第2話 アストラルムの片鱗
救世の村での異変は、日を追うごとに悪化の一途を辿っていた。
ピクセル化した魔物の目撃情報。不自然な霧の発生。それは、もはや日常風景と化していた。リオスが拾い上げた「歪み」を宿すあの青いクリスタルは、増え続ける異常現象の象徴のように感じられた。
村人たちは不安を募らせながらも、その原因を究明しようとはしない。ただ目の前の異変に順応しようと努めていた。彼らにとって、これらは季節の移ろいや神の気まぐれ、あるいは「魔物の活動期」というような、理解の範疇に収まる「自然な出来事」なのだ。
その姿を見るたび、リオスは胸に拭い去れない違和感が募る。彼らに見えない「歪み」が、世界を蝕んでいる。その事実は、彼にとって明白だった。
「リオス、君もこの島を出た方がいい」
ある日、村の長がリオスにそう告げた。長老はリオスの剣術の才を高く評価し、彼の異質性にも薄々感づいているようだった。
「この島はもう長くは持たない。アストラルム大陸のエテルナ・セントラルなら、まだ安全なはずだ」
長老は、村の数少ない船を手配すると言った。
村を出ることは、リオスにとって「この村で受けられる依頼は、もうほとんど残っていない」という意味でもあった。冒険者としての役割を終え、新たな場所を求めるのは、この世界に生きる者にとってごく自然な流れだ。
誰もが自分の熟練度を上げ、新しい「スキル」を習得することで、より困難な「依頼」に挑戦し、より良い「アイテム」や「報酬」を得て生計を立てる。あるいは「魔法」の詠唱を覚え、魔力を高めることで新たな活路を見出す者もいる。それがこの世界の「日常」であり「成長の証」だった。
リオスは迷わなかった。この島に留まっていても、真実には辿り着けない。彼自身の「歪み」の源、そしてこの世界の「異常」の根源を探るため、より多くの情報が集まるであろうアストラルム大陸へ向かうのは、必然の選択だった。
出発の日。村の海岸には、少ないながらも多くの村人が見送りに来ていた。彼らの顔には不安と希望が混じり合っている。
「リオスさん、どうかご無事で!」
「あんたならきっと、この島の異変を、この村を救ってくれる!」
温かい言葉がリオスに投げかけられる。彼らの期待に応えられるかは分からなかったが、リオスは静かに頷き、小さな漁船に乗り込んだ。
ソラの姿は、そこにはなかった。彼女は、あの後、すぐに船でこの島を離れたのだろう。
船は、数日間穏やかな海を西へと進んだ。孤島を離れ、広大な海原を進むにつれて、リオスの胸中に響く「歪み」のノイズは、いくらか和らいだように感じられた。しかし、完全に消えることはない。それは、彼自身がこの世界の「異物」である限り、常に彼と共に在るものだと、リオスは漠然と理解していた。
水平線に巨大な影が浮かび上がったとき、リオスの視界に、新たな数値情報が飛び込んできた。
《アストラルム大陸 エテルナ・セントラル 領海に進入しました》
まるで何かの報せのように、彼の視界の片隅に半透明の文字が浮かび上がり、すぐに消える。彼は以前から、自身の剣術熟練度ERRORのように、こうした不可解な数値や文字が時折視界に現れることを経験していたが、その意味までは分からなかった。ただ、それが自身の「歪み」と密接に関わっていることだけは確信していた。
船がアストラルム大陸の港に到着すると、リオスは一歩足を踏み出した。
港町は活気に満ちていた。孤島の小さな村とは比べ物にならないほど多くの人々が行き交い、港に並ぶ露店では、商人が声を張り上げ、旅人や冒険者が品々を吟味している。
人々は、整然と並べられた品々の中から必要な「アイテム」を選び取り、手に握られた「金貨(G)」を瞬時に交換していく。その取引は、まるで何の滞りもなく、システムが自動的に処理しているかのように流れる。その流れるような経済活動は、彼らにとって世界の「理」そのものだった。
リオスは、まず冒険者ギルドへと向かった。情報収集と日銭稼ぎのためだ。
ギルドの建物は、孤島のそれよりも遥かに大きく、多くの冒険者で賑わっていた。Dランクの依頼を難なくこなしながら、リオスは街の様子を観察した。人々の動き、会話、表情、全てが淀みなく、調和している。しかし、その「完璧さ」の中に、リオスはまたしても微かな違和感を見出した。
それぞれが自身の生活を謳歌し、喜びや悲しみを分かち合っているように見えた。行商人は活発に商品を売り込み、子供たちは目を輝かせながら遊びに興じる。しかし、その活動の「秩序だった繰り返し」の中に、リオスは不自然さを感じた。日々のルーティン、会話のパターン、行動の予測性……。まるで彼らが、個々の意思とは別に、無意識のうちに何らかの「大いなる法則」に従って営みを続けているかのようだった。
