第294章 ― 「人間という名の深淵」
冷たい風が、ヴォラスの黒き山々から吹き下ろしていた。
各パーティーは、それぞれに割り当てられたポータルの前で待機していた。空気は震えるように脈打ち、まるで生きているかのようだった。
遠くを見つめるセレステの視線の先には、ヴァースの一団がいた。白く輝く紋章を身に着け、あの日リュウガたちを見下ろした茶髪の少女が、機械のような正確さで手袋を調整している。
―あれが…女神の英雄たちか。 ―クロが軽蔑のこもった声で呟く― 自分たちが頂点だと思っていやがる。
ウェンディは静かだが毒を含んだ声で返した。
―あいつらは英雄じゃない。人々の目を逸らすために創られた偶像よ。
だが、リュウガは黙ったままだった。視線は、遥か彼方の地平線に向けられている。
―彼らは、この世界が崇める存在の象徴だ。…意味のない力。その化身。
―俺たちは、その逆だ。信仰のためじゃない…真実のために戦う。
仲間たちは静かに頷いた。だが、空気には明確な緊張が漂っていた。
ポータルが安定し始めると、冒険者たちはそれぞれに近づいていく。
祈る者。笑って恐怖を隠す者。
クリムゾン・ファングの一人が、リュウガに挑発的な視線を送った。
―どうした、新入り。入る前から死ぬのが怖いか?
リュウガは落ち着いた声で応じる。
―いいや。心配なのは…先に死ぬのが、お前たちだってことだ。
その場の笑いが止まった。空気が重くなる。
ギルドマスターでさえ、眉を上げた。
ヴェルが前に出て、冷たい美しさを保ちながら告げた。
―傲慢は、常に滅びの前触れ。
冒険者は地面に唾を吐き捨てる。
―お前らがバラバラになって死んだとき、ちゃんとそのセリフを思い出してやるよ、ユニコーンさんよ。
場が爆発しそうになったその瞬間、セレステが割って入る。
―やめて。真の敵は、あの深淵の中にいるわ。
だが誰もが心の中で理解していた。
敵はもうそこにいる。
深淵が試すのは、力だけではない――「人間性」そのものだ。
ついにポータルが開かれた。
地面が震え、青白い光が渦を巻く。各チームがその中へと吸い込まれていった。
一瞬で、世界は変わった。
空は存在しなかった。
太陽は、岩肌から放たれる紫色の輝きに取って代わられていた。
空気は錆と腐敗の匂いに満ちている。
ウェンディがゴーグルを起動する。
―魔力放射線フィールド確認。深呼吸は避けて。
カグヤが舌打ちした。
―いい死に場所ね。
スティアが重火器とセンサーを展開。
―追跡モード起動。だが干渉が激しい…多すぎる。
リシアが弓を構え、影を見つめる。
―動きがある。風じゃない。
セレステは手をかざし、緑色の光を放つクリスタルを具現化する。
―この遺跡…生きてる。私たちを見てる。
遠く、シルバー・ハウルとクリムゾン・ファングの旗印が、中心部へと進んでいくのが見えた。
クロが唸る。
―あいつら、真正面から行く気か。進路を塞ぐ気だな。
リュウガは頷く。
―鉱石が目的じゃない。競争者の排除だ。
セレステが鋭く言う。
―なら…回避するか、ここで叩くか。
その場に沈黙が落ちた。
リシアが静かに言った。
―避ければ時間を失う。戦えば、全滅の可能性もある。
長い沈黙。
やがてリュウガが決める。
―中間ルートを行く。もし奴らが仕掛けてくるなら応じる。だが…こちらからは乗らない。
ウェンディは彼の顔を見つめた。
疲れを滲ませつつも、決意に満ちた目。
この男が戦うのは、名誉でも勝利でもない――
世界が目を逸らしてきた「真実」のためだ。
リュウガたちが闇の中へと進んでいく一方、
ヴァースの一団は、浮遊する岩の丘からそれを見下ろしていた。
茶髪の少女が、無機質な口調でつぶやく。
―対象:リュウガ…他とは異質。
その横で、ヴァースのリーダー、銀髪の英雄が感情のない笑みを浮かべる。
―だからこそ――女神は、彼を排除したがっている。
その瞬間、ヴォラスの空が揺らいだ。
まるで、深淵そのものがその言葉を聞き届けたかのように。
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