼は一瞬黙って、それからゆっくり頷いた。
「うん。君が来るなら、僕もここにいる」
その言葉に、胸が熱くなる。バカみたいだろ? でも、この約束が、なんかめっちゃ大事な気がした。
水族館を出ると、夜の空気が冷たかった。制服がまた濡れてる。袖を触ると、冷たい水の感触。なんでだ? 雨、降ってないのに。見上げた空には、星が一つだけ光ってる。まるで、遼の目みたいだ。
家に帰って、ベッドに倒れ込む。シャワーを浴びても、水の匂いが消えない。耳の奥で、ゴボッ、ゴボッって音が響く。目を閉じると、またあの夢。クラゲの水槽。遼の笑顔。そして、水の中に沈んでいく感覚。
「陽翔、ちゃんとそこにいるんだよな?」
夢の中で、俺は遼にそう聞く。彼は微笑んで、そっと答える。
「うん。君がいてくれるなら、僕も」
目が覚めた時、枕が濡れてた。汗? いや、なんか違う。手のひらを触ると、冷たい水の感触。心臓がドクンと跳ねる。
「あいつ、ほんとにいるんだよな……」
次の日、学校でクラスメイトの会話を耳にした。昼休み、屋上で炭酸水を飲みながら、ぼんやり聞いてた。
「なあ、アクア・シェルターの話、知ってる? なんか、昔、事故があったって」
「え、マジ? どんな?」
「プールで子供が溺れてさ。助けられなかったって噂」
心臓がギュッと締め付けられる。事故? 溺れた? なんか、嫌な予感がする。俺はスマホを取り出して、検索してみた。でも、「アクア・シェルター 事故」って打っても、ろくな情報が出てこない。古い記事が一つ、ヒットしただけ。
『2年前、アクア・シェルターでプールエリアにて事故発生。詳細は不明』
詳細不明ってなんだよ。モヤモヤする。図書室に行って、もっと調べようと思った。古い新聞の切り抜きとか、なんかありそうな気がする。
放課後、図書室で古い新聞を漁った。そしたら、ボロボロのファイルに、アクア・シェルターの記事を見つけた。2年前の夏、プールエリアで中学生が溺れたって書いてある。助けられなかったって。でも、名前は出てない。なんでだ? 隠してるのか?
「遼……お前、それと関係あるのか?」
呟いた声は、静かな図書室に吸い込まれた。胸の奥が、ざわつく。遼のあの目、悲しそうな笑顔。あいつ、なんか隠してる。いや、隠してるってか、言えないだけなのか?
その夜、俺はまた水族館に行った。門は、やっぱり開いてる。薄暗い通路、クラゲの水槽。遼はそこにいた。
「来てくれた」
「約束だろ」
俺は笑って、遼の隣に立つ。水槽の光が、俺たちの影を揺らす。遼は静かにクラゲを見つめてる。なんか、いつもより儚く見える。
「なあ、遼。昔、ここで何かあったんだろ?」
遼の肩がピクリと動いた。でも、すぐに小さく笑う。
「君、ほんと変な人だね」
「変なのはお前だろ。こんなとこで、毎日何してんだよ」
「待ってるって、言ったじゃん」
「誰を?」
「君を」
その言葉に、俺は一瞬息を止めた。なんだよ、それ。冗談だろ? でも、遼の目は真剣で、まるで水の底みたいな深さがある。心臓がドクドクうるさい。
「バカ、急に何だよ」
「ふふ、君、顔赤いよ」
「うるせえ!」
俺は慌てて水槽の方に目をやる。クラゲがふわふわ漂ってる。なんか、遼と話してると、時間が溶けるみたいだ。怖いのに、心地いい。こんな気持ち、初めてだ。
「なあ、遼。俺、明日も来るから。いいよな?」
「うん。君が来るなら、僕もここにいる」
その言葉が、胸の奥に染み込む。約束。たったそれだけの言葉なのに、なんでこんなに重いんだ?
水族館を出ると、夜の空気が冷たかった。制服の袖、また濡れてる。家に帰ると、洗面所の水道がポタポタ落ちてた。自分で止めたはずなのに。耳の奥で、ゴボッ、ゴボッって音が響く。
ベッドに倒れ込んで、目を閉じる。またあの夢。クラゲの水槽。遼の声。そして、水の中に沈んでいく感覚。夢の中で、遼が言った。
「僕、ずっと怖かったんだ」
その声に、俺はハッと目を開けた。枕がまた濡れてる。汗じゃない。水だ。心臓がバクバクしてる。
「あいつ、ほんとにいるんだよな……」
翌朝、目が覚めると、手のひらが冷たかった。水の匂いが、鼻の奥に残ってる。俺はベッドの上で拳を握りしめた。
「遼、待ってろ。俺、絶対お前を見つけるから」
水族館での約束が、俺の心を縛ってる。怖いのに、離れられない。遼の声、笑顔、全部が俺を水の底に引きずり込む。でも、俺はそこに飛び込みたい。遼がそこにいるなら。




