第21章 ― 危機の縁にて
陰謀の残響は、見える境界を越えて響いている。
一見「単純な任務」に思われたものは、
やがて見えざる誰かによって動かされる盤上の駒へと変わっていく――まるで、影の奥から誰かが全てを操っているかのように。
この章で、リュウガとその仲間たちは次の一歩を踏み出す。
それは――未知なる領域への一歩であった。
淡い暁の光がエレイノールの塔を琥珀色に染め、第一陣の鐘が石畳の路地に鳴り響いていた。城の中央中庭では、リュウガが新たな遠征用装備の篭手を調整していた。銀の留め具で留められた暗色のマントは、砂塵に強く、魔力探知を遮断する魔法が施されている。
その隣では、セレステが金の装飾をあしらった白の装束に身を包み、長い髪を細いリボンで編んでいた。カグヤは密着した旅装束を纏い、武器の隠し鞘を備えている。彼女の目は鋭く、張り詰めた空気を感じ取っていた。
嵐の前の静けさ。
「準備はできているか?」
鋭い声が響いた。
アルウェナ・ファルケンラスが規律正しい足取りで現れる。彼女の黒い軍参謀装束は朝の光に照らされ、腰には巻物の筒と刻まれた魔石の腕輪が下がっていた。
「評議会は兵を出すことを拒んだ」
淡々と語る彼女に、リュウガが顔を向ける。
すでに王子が立っていた。乱れた金髪に軽装の鎧、そして静かな魔力を秘めた槍を手にする。彼の視線がリュウガと交差した。
「塔の上で傍観することはできなかった」
その声は揺るぎなかった。
「姉は国境を守る。私はこの民の心を守るために戦う」
そこへヴェルミラがリシアを伴い現れる。短いドレスに革のブーツ、まだ腕に包帯を巻いているものの、その瞳には強い意志が宿っていた。
「無事に戻ってきてね」
ヴェルは優しくリュウガに微笑む。
「帰ってこなければ、今夜踊る相手がいなくなるから」
セレステは唇を引き結び、カグヤは視線をそらした。
リシアは一礼しながら告げる。
「外の世界に惑わされないで。見慣れた顔の裏に潜むものもある。ハルクルたちは…剣だけで殺すとは限らない」
リュウガは静かに頷いた。
「ありがとう。あなたたちも無事で」
その時、クロが現れた。アンとアイオを連れて。少女たちは灰色のフード付きマントを纏い、アイオは首から小さな魔導タブレットを提げ、アンは手のひらに輝く球体を持っていた。
「私たちは市内で監視する」
クロの声は低く落ち着いていた。
「何かあれば信号を送る」
リュウガは薄く笑みを浮かべた。
「君たちを信じてる。もし城で何か起きたら…頼んだ」
セレステは少女たちを抱きしめる。
「無茶しないで。指示を待って」
カグヤはクロをじっと見た。
「一部の貴族より、あなたの方がよほど信頼できる」
クロはうなずくだけだった。無駄のない、確かな動き。
重厚な音を立てて大門が開かれる。冷たい風が彼らの顔を撫でる。新たな局面への道が、今開かれた。霧に包まれた丘がその先に広がる。
「行くぞ」
アルウェナが命じる。
「この静けさは…長すぎる」
そして、灰色に染まり始めた空の下、リュウガ、セレステ、カグヤ、アルウェナ、そして王子は歩を進めた。
彼らの一歩一歩が、すでに誰かに見られているとも知らずに。
そしてこの戦いは、彼らが到着する遥か前から…すでに始まっていたのだった。
馬車の揺れが、古びた石畳の上でこだまし、道のひび割れに生えた苔によってわずかに和らげられていた。エレイノールの兵士に導かれ、壮麗で静かな馬たちが進んでいく。リュウガは先頭の馬車に乗り、セレステ、カグヤ、アルウェナ、そして王子と共に座っていた。
自由な行動を好む彼だったが、今回は王家の指揮下での任務ということで、渋々ながらも状況を受け入れていた。王国評議会の戦略家であるアルウェナの同行は、厳密な手順に従うことを意味していた。
「誤解しないでほしい」
車窓から景色を鋭く見つめながら、アルウェナが口を開く。
「これらの方法が窮屈なのは分かってる。でも秩序なき動きでは、評議会に対して何も説明できなくなる」
カグヤは腕を組み、鼻で笑った。
「説明って何よ? 命を救うこと? 敵はそんなルールなんて守らない」
「時には……敵が誰かすら、分かっていないこともある」
アルウェナの言葉は含みを持っていた。
リュウガは横目で彼女を見たが、何も言わなかった。
そのとき、前方から急ぎ足で一人の騎兵が駆け寄ってきた。王国の斥候だった。
「アルウェナ司令!」
息を切らしながら兵士が叫ぶ。
「敵の動向を確認しました! 境界ではなく、東のエララン古森の遺跡へ向かっています!」
王子が眉をひそめた。
「ハルクルか?」
「はい。旗が確認されました……しかし、それだけではありません。待ち伏せの準備をしているという報告も。おそらく、誰かを待っているのです」
「私たちを……?」
セレステが驚いた声を上げた。
「直接的な証拠はありません。ただ、まるで重要人物か、無防備な相手を狙っているような動きです」
リュウガは拳を握り、目を細めた。
「俺たちを狩っているのか……それとも、見つけさせたかったのか」
「その両方かもしれない」
アルウェナが険しい顔で答える。
「これは常識を超えている。エレイノール王国に正面から挑むのは狂気の沙汰……彼らが恐れを捨てたのか、あるいは何か別の力を手にしたのか」
「なぜここまでの状況になった?」
リュウガは彼女をにらみつけるように問いかける。
「どうして、こんなに正確に攻撃を仕掛けられるまでになったんだ?」
車内に一瞬の静寂が満ちた。
やがて、アルウェナが低い声で答えた。
「分からない。供給路、記録、裏切り者の動き、すべてを洗った……でも、何も合致しない。まるで、見えない盤面で誰かが駒を動かしているようだ」
カグヤは視線を落とし、沈思する。
「もしかして……これは王国だけの問題じゃない? もっと大きな何かが絡んでるのかも」
「可能性はある」
アルウェナは即答した。
「でも今のところ、あるのは傷跡と疑念だけだ」
セレステがリュウガに身を寄せ、ささやく。
「もしこの待ち伏せが……罠じゃなく、何かの『合図』だったら?」
リュウガはすぐには返事をしなかった。遠くの森に立ち昇る霧を見つめながら、歯を食いしばった。
「ならば、その言葉を聞くために……血をかき分けてでも進むしかない」
王子は頷いた。その表情はすでに覚悟を宿していた。
「共に戦おう。だが、もしこれが戦争になるのなら……ただの戦では済まないだろう」
風が、重くなった。
エラランの古き森の木々の間に――
彼らを待ち受けていたのは、敵だけではなかった。
記憶。
過ち。
そして、大陸の運命を揺るがす「選択」。
霧の中を見つめながら馬車を降りたリュウガは、確かに感じていた。
――崩壊の危機にあると思われたものは、すでに内側から静かに崩れ始めていたのだと。