第66章 ― 火花と種
ゴシン号の廊下には、夜の静寂が満ちていた。まるで船そのものが、夜の静けさを尊重しているかのようだった。甲板を越えた先、浮遊する結晶が飾られた半透明のドームの下に、「マナの古書館」と呼ばれる場所があった。そこは、何世紀も触れられていない知識が眠る、静かな聖域だった。
その中心で、開かれた古文書や、虹色に輝く液体の入った瓶、巻物に走り書きされた魔法式に囲まれて、ウェンディが熱心に学んでいた。髪は無造作に三つ編みにまとめられ、肩に垂れていた。リネンのワンピースの上に白衣を羽織り、手には「凝縮光」で作られた光の羽ペンが輝いていた。
主卓の中央には、何度も繰り返し書かれたある単語があった。
「メイディシナ(medicina)」
「魔力を使わないのに……」
ウェンディは興味深く呟いた。
「それでも治す力がある。こんな原始的なものが、こんなにも力を持つなんて……」
彼女はページを慎重にめくった。まるで一枚一枚に、この世界の秘密が隠されているかのように。
その時だった。扉が静かに開く音がした。黒いマントを羽織った人物が、そっと部屋へ入ってきた。船内の通気による微風にマントが揺れる。リュウガだった。
「まだ起きてるんだな」
彼は静かに笑いかけた。
「何か面白い発見でもあったか?」
ウェンディは顔を上げた。その目はまるで、世界を新しく捉えた錬金術師のような輝きを持っていた。
「たくさんありすぎて困るくらい。でも、特にこれ。“メイディシナ”。マナも魔法も使わずに効果を出す仕組み。まるで、科学と信仰が手を取り合ってるみたいなの」
リュウガはゆっくり近づき、腕を組みながら、彼女の書いた図やメモ、人間の臓器のスケッチ、即席の化学式を眺めた。
「こういうの、いつから興味持ってたんだ?」
「あなたが私に“居場所”をくれた時から」
ウェンディはまっすぐに答えた。
「それまでは、生き延びるだけだった。でも今は、理解したい。助けたい。……もし、これが誰かを救えるなら、眠れない夜なんて惜しくない」
ふたりの間に、一瞬だけ、張りつめたような沈黙が流れた。
「……行く前に、お願いがあるの」
彼女は小さく声を落とした。
リュウガが立ち止まる。
「言ってごらん」
ウェンディは深く息を吸った。そして、目を逸らさずに言った。
「私にも、“アンロック”を使ってほしい。みんなにしたように」
リュウガの顔から、すっと笑みが消え、真剣な表情に変わった。
「ウェンディ……アンロックは、誰にでも同じように作用するわけじゃない。カグヤは即座に覚醒した。セレステは中間くらいだった。アン、アイオ、メガミに至っては、何日も、何週間もかかった。これは魔法の鍵じゃない。時にそれは“火花”。あるいは“種”なんだ」
「それでもいい」
彼女ははっきりと言った。
「どれだけ時間がかかってもいい。自分の中に何があるか、知りたい。私は……成長したい」
リュウガは黙って彼女を見つめた。
その瞬間、まるで世界が応えるように、浮遊スクリーンが彼の前に現れた。
【アンロック可能対象:ウェンディ】
アンロックを開始しますか?
彼は、わずかに笑った。
「もう一歩は踏み出してたみたいだな」
彼は二本の指でアイコンをタップした。
一瞬、純白の光がウェンディを包み込む。空気が振動し、図書館にそよ風のような揺らぎが走った。古書のページがふわりと舞い、まるで何かが目覚めたように揺れた。
だが――それだけだった。
印も、変化もない。ただ心臓の鼓動が早まったウェンディが、そこに静かに立っていた。
「……これで、起動したの?」
落胆ではなく、純粋な疑問を口にした。
「そうだ」
リュウガは静かに答えた。
「でも君の場合……ゆっくりだ。とてもゆっくりかもしれない。地中深くに埋められた種が、完璧な雨を待つように。だが、必ず芽を出す」
ウェンディは微笑んだ。その笑みには、もう不安も、遠慮もなかった。
「じゃあ、私は待つ。でも、何もせずにじゃない。研究し続ける。学び続ける。そして芽が出たら……必ず意味あるものにしてみせる」
リュウガは踵を返し、部屋を出ようとした。その手が扉に触れる直前――
「その時が来たら、ウェンディ……君は、ただの仲間じゃなくなる。灯台になるんだ」
彼の言葉に、ウェンディの胸の奥で何かがふっと灯った。それは、魔法でも科学でもなかった。
――信じる力だった.