第280章 ――「ヴァースという名」
奇妙な少女が立ち去った後も、酒場の空気は張り詰めたままだった。
まるで彼女の影だけが、まだその場に座っているかのように。
フローラは鋭い目つきで扉の方を見つめ、腕を組んだ。
「……あれは人間じゃないわ」
小声で呟くその言葉には、確かな恐れが滲んでいた。
「もし本当に人間だったのなら――中身を誰かに抜き取られてる」
誰も返事をしなかった。
沈黙の中、リュウガが一歩前に出て、震える村人たちを見渡す。
「……あの少女は誰だ?」
白髪まじりの老人が、ゆっくりと顔を上げた。
「彼女は……ヴァースの一員だ」
クロウが剣の柄に手を伸ばしながら眉をひそめた。
「ヴァース? それは名前か、それとも脅し文句か?」
居酒屋の主人が、扉の方を警戒するように視線を走らせ、声をひそめて答えた。
「両方さ。ヴァースは最上級の冒険者集団だ。全員がSランク以上……国にも属さず、ヴォルテルでさえ彼らに命令はできん」
ベルが驚きの表情で前に出る。
「そのリーダーは……誰なの?」
「英雄さ。伝説にも登場するような存在だ」
老人は、どこか呆然とした目で言った。
「彼はこの地の人間ではないが、ヴォルテルは彼に王のような扱いをしている」
ウェンディが腕を組みながら眉をひそめた。
「つまり、その英雄はヴォルテルのために戦っているってこと?」
「それもわからない。ただ一つ確かなのは……ヴァースが現れる時、それは"干渉するな"という意思表示だ」
リシアは目を伏せた。
「じゃああのオートマタの少女は……警告だったのね」
アイオは自分の体を抱きしめるようにして震えながら呟いた。
「私たちのこと……ただの障害物として見てたのかも」
リュウガは沈黙したまま、扉をじっと見つめていた。
あの力はただの暴力ではなかった。冷たい規律。計算された恐怖。
ヴァース――
その名に、心当たりがあった。
記憶の奥、歪んだ夢の中で誰かが呟いていた。
「ヴァース……忘却の直前に立つ者たち」
敵なのか。
それとも、もっと大きな闇の中の、ただの歯車なのか。
クロウが低く呟いた。
「奴らと交戦すれば……これは単なる戦いじゃ済まない」
ベルがその言葉を引き継ぐ。
「それは……宣戦布告よ」
リュウガはゆっくりとうなずいた。
ヴァース
名乗られぬその名前は、今やその場にいる全員の心に――重い審判のように、深く刻まれた。
ご希望であれば、ナレーション風やライトノベル形式にも調整可能です!
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