第78章 – 眠れる王国の残響(ねむれるおうこくのざんきょう)
霧はすでに後方に消えていた。
目の前に広がるのは、完璧に保存された都市。
石畳の道、満開の庭園、洗練された建築――まるで時が止まった楽園だった。
完璧すぎるほどに。
街路は清潔に整えられ、木々は数ミリの誤差もないほど刈り揃えられている。
魔法灯が優しく一定の光を放ち、空気には音楽が絶えず流れていた。
だが――何かがおかしい。
決定的に、おかしい。
ライガたちは魔法による迷彩のベールに包まれ、気配を殺して街の中を歩いていた。
市民たちは、誰一人として“外れて”いない。
全員が、同じテンポで歩き、同じ笑みを浮かべ、同じ言葉を繰り返していた。
「おはようございます。テオの光があなたにあらんことを」
「朝の輝きの果物は、もうお試しですか?」
「秩序は調和をもたらし、調和は祝福なり」
それらの声は優しく響くが、中身は空っぽだった。
魂を込めた言葉ではなく、ただ口が音を発しているだけ。
子どもたちの笑い声でさえ、機械的に“模倣された幸福”のようだった。
アイオが奥歯を噛み締める。
「……これ……前と……同じ……」
最後まで言えなかった。
ウェンディが、霞む視線のまま呟く。
「美しいのに……
まるで、中身が空っぽの人形みたい」
カグヤはバルコニーの影から周囲を観察しながら、低く呟いた。
「美というものは、最も残酷な仮面になり得る」
セレステの背筋に寒気が走る。
公園で遊ぶ子どもたちに近づいた大人が一言発すると――
全員が同時に、まったく同じ角度で振り向き、同じ笑みを浮かべた。
「……あり得ない」
ヴェルが冷静に言葉を続ける。
「これは通常の魔法じゃない。
意志を直接侵す支配だ」
リールが、エオンの隣でささやいた。
「師匠……これは王国じゃない……舞台だ」
エオンは細めた目で静かに答える。
「いや、これは……残響だ。
かつて“人間”だった何かの、名残だ」
プリティウムは壁にもたれ、感情の抜けた恋人同士のペアを見つめながら言う。
「……どれくらい、こうして生きてるんだ?
自分が誰だったか、まだ覚えてる奴はいるのか……」
メグミが小さく震える声で尋ねた。
「……もし、彼らが“救われたくない”としたら……?」
ライガは拳を握りしめる。
「なら……今の望みではなく、かつての彼らの意志のために戦う」
そのとき。
細い路地に入った瞬間、上空から金属的な警報音が響いた。
高塔の一つが、警戒信号を発したのだ。
ライガの声が鋭く走る。
「伏せろ!」
彼は即座に第二層の迷彩魔法を発動。
グループ全体が“幻想の影”で包まれ、霊的センサーすらも欺く。
その瞬間、上空を巡回型オートマトンが通過する。
人ではない。
光る球体の頭部を持つ、空中浮遊型の監視兵器だった。
「エネルギー純度:92%。逸脱を検出中」
「第4区、服従強化プロセス:完了」
アンは息を止めた。
たった一つの動作で、迷彩が破られる。
……通り過ぎた。
再び沈黙が訪れる。
ライガは慎重に体を起こす。
「……これは、“ガラスの檻”だ。
鎖も牢も見えないが、全員が閉じ込められてる」
セレステが問う。
「……どうするの?」
ライガは中央広場にそびえる建物を指差した。
空中に魔法記号が浮かぶその場所は――王国評議会本部。
「ここに入る。
もし、この王国が何かを隠してるなら――
その“人工の心臓”の中にあるはずだ」
ウェンディは静かに頷いた。
「誰か……まだ記憶を保ってる者がいるなら――
連れ戻してみせる」
ライガは空を見上げた。
雲ひとつない、無機質な空。
昼も夜も消えた、均一に調整された光だけがそこにあった。
「行こう。
この都市に、俺たち自身まで飲み込まれる前に」