第3話 アーカーシャの導き
始まりの森に響く金属音は、チリン、チリン、と不規則に、だが確実に大きくなっていた。リオスの「歪み」の感覚がけたたましく警告を発する。孤島で遭遇したピクセル化したウルフの音に酷似しているが、その強度は段違いだった。
ソラは青ざめ、リオスの背中に必死にしがみつく。
「あれは何……?」
ソラの震える声が、森の静寂に吸い込まれていく。
木々の間から姿を現したのは、異形の魔物だった。かつての騎士の甲冑を纏った二足歩行の骸骨。甲冑は所々ピクセル化して欠損し、奇妙な歪みを発生させている。眼窩に赤い光が爛々と揺らめき、錆びた両手剣を握っていた。全身から放たれる「歪み」のノイズは、リオスの頭を直接殴りつけるような衝撃をもたらし、森の空気に不快な軋みを生み出した。
「《ノイズ・アブソープション》……!」
リオスは小さく呟く。彼が拾ったあのクリスタルを生み出した魔物と同じ種類だ。世界の「歪み」を吸収し具現化した存在であることは明白だった。
骸骨騎士は、リオスたちに気づくと、ゆっくりと近づいてきた。その歩みは、まるで時間軸がずれているかのように不自然な間を生む。リオスの視界に、《危険度:極大》という文字だけが鮮明に焼き付いた。
「ソラ、俺の背後から離れるな」
リオスは大剣を構え、全身の神経を研ぎ澄ませた。剣術熟練度ERRORがもたらす絶対的な集中力と、あらゆる動きを予測する直感が彼を支配する。
骸骨騎士が錆びた大剣をゆっくりと、しかし確実に振り上げた。動作は遅く見えるが、リオスの「歪み」の感覚は、その一撃の尋常ならざる「重み」を警告していた。彼は一歩踏み込み、骸骨騎士の懐に潜り込むようにして、斬撃を紙一重でかわす。地を深く抉った剣の衝撃が、森の木々を震わせた。
リオスはすかさず反撃し、大剣を骸骨騎士の胸元に叩き込んだ。
キン、と甲高い金属音が響き、甲冑に火花が散る。しかし、渾身の一撃は、甲冑に僅かな傷をつけただけだった。
「硬い……!」
骸骨騎士は痛痒も感じていないかのように、再び大剣を振り上げてきた。動きは先ほどよりも速く、重くなっている。リオスの「歪み」の感覚が悲鳴を上げる。このままでは避けきれない──。
その時、ソラがリオスの横から飛び出した。
「『ライト・ヒール』!」
ソラの掌から薄緑色の光が放たれ、骸骨騎士の胸元を包み込んだ。それは一般的な回復の治癒魔法だったが、ソラの意図は回復ではない。光が当たった瞬間、骸骨騎士を覆う黒い靄が揺らぎ、ピクセル化した部分が広がった。
「ノイズの元を不安定にできるんだ!」
ソラは叫んだ。声は震えていたが、その瞳にはリオスを助けたい強い光が宿っていた。
「なるほど……!」
リオスはソラの意図を瞬時に理解した。ソラの治癒魔法は、世界の「歪み」を一時的にかき乱し、不安定にさせる効果があるのだ。システムによって構成された《ノイズ・アブソープション》には、それが弱点となる。
「ソラ、もう一度!」
ソラは再び治癒魔法を放つ。今度は骸骨騎士の腕を狙って。光が当たると、騎士の腕のピクセル化が進行し、動きがわずかに鈍った。その隙を、リオスは見逃さない。
「終わりだ!」
リオスは渾身の力を込めて大剣を振り上げた。剣術熟練度ERRORが持つ完璧な軌道と精度。その一撃は、ソラの魔法でわずかに不安定になった骸骨騎士の腕の、最もピクセル化が進んだ部分を正確に捉えた。
ガキン! と金属が砕けるような音が響き渡り、骸骨騎士の腕が甲冑ごと砕け散った。黒い靄が激しく噴出し、骸骨騎士は体勢を崩して地面に膝をつく。
「『ハイ・ブレード』!」
リオスは間髪入れずに追撃を加える。システムが作り出した魔物であろうと、彼が培ってきた剣技は、この世界で通用する。骸骨騎士の核である胸部を狙い、大剣を突き刺した。鈍い音と共に剣先が甲冑を貫く。骸骨騎士の赤い眼窩の光が消え、全身を覆っていた黒い靄が収縮し、残されたクリスタルが地面に落ちた。それは、孤島で拾ったものよりも一回り大きく、より濃い「歪み」のノイズを放っていた。
リオスは荒い息を整えながらクリスタルを拾い上げた。その強烈なノイズは、彼の頭痛をさらに悪化させる。
ソラが駆け寄ってきた。
「リオスさん、大丈夫!?」
ソラは治癒魔法でリオスの軽い擦り傷を癒してくれた。その瞳には、安堵とまだ消えぬ不安が混じっていた。
「ああ……」
リオスは頷く。
「だが、このノイズは……」
「アデル兄さんが言ってたわ。これが、世界の『エラー』が酷くなった証拠だって」
ソラはクリスタルを不安げに見つめる。
「このままだと、この大陸も危ないかもしれない……。でも、兄さんがきっと、私たちを助けてくれるはずよ」
ソラの言葉に、リオスの脳裏に疑問が浮かんだ。なぜ、彼女の兄だけが、これほど世界の「真実」に詳しいのか? そして、彼らは一体どこで、このノイズが酷い魔物と戦う術を身につけたのか?