リオスは、ギルドの掲示板に貼られた依頼書を眺めていた。その一つに、見慣れた文字を見つけた。
《薬草採集依頼:エテルナ草の採集。報酬:5000G》
その依頼書には、見覚えのある筆跡で「ソラ」という署名があった。
リオスの胸が、僅かに高鳴った。あの孤島で出会った少女が、この街にいる。彼女もまた、この世界の「歪み」に気づいている数少ない一人だ。彼女に会えば、何か新たな情報が得られるかもしれない。
リオスは依頼書を手に取り、ギルドの受付へと向かった。
「この依頼、今から向かいます」
受付嬢はにこやかに依頼書を受け取り、機械的な動作で処理を進める。その動きもまた、リオスにはどこか不自然に感じられた。
エテルナ草の採集場所は、城下町のすぐ外にある「始まりの森」だった。ギルドを後にして、リオスは森へと足を進める。森の中は、孤島の森とは異なり、どこか人工的に整備されているかのような印象を受けた。道は広く、魔物の出現も程よい頻度で、初心者冒険者でも安全に活動できるよう「調整」されているかのようだ。
リオスは、自身の視界の片隅に表示されるステータスウィンドウを無意識に眺めていた。自身の剣術熟練度ERRORの表示の下に、「取得スキル」や「所持アイテム」といった項目が並ぶ。これらは、彼がこの世界に生まれた時から、自然に存在していたものだ。
人々は、自身の肉体を鍛えることで「身体能力」を高め、特定の「訓練」を積むことで「剣技」や属性魔法を身につける。それらを総じて「スキル」と呼び、誰もがその獲得と成長を自らの「努力」の賜物と信じていた。だが、彼は剣術を極めることはできても、魔法の才は一切持ち合わせていなかった。その「システム」は、なぜ存在するのか?彼の「歪み」の感覚は、この疑問を深くえぐり始めた。
森の奥へ進むと、遠くから、澄んだ歌声が聞こえてきた。その声は、森の鳥のさえずりや、風の音と見事に調和し、リオスの心に静かな安らぎをもたらす。
その歌声の主が誰なのか、リオスはすぐに察した。
木漏れ日が差し込む林の中、そこにソラがいた。彼女はエテルナ草の群生地で、楽しそうに歌いながら薬草を摘んでいる。その周囲には、彼女の歌声に惹きつけられたかのように、小さな森の動物たちが集まっていた。
彼女の指先からは、薄緑色の柔らかな光が発せられ、それが摘み取られたばかりの薬草を優しく包み込んでいる。それは、リオスが孤島で目にした彼女の「治癒魔法」の光だった。
リオスは、ソラに近づいて声をかけた。
「ソラ、やはり君だったか」
ソラは驚いて顔を上げた。リオスの姿を認めると、彼女の瞳が嬉しそうに輝いた。
「リオスさん!こんなところで会えるなんて!孤島を出てきたんですね!」
彼女の屈託のない笑顔は、リオスの胸中に響く「歪み」のノイズを、一瞬だけ忘れさせた。
リオスは、手に持っていた依頼書をソラに見せた。「君の依頼を受けて、ここまで来た」
ソラは目を丸くして、それからくすくす笑った。「まあ、偶然ね!ありがとう、助かるわ!」
彼女は摘み取った薬草をリオスの採集籠に移しながら言った。
「ねえ、リオスさん。この街に来てみてどう?やっぱり、この世界、どこか変だと思わない?」
ソラの言葉に、リオスの「歪み」の感覚が強く共鳴した。彼は頷いた。
「ああ。全てが……あまりに完璧すぎる。まるで、誰かが作った箱庭のようだ」
ソラは、静かに顔を上げた。その瞳は、楽しげな笑顔の奥に、深い憂いを宿していた。
「兄さんも言ってた。この世界は『私たちが見ているものだけじゃない』って。そして、『何か大きな力が、私たちの世界を動かしている』とも」
リオスの胸中で、「大きな力」という言葉が強く響いた。彼自身の剣術熟練度ERROR。視界に現れる数値や文字。そして、この街の完璧すぎる営み。全てが、一本の線で繋がり始めるような感覚に襲われる。
「君の兄は、一体何を……」
リオスが問いかけようとしたその時、森の奥から、乾いた金属音が響いた。チリン、チリン、とまるで鈴を鳴らすような不規則な音。それは、不穏な「歪み」のノイズと共に、リオスの耳に飛び込んできた。
ソラの顔色も、瞬時に青ざめる。
「この音は……!」
その音は、まるでどこかのシステムの不具合を告げるかのように、森の静寂を切り裂いていた。リオスの直感が叫ぶ。この音は、あのクリスタルを生み出した、異質な魔物のものだ。それも、以前遭遇したものよりも、はるかに強力な「歪み」を宿している。
リオスは素早く大剣を構えた。ソラもまた、採集籠を抱え直し、リオスの背中に隠れるように身を寄せた。
「来るぞ、ソラ。用心しろ」
リオスの視界の片隅で、彼の熟練度を示す数値が、不規則に点滅し始める。それは、彼が今から対峙する存在が、この世界の「システム」にとって、あるいは彼自身にとって、かつてない脅威となることを告げているかのようだった。