第114章 私は誰…?
沈黙を破る“真実”は、必ずしも安らぎをもたらさない。
アンは知ることになる。
——心でさえ、まだ受け入れる準備ができていなかった“それ”を。
すべてが――燃えていた。
空気は静まり返り、
戦いは終わった。
だが、傷跡は消えなかった。
地に。
血に。
心に。
アンは苦しげに息をしながら、
ひび割れた大地に手をつき、震えていた。
白鳥姫の翼はすでに消えていた。
アイオが肩を支える。
ウェンディは何も言わなかった。
ただ、静かに見つめていた。
背負いきれないものを抱えながら。
そして——
アンの心に、囁きが走った。
「……どこにいるの……?
……ママ……? パパ……?」
世界が、滲んでいく。
すべてが――白に染まる。
瓦礫から煙が立ち上がり、空は灰を流す涙のようだった。
アンは血に染まり、膝をついていた。
その胸は乱れ、視線は虚ろだった。
その名。
その真実。
その痛み。
彼女の前に、
暗い影が空を背に立ち塞がっていた。
ヨル。
怪物。
裏切り者。
殺人者。
――かつて彼女の世界を奪った男。
「……あなたが……?」
アンの声は震えていた。
「私の両親を殺したのは……あなたなの?」
ヨルは顔を伏せた。
そこに喜びはなかった。
ただ――確信だけがあった。
「……そうだ。」
空気が凍りついた。
アイオが震える。
ウェンディは口を手で覆い、
ゆっくりと首を横に振る。
まるで、答えを否定したいかのように。
アンは、震える足で立ち上がる。
翼は、光の残像を残しながら消えていった。
体は痛みを訴える。
だが、魂のほうがずっと痛かった。
「……私も……殺すつもりだったの……?」
ヨルは彼女を見つめた。
その沈黙は、言葉以上の重みを持っていた。
そして、答えた。
「……そう思ったこともあった。
だが、やめた。
お前には……誰かに任せたかった。」
「なに……?」
——青い空。
——風に揺れる黄金の麦畑。
——花の香りと、子どもの笑い声。
「アン! 遠くに行っちゃダメよー!」
母の声。蜜のように甘く。
「パパ! ママ! 見て! 白い蝶だよー!」
ピンクのドレスを着た、小さなアン。
命に満ちた瞳。
両親は、あまりにも温かく、そして確かに存在していた。
そして、その記憶の中に――
一人の若者が歩いてくる。
貴族の服をまとい、
顔をまだ隠していないヨル。
両親の顔が強ばる。
「……ヨル?」
父が言った。
「どうしてここに?」
ヨルは微笑まなかった。
その目には、虚無だけが宿っていた。
「……別れを言いに来た。」
記憶の中のアンが、無邪気に駆け寄る。
「ヨル! あそぼ!」
ヨルはしゃがみこみ、彼女の顔に手を添えた。
「……アン。
お前は、ここにいてはいけない。
……これから起きることの時には。」
「え……?」
そして記憶が――壊れた。
叫び声。
闇。
野が赤に染まる。
アンは、一人。
ヨルが顔を傾ける。
「すでにいた。
操りやすい女が。
孤独で、空虚な……“母親役”にふさわしい者が。」
アンの視線が、ゆっくりとウェンディへと向けられる。
彼女は動けなかった。
目を見開き、顔から血の気が引いていた。
一筋の涙が、頬を伝う。
「……いや……」
アンが呟く。
ヨルが一歩前に出る。
「彼女はお前の母ではない。
ただの道具だ。」
「黙れええええ!!!」
ウェンディが絶叫する。
その声は、砕けていた。
「私は……知らなかった……!
ただ……」
彼女は膝をつく。
その体は、止まらぬ震えを見せていた。
「私はただ……育てた……守った……
食事を作って……抱きしめて……
愛したのよ、アン!
本当の娘のように……!」
ヨルは、冷たい微笑を浮かべる。
「感情を植え付けただけ。
それ以上でも以下でもない。」
「もういいッ!!」
アンの声は、もはや人間のものではなかった。
「黙って……!
お前に、語る資格なんか……ない!!」
アイオが近づこうとするも、言葉は出ない。
ウェンディは顔を覆って泣いていた。
後悔。
罪悪感。
自己否定。
「知らなかったのよ……!
全部、夢みたいだった……
でも……
一緒に過ごした毎日は、本当に生きてたって感じたの……!
でも、それが嘘だったなら……!」
彼女は崩れるように身を縮めた。
だが、その肩を抱く腕があった。
アン。
血まみれの手で、
壊れかけの心で——
強く抱きしめた。
「それは、嘘じゃなかった。」
ウェンディは動けなくなった。
「……アン……」
「あなたがしてくれたことは、全部……本物だった。
たとえ母親じゃなくても……
あなたがくれた愛は、本当だった。
そしてそれは、誰にも奪えない。」
ウェンディは泣き崩れ、
アンにしがみつく。
まるで、失くした娘に出会えたかのように。
ヨルは黙ってその様子を見下ろしていた。
まるで、
理解の及ばぬ世界を眺める闇の神。
「……それで意味があると思うのか?」
その声は氷のように冷たかった。
「偽者を抱きしめて、出自を消せるとでも?」
アンは顔を上げた。
その瞳には——
憎しみも復讐もなかった。
ただ、確かな決意だけがあった。
「……それは、あなたには一生理解できないこと。
あなたは、すべてを捨てた。
私は……捨てない。」
ヨルは口を開こうとしたが、
言葉が出なかった。
あの瞳の中に——
自分の中には存在しないはずの何かを見てしまった。
静寂。
焦げた葉を風が運ぶ。
そして、
灰の中で
偽りの母と、偽りの娘は、
決して壊せぬ絆で抱き合っていた。
ご閲覧ありがとうございました!
このシーンは、Annにとって最も痛ましくも大切な真実の瞬間でした。