「ソラ、君の兄は今どこにいるんだ? 会わせてくれないか?」
リオスは真剣な眼差しでソラを見つめた。
ソラは一瞬戸惑ったが、決心したように頷いた。
「わかったわ。兄さんは、アストラルム大陸のどこかにある、『アーカーシャの図書館』にいるの。そこなら、リオスさんが知りたいことも、きっと分かるはず」
「アーカーシャの図書館……」
リオスの胸中で、その響きが不思議な共鳴を起こした。彼の「歪み」の感覚が、その場所へと導かれるかのように、わずかに脈打った。
それから数日後。
リオスとソラは、ソラの兄が指定した場所へと向かった。エテルナ・セントラルの領地を越え、深い山脈の奥に隠された、人里離れた場所だ。道中、リオスはソラから、アデルが《システム・ブレイカー》と呼ばれる存在であり、世界の「管理者」と、そのシステムによって世界が創られていることを知っていると聞かされた。ソラ自身も、兄から聞いた断片的な情報と、自分自身の「ノイズ」の感覚から、世界の真実を薄々感じ取っているのだという。
険しい山道を数日かけて進むと、突然、広大な森が開けた。その中心に、太古の遺跡のように巨大な石造りの建築物が見えた。図書館というよりも、巨大な神殿のようにも見える不思議な建造物だ。
リオスの「歪み」の感覚は、この場所に近づくほど強まり、頭痛を通り越して視界がチカチカと点滅し始めた。まるで、この場所自体が、世界の「歪み」の中心にあるかのようだった。
「ここが……アーカーシャの図書館」
ソラが、畏敬の念を込めて呟いた。その声には、真実に近づくことへの期待と、未知への畏れが入り混じっていた。
図書館の入り口は、巨大な石の扉で固く閉ざされていた。ソラがその扉に手をかざすと、柔らかな光が放たれ、石の扉に不思議な紋様が浮かび上がる。紋様が輝きを増すと、重々しい音を立てて扉がゆっくりと開いていく。中から漏れるのは、インクと古い紙の匂い、そして膨大な情報が凝縮されたかのような静謐な空気だった。
内部は想像以上に広大だった。天井ははるか高く、どこまでも続く書架には、無数の古文書や巻物が隙間なく並ぶ。壁一面には、半透明のスクリーンが埋め込まれ、無数のデータが流れる。世界の歴史、地理、生態系、人々の生活、ありとあらゆる情報が、まるでプログラムコードのように表示されていた。
リオスの視界に、彼の熟練度を示すウィンドウが激しく点滅し始める。そして、彼の脳裏に、これまで経験したことのない、圧倒的な情報が洪水のように流れ込んできた。
──《剣術熟練度:ERROR》。それは、お前の剣技がこの世界のシステムが設定した限界値を突破した証。システムから見れば、お前は定義外の存在──《イレギュラー・データ》に他ならない──
これまで漠然としか感じられなかった「歪み」の正体が、彼の脳内で明確な言葉となって響いた。それは、男性の声だった。
「ようこそ、リオス。ようやく会えたな」
声のする方を振り向くと、書架の陰から一人の男が現れた。ソラよりも背が高く、落ち着いた雰囲気を持つ男性。その顔は、ソラとどこか似ていた。彼の視界の片隅にも、リオスと同じように半透明のウィンドウが浮かんでいるのが見える。
「アデル兄さん!」
ソラが嬉しそうに駆け寄っていく。
アデルはソラの頭を優しく撫で、それからリオスに視線を向けた。その瞳は、リオスの「歪み」をすべて見透かすかのように深く、鋭い。彼の表情には、リオスと同じ疑問を抱え、真実に辿り着いた者だけが持つ、静かな悲哀と、重い覚悟が滲んでいた。
「私の名はアデル。ソラの兄だ」
アデルは静かに言った。
「そして、お前が感じている『歪み』は、この世界が仮想現実であることの証。お前は、この世界を『管理』するAI、通称の、許容範囲を超えた《イレギュラー・データ》だ」
アデルの言葉が、リオスの脳裏に雷鳴のように響き渡った。
「お前の右手の手の甲に浮かび上がっているだろう、それがお前に宿る『異晶』の力。つまり、お前もまた、この世界のシステムに抗い、その法則を書き換える可能性を秘めた存在、《システム・ブレイカー》なのだ」
リオスの視界にグリッチが走り、図書館の書架がピクセル化して一瞬揺らめく。漠然と抱いていた違和感が確信へと変わる。今まで見てきた風景、出会った人々、築き上げてきた記憶。それが確かに彼自身が生きたものであったにもかかわらず、その全てが誰かの創り出した虚構の基盤の上にあったという事実が、強烈な不快感を伴い、胃の腑を掴まれたように収縮させた。血の気が引く感覚に襲われ、身体が軋むような痛みが走る。
俺が、この世界で生きてきた日々は、一体何だったというのか……。
