第53章:影と赤ずきん
ガレオン・ゴシンは静かに夜空を漂っていた。星々が煌めく空の下、船は穏やかに進む。
その外部デッキの一角、プレティウムは金属の欄干にもたれ、遥か遠く、徐々に消えゆく森の影を見つめていた。
その瞳は半分だけ開かれていた。疲れているわけではない。ただ、それが彼にとっての「いつもの」ことだった。
背後から、柔らかな足音が甲板に響いた。
「……ここ、座ってもいい?」
アンの声だった。
戦闘時のマントを脱ぎ、髪をおろし、まだ疲れの残る瞳に、しかし揺るがぬ意志の光を宿していた。
プレティウムは振り向かない。
「好きにしろ」
それだけを言った。
アンは彼の隣、金属の縁に腰を下ろした。風が彼女の髪をさらう。二人はしばらく、沈黙のまま遠くを見つめていた。
やがて、アンが口を開いた。
「……ずっと一人だったの?」
プレティウムはほんのわずかに眉をひそめた。
「それが何だ」
「わからない」
アンは正直に答えた。
「ただ……誰かがすごく強く殴るときって、たぶん、世界に抱きしめられたくないからなんじゃないかって」
彼は短く乾いた笑いをもらした。
「おとぎ話で学んだことか?」
「違うよ」
アンは静かに微笑んだ。
「あなたと戦って、そう感じたの」
プレティウムは少しだけ目を伏せた。何かが、心の奥で動いたようだった。
「お前は知らないだろう……すべてを失うってことを。親も、家も、仲間も。……魂さえも」
「知ってる」
アンの声は震えていた。
「あなたが私を見つけた時、私は……もう自分の魂を持ってなかった。ただの灰色の世界で、愛も憎しみもなくて、空っぽだった」
彼はゆっくりと振り返り、初めて彼女をまっすぐ見た。
「なら知ってるはずだ。あの空虚さに救いなんてないって」
「でも私は……そこから戻ってきた!」
アンの目に涙が浮かんだ。
「私にできたなら、ママにもできる!」
プレティウムは数秒彼女を見つめたまま、静かに問いかける。
「……もし、もうその身体に“彼女”がいなかったら?」
アンは一瞬うつむく。けれどすぐに背筋を伸ばす。
「……それでも、毎日、毎秒、私は戦う。彼女の光を取り戻すために」
プレティウムはわずかに息を吐いた。そして無言で戦闘用の手袋を外す。
その手には、無数の傷跡があった。物理的なものだけではない。魔法の火傷。儀式の痕。もっと深い、言葉にできない傷。
「……俺には妹がいた」
彼は唐突に言った。
アンは驚いて目を見開いた。
「……え?」
「小さな子だった。お前みたいに、鬱陶しいほど明るくて……いつも俺の後をついてきてた。でも……」
彼は長い沈黙を挟んだ。
「……世界に呑まれた」
「……失ったの?」
「いや、違う。彼女は……俺が受け入れられなかった側を選んだ。“まだ救いがある”と信じる者たちの側を。そして……死んだ」
アンは目を伏せた。そして、静かに呟いた。
「……じゃあ、私は……あなたが憎んだものと、あなたが失ったものを……両方持ってるのかもしれないね」
プレティウムは彼女を見た。
「……かもしれんな」
しばらく、言葉は途切れた。
空には星がまたたき続けている。
やがて、アンが口を開いた。
「一緒に戦ってくれて……ありがとう。子ども扱いしないでくれて」
「別にお前のためじゃない」
プレティウムは素っ気なく言った。
「“可能性”のためだ」
「どんな可能性?」
「……たまには、お前みたいな奴が正しくて、俺が間違ってる……そんなことがあっても、いいかもしれないって」
アンはそっと笑った。そして立ち上がる。
「おやすみ、プレティウム」
「……アン」
彼が背後から呼び止めた。
アンは足を止め、振り返る。
「なに?」
「油断するな。……夢に対しても。夢ってやつは、時々……噛みついてくる」
アンはゆっくりと頷いた。
「じゃあ、私はその夢を……マントで包んで守る」
そして、彼女は去っていった。
プレティウムは、再びひとりになった。
だが今夜は、風が前ほど冷たくなかった。
「……うるさくて、頑固で、勇敢なやつめ」
彼は小さく呟いた。
「……もう少し、そばにいても……悪くないかもな」