第1章 誰もいない水族館で出会った
俺の名前は三崎陽翔、17歳。つい一週間前、東京の喧騒からこの海辺の小さな町に引っ越してきた。父さんの転勤のせいだ。新しい学校、新しいクラス、新しい顔ぶれ。でも、正直、どれもどうでもいい。だって、俺はもう誰とも深く関わるつもりはないんだから。
初日の教室は、思ったよりうるさかった。窓の外では曇り空が低く垂れ込め、湿った空気が肌にまとわりつく。教壇に立つ担任の声が、ざわざわと騒ぐクラスメイトの声にかき消されそうになる中、俺は自分の名前を黒板に書いた。
「三崎陽翔、よろしく」
それだけ言って、指定された席にドサッと座る。隣の奴がチラッとこっちを見たけど、すぐにスマホに視線を戻した。いいよ、それで。俺も別に話しかける気はない。窓際の席から、灰色の空と遠くに見える海の水平線をぼんやり眺める。海って、こんな近くで見るの、初めてかもしれない。
「ねえ、聞いた? 水族館、来月で閉館だって」
後ろの席の女子が、誰かに囁く声が耳に入る。へえ、この町に水族館なんてあるんだ。興味ないけど、なんか寂れた雰囲気なんだろうな。観光客もあんまり来なさそうな町だし。
昼休み、俺は一人で屋上に上がった。カバンから取り出したのは、いつもの炭酸水。プシュッと開ける音が、静かな空に響く。ペットボトルの冷たさが手に心地いい。屋上のフェンスにもたれながら、スマホを取り出して待ち受けを見る。そこには、俺と兄貴のツーショット。海辺で笑ってる、昔の写真。兄貴の笑顔は、いつも太陽みたいだった。あの頃は、俺ももっと素直に笑えた気がする。
「陽翔、ちゃんとそこにいるんだよな?」
口をついて出た言葉は、誰にも届かない。兄貴はもういない。あの事故以来、俺の中で何かがぽっかり空いたままなんだ。炭酸水を一口飲んで、目を閉じる。潮風の匂いが、鼻腔をくすぐる。
放課後、雨が降り始めた。傘なんて持ってない。いや、持ってるけど、さす気になれなかった。濡れた制服が肌に張り付く感触も、冷たい雨粒が頬を叩くのも、なんだか心地よかった。まるで、俺の心のざらつきを洗い流してくれるみたいに。
町を抜ける道を歩きながら、ふと見つけた看板。「アクア・シェルター」。水族館の名前らしい。錆びた看板には、色褪せたクラゲのイラストと、「営業時間:10時~17時」の文字。でも、今日は「臨時閉館」の札がぶら下がってる。門の前には誰もいない。ただ、雨がアスファルトを叩く音だけが響く。
「ふーん、閉まってるのか」
そう呟きながら、門の隙間を覗き込む。すると、ガチャリと音がして、門が少し開いた。え、鍵、開いてるの? 誰もいないはずなのに。ちょっとドキッとしたけど、好奇心が勝った。どうせ誰もいないなら、ちょっと覗いてみるか。
中に入ると、薄暗い通路が広がっていた。照明はほとんど消えていて、非常灯の緑色の光だけがぼんやりと床を照らす。水槽の水が、静かに揺れる音が耳に届く。ゴボッ、ゴボッ。まるで心臓の鼓動みたいだ。空気はひんやりと湿っていて、鼻の奥に塩水の匂いが広がる。なんだこの感じ。ちょっと不気味だけど、妙に落ち着く。
通路を進むと、大きな水槽が目に入った。クラゲの展示エリアだ。青白い光が水槽から漏れ、ゆらゆらと漂うクラゲが幻想的に浮かんでいる。その光に照らされて、誰かが立っていた。
白い制服。濡れたような黒髪。細い背中。
「え、誰?」
声に出した瞬間、その少年が振り返る。透明な瞳が、俺をまっすぐ見つめた。息が止まる。心臓がドクンと跳ねる。なんだ、この感覚。まるで、水の底に引きずり込まれるみたいだ。
「君は……誰?」
少年の声は、静かで、どこか儚い。水槽の光が彼の顔を照らすけど、なんだか実体がないように見える。幽霊? いや、まさか。そんなわけないだろ。
「俺? 三崎陽翔。で、お前は?」
「志月……遼」
彼の声は、まるで水面に落ちた雫のようだった。消えそうで、でも確かにそこにある。志月遼。名前を繰り返すと、胸の奥がざわつく。
「ここ、閉館してるはずだろ? なんでこんなとこにいるんだ?」
「僕……ここにしか、いられないから」
その言葉に、俺は一瞬言葉を失った。どういう意味だ? 聞こうとした瞬間、遼の姿がふっと揺れた。まるで水面に映る影が消えるように、彼の輪郭がぼやける。
「おい、待て!」
思わず手を伸ばすけど、指先は何も掴めなかった。次の瞬間、遼の姿は完全に消えていた。クラゲの水槽だけが、静かに光を放っている。
「は……? なんだよ、今の」
周りを見回すけど、誰もいない。床には、濡れた足跡が点々と続いている。でも、その足跡は水槽の前でぷつりと途切れていた。まるで、誰かが水の中に消えたみたいに。
心臓がバクバクしてる。怖いのか? いや、違う。怖いだけじゃない。胸の奥で、なんか変な熱が広がってる。遼のあの目。あの声。なんで、こんなに引っかかるんだ?