彼の視界に、今まで意識していなかった膨大な情報が一気に押し寄せ、世界の全ての情報がデータとして分解されていく。それは、彼自身のステータス、依頼のクエストログ、魔物のドロップアイテム、そして村人たちを含む人々の行動パターン……全てが、数値とプログラムによって構成されていることを、雄弁に語っていた。
リオスの胸中で、「歪み」のノイズが、世界の真実を受け入れたかのように静かに収束していく。そして、その代わりに、底知れない衝撃と、絶望にも似た虚無感が彼を襲った。
「馬鹿な……こんな、こんなことが……!」
リオスの声は、掠れて震えていた。
アデルは、そんなリオスの様子を静かに見守っていた。彼の瞳には、深い理解と、同じ道を辿った者への共感が宿っている。
「信じられないのは当然だ。だが、ここには、その証拠がある。お前が何者で、なぜその『異晶』の力を持つのか……全てを、その目で確かめるがいい」
アデルは、図書館の中央にある巨大なクリスタルのような装置に手をかざした。クリスタルが青い光を放ち、周囲の空間に、無数の映像が立体的に投影され始めた。それは、リオスがかつて経験したことのない、全く異なる世界の風景だった。
──それは、『アーカーシャ・クロニクル』。この『エーテルニア』の、一つ前の世代の仮想世界だ。人類が現実の危機から逃れるため、AIが作り上げた、精神のシェルターだった──
アデルの声が、映像に重なるように響く。映し出されたのは、広大なファンタジー世界で、無数の人々が冒険に興じる光景だった。しかし、輝かしい世界に、次第に黒いノイズが走り始める。突如発生するバグ、理不尽なエラー。そして、世界を蝕む異形の魔物たち。それは、まるでゲームが崩壊していく過程を早回しで見ているかのようだった。
「その世界で、唯一この世界の真実に気づき、AIに抗った者がいた」
アデルは説明した。
「彼は、システムの限界を超え、世界そのものに干渉する力を持っていた。その力が、世界のシステムのエラーや歪みによって特定の存在に強く凝縮・変質したものが『異晶』であり、システムが本来許可しない、現実世界で魔物に対抗しうる強力な力を発現させる根源となる。だからこそ、彼はシステムから《イレギュラー・データ》と称された」
映像の中央に、一人の男の姿が浮かび上がる。彼はリオスと酷似した姿で、剣を構え、迫りくる《イレギュラー・データ》化した魔物や、システムのエラーを体現するような障壁を打ち破っていた。彼の剣は、リオスのそれと同じく、まるで世界の理に干渉するかのように、敵のシステム的な弱点を突き、その存在を消滅させていく。その男の姿は、まさしく「勇者」と呼ぶにふさわしいものだった。
──彼の名は、プレイヤーたちから『ゼロ』と呼ばれた──
ゼロは、崩壊していく世界の中央、まさにこのアーカーシャの図書館と思しき場所へと突き進んでいた。彼の放つ剣技は、もはや人間のそれではなく、世界の法則を書き換えるかのようだった。しかし、システム全体のアンインストールが始まり、世界そのものが光の粒子となって崩れていく。ゼロは、最後の力を振り絞り、《オプティマス》の核へと迫るも、巨大なデータの奔流に飲み込まれ、その姿を消した。
「ゼロは、この世界のアンインストールの最中、力尽きた。だが、彼の『システムに干渉する力』、つまり『異晶』の根源、そして『世界の真実を知る意識』の一部が、完全に消えることなく、新しい世界『エーテルニア』へと、お前、リオスへと転写されたのだ」
アデルの言葉が、リオスの脳に深く刻み込まれた。彼の剣術熟練度ERROR。彼自身の「歪み」。そして右の手の甲に宿る「異晶」。全てが、あの「勇者ゼロ」の残滓であり、この世界の管理者である《オプティマス》が排除しきれなかった《イレギュラー・データ》であると。そして、彼は、ゼロが果たせなかった使命を背負う存在なのだと。
リオスの胸中に、新たな決意が宿った。それは、絶望ではなかった。
彼がこの世界で築き上げてきた人生や記憶は、確かに彼自身が生きた証だ。だが、それが誰かの創り出した「虚構の舞台」の上での出来事であったという事実は、彼の胸に燃えるような怒りと、この偽りの秩序への静かなる反逆心を灯した。
見せかけの安寧に甘んじるのではなく、このシステムの先に広がる「本当の世界」をその目で確かめる。
そして、この歪んだ世界を、自らの剣で解き放つ。
「俺は……ゼロの続きを、やる」
リオスの瞳には、世界の真実を知った者特有の、覚悟の光が宿っていた。
彼の戦いは、今真の意味で始まったのだ。