第92章 ― 聖域の灯に誓うキス
ミラクル・サンクタムの大広間の喧騒は、徐々に静まり返っていった。
リュウガの宣言の後、それぞれが自らの時間へと戻っていった。
瞑想にふける者、鍛錬に励む者、ただ嵐の前の静けさに身を委ねる者たち。
サンクタムの回廊は、星空を模したような青白い光に包まれ、穏やかで温かな空間を作り出していた。
リュウガは無言で内庭を歩いていた。
そこは自然の植生と小さな木々が再現された区域で、石の小道が静かに延びていた。
濡れた葉の表面に灯る光がきらめき、ほのかに湿った土の匂いが漂っていた。
彼は小さな泉の前で立ち止まり、水面に映る自分の姿をじっと見つめた。
これから訪れる出来事の重圧が、胸にずっしりとのしかかっていた。
「眠れないの?」
背後から、聞き慣れた声がした。
振り返ると、そこにはセレステがいた。
彼女は軽やかな衣をまとい、長い金髪を揺らしながら優雅に歩いてきた。
その瞳は静かに輝き、足取りはまるで空気をすべるように音もなく近づいてきた。
「君こそ、眠れないんじゃないか?」
リュウガは微笑みながら答えた。
「考えてたの。」
セレステは彼の隣に立ち、泉の水面を見つめた。
「今までのこと、そしてこれからのこと…。
時々、これは夢なんじゃないかって思うの。
目を覚ましたら全部消えていて…あなたもいなくなってるんじゃないかって。」
リュウガは、彼女の瞳を見つめた。
「俺は消えない。
君がここにいる限り、絶対に。」
ふたりの間に、静かで濃密な沈黙が流れた。
泉の水音だけが、その沈黙をやさしく彩っていた。
「最初のキス、ヴェルに先を越されたわね。」
唐突に、セレステが微笑みながら言った。
リュウガは目を見開いた。
「えっ?」
セレステの頬が、ほんのりと赤く染まる。
「わかってるわ。あの子はいつだってストレートだし、あの時は勢いだった。
でも、あれであなたが彼女の婚約者になったわけじゃない。」
そう言うと、彼女の瞳にわずかに悪戯っぽい光が宿った。
「セレステ…」
彼女はさらに一歩近づいた。
息が触れ合う距離――リュウガは、彼女の体温を感じた。
「でもね、本当の愛って、戦いも、傷も、言葉も…全部を分かち合うことだと思うの。
そう考えると、私たちって、もう誰より深く繋がってると思わない?」
彼女の手がリュウガの頬にそっと触れた。指先はやさしく、震えていた。
「だから…もう、誰かに先を越されるつもりはないの。」
そして彼女は、言葉を重ねることなく――リュウガに口づけた。
そのキスは、長く、深く、熱を含みながらもやさしかった。
溜め込まれた想いがすべて込められていた。
それは衝動ではなく、告白でもなく――選択だった。
リュウガも応えた。
彼女をそっと抱きしめ、その温もり、鼓動、存在すべてを確かめた。
この瞬間だけは、テオ王国も、戦争も存在しなかった。
そこにあったのは、聖域の灯りに包まれたふたりの心だけだった。
唇を離したとき、セレステは少し息を乱しながら微笑んだ。
「…これで一勝一敗、かな?」
リュウガは小さく笑い、彼女の額にそっと自分の額を重ねた。
「いや…これは本物だ。忘れないよ、絶対に。」
「生きて帰るって約束はいらないの。」
セレステは、そっと言った。
「ただ…戦い続けるって誓って。
あなたが倒れるなら、私は一緒に倒れる。」
リュウガは彼女の髪をなで、そして初めて、涙を流した。
それは弱さではなく、強さからあふれ出た涙だった。
「…約束する。終わらせよう、ふたりで。」
その夜――
人工の星空の下で、
ふたりの心がひとつになった。
それは、戦火をも超える、確かな絆の誓いだった。
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