第303章 – 「沈黙の代償」
夜が鉱山地帯を包み込み、瓦礫の煙が香の柱のように、倒れた者たちの上へと立ち昇っていた。
呻き声を上げる者、ただ反射で呼吸を続ける者――。
アンは「緋の笛吹き」の姿で、手にした笛を持ちながら、静かに彼らの間を歩いていた。
風に揺れる彼女の髪。
やがて、空気を満たすように淡い旋律が流れ始めた。
青い光が彼女の笛から放たれ、負傷者たちの間を蛇のようにすり抜けながら、ある一人の意識が残る冒険者のもとへと辿り着く。
その肩には、別のギルドの紋章があった。
呼吸は乱れていたが、怯えきったその目はリュウガを見つめていた。
――大丈夫……――アンは優しく微笑みながら囁いた――
傷つけたりしない。私はただ……本物の歌を聴きたいの。
音はだんだんと緩やかになり、どこか催眠めいていた。
男の身体が緩み、瞳孔が広がっていく。
ウェンディが眉をひそめた。
――眠らせてるの? それとも洗脳してる?
セレステが淡々と答える。
――ただ、扉を開いてるだけ。
アンは男の前に膝をついた。
――なぜ、私たちを襲ったの?
男は数秒黙っていたが、ついに口を開く。
――金を……山ほどの金を約束された……。
――誰に?――と、低い声でリュウガが問う。
――わからない……北から来た使者が……「評議会の名のもとに」と……
お前たちをヴォルテルへ生かせてはいけない、と言っていた……
静寂が場を包んだ。
ミユキが拳を握りしめる。
――評議会……?
それって……女神も含まれるかもしれないってこと……。
セレステが彼女を横目で見たが、何も言わなかった。
その時、男の身体が痙攣し始める。
見えない力が、語られた記憶を消そうとしているかのようだった。
アンが音を止め、リュウガの方を振り向く。
――彼の思考が……閉じようとしてる!
リュウガが膝をつき、男のそばに手を伸ばした。
その瞬間、周囲の空気が振動し、彼の瞳が金と緋の混ざった光に輝いた。
――試してみる。
ミユキが一歩後ずさる。
――リュウガ……それは何を……?
彼は男の額に手を置いた。
――《リコード:ネメシス》を使う……
俺が、かつて「自分を忘れる前」に書いたプロトコルだ。
――記憶を操作するの?――とウェンディが尋ねる。
リュウガは集中したまま頷く。
――そうだ。だが、記憶を“明かす”こともできる。
二人の足元に魔法陣が現れ、回転を始める。
冒険者の悲鳴とともに、記憶の断片が閃光となって空中に映し出される。
フードをかぶった使者。
ヴォルテルの印章が押された金袋。
そして、その背後に佇む影――
金髪の女性。
神聖な気配を纏い、その存在を誰もが一瞬で理解する。
ミユキが口を手で覆う。
――それは……それは……女神の印……。
男の身体が力なく崩れ落ちる。
リュウガが手を離す。疲労に肩を落としながら言う。
――死んではいない。だが、彼の記憶は消去された。
もう何も、覚えていない。
セレステが冷たい目で彼を見た。
――あなたが今やったことは、奴らがしてきたことと同じよ。
それに気づいてる?
リュウガは彼女を見返し、静かに答える。
――気づいてる。
だが、女神が人の心を使うなら……誰かが、それを逆手に取る必要がある。
言葉の重みが、場に沈黙を落とす。
やがて、リュウガが立ち上がる。
――ここでの会話は終わりだ。誰が聞いてるかわからない。
――彼らは?――とカグヤが問う。
――鉱山の入り口まで戻す。監督者たちが見つけてくれるだろう。
俺たちの目的は、もう果たされた。
アイオとヴェルが頷き、転送リングを起動。
青い光が彼らを包み、負傷者たちは数秒でその場から消えた。
残響が静まった後、リュウガが仲間に向き直る。
――ここは終わりだ。
今は休め。食事を取れ。明日は……
――明日は、何が?――とウェンディが尋ねる。
――明日は……
「女神」、
「嘘」、
そして「自分の記憶じゃない記憶」について、話す。
ミユキは震えながら俯いた。
彼の言葉が正しいことを、彼女は痛いほど理解していた。
そして、自分の内にある“何か”が、どこか別の世界に属していることも……。
その夜、皆が眠りにつく中――
アンの笛の音が、再び静かに響いた。
それは、まるで自分のものではない罪を清めようとするような、
切なく優しい旋律だった。
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