家に帰っても、水の音が耳から離れなかった。シャワーを浴びても、頭の中でゴボッ、ゴボッって音が響く。ベッドに倒れ込んで、目を閉じる。そしたら、またあの水族館の光景が浮かんだ。
夢の中で、俺はまたあのクラゲの水槽の前に立っていた。青白い光。揺れる水。そして、遼がそこにいる。彼は俺を見て、かすかに微笑んだ。
「また、会えた」
その声に、俺はハッと目を開けた。寝汗でシャツがびっしょりだ。時計を見ると、深夜の2時。心臓がまだドキドキしてる。
「なんだよ、あいつ……」
次の日、学校に行っても、頭の中は遼のことでいっぱいだった。クラスメイトの声も、教師の話も、全部耳を素通りしていく。昼休み、担任に聞いてみた。
「なあ、志月って奴、知ってる?」
担任は一瞬、首をかしげた。
「志月? ああ、志月遼くんね。いま、学校に来てないんだよ。ちょっと……事情があって」
事情? なんだそれ。聞こうとしたけど、担任はそれ以上話さなかった。なんか、モヤモヤする。遼のあの言葉、「ここにしかいられない」って、なんだったんだ?
放課後、俺はまた水族館に向かった。雨は止んでいたけど、空はまだ重い灰色だ。門は昨日と同じく、なぜか開いていた。中に入ると、昨日と同じ静けさ。同じ水の匂い。同じクラゲの光。
「お前、いるんだろ?」
声に出して呼びかける。返事はない。でも、俺は知ってる。遼はここにいる。絶対に。
水槽の前で待つ。どれくらい時間が経ったか分からない。足が冷たくなってきた頃、背後でかすかな水音がした。ゴボッ。振り返ると、そこに遼がいた。
「また、来たんだ」
彼の声は、昨日より少しだけ柔らかかった。まるで、俺を待ってたみたいに。
「当たり前だろ。ちゃんと、そこにいるんだよな?」
俺の言葉に、遼は小さく笑った。その笑顔が、胸の奥をぎゅっと締め付ける。なんだよ、この気持ち。怖いのに、離れられない。
「君は、変な人だね」
「変なのはお前だろ。こんなとこで、ひとりで何してんだよ」
「何って……ただ、待ってるだけ」
「誰を?」
遼は答えず、クラゲの水槽を見つめた。その横顔が、どこか悲しそうで、俺の胸がちくりと疼いた。いや、疼くなんてダサい表現、使いたくねえよ。でも、他に言葉が見つからない。
「なあ、遼。明日もここに来るか?」
俺の言葉に、遼は少し驚いたように目を見開いた。それから、ゆっくり頷く。
「うん……君が来るなら、僕も」
その一言が、なぜかやけに嬉しかった。バカみたいだろ? 昨日会ったばかりの、幽霊みたいな奴に、こんな気持ちになるなんて。
「じゃあ、約束な」
俺はそう言って、拳を軽く突き出した。遼は一瞬戸惑ったみたいだったけど、そっと自分の拳を合わせてきた。その感触は、冷たくて、でも確かにそこにあった。
水族館を出ると、夜の空気が冷たかった。制服の袖が、なぜか少し濡れてる。見上げた空には、雲の隙間から月が覗いていた。まるで、水面に浮かぶ光みたいに。
家に帰って、ベッドに倒れ込む。頭の中は、遼の声と、クラゲの光と、水の音でいっぱいだ。なんだよ、あいつ。なんで、こんなに心を掻き乱すんだ。
目を閉じると、またあの夢。クラゲの水槽。遼の微笑み。そして、ゴボッ、ゴボッという水の音。
「陽翔、ちゃんとそこにいるんだよな?」
俺は自分の声に、ハッと目を開けた。時計はまだ深夜。胸の奥が、熱くて、苦しくて、でもどこか温かい。
「あいつ、ほんとにいるんだよな……」
そう呟いて、俺はまた目を閉じた。明日、また水族館に行く。それだけは、確かなんだ。
陽翔の心は、遼との出会いで揺れ始めていた。誰もいない水族館。そこは、まるで夢のようで、でも確かに現実だった。遼の存在が、陽翔の閉ざされた心を少しずつ開いていく。でも、その先に何が待ってるのか、俺にはまだわからない。
ただ一つ、確かなことがある。あの水槽の前で、俺はまた遼に会いたい。そして、ちゃんとそこにいるって、確かめたい。
水の音が、耳の奥で響き続ける。ゴボッ、ゴボッ。まるで、俺の心臓の音みたいに。




