第111章 ―「痛みの記憶、その残響」
魔法と鋼が、死にゆく惑星のように激突していた。
空からは雷光が降り注ぎ、
大地からは閃光がほとばしる。
すべては混沌。光と影。そして、意志だった。
アンは、白鳥の翼をはためかせ、
死と隣り合わせの空を生きた詩のように舞う。
アイオは、炎の隼となり、不可能な角度から斬り込む。
ウェンディは、剣を掲げ、無言の怒りで雷撃を受け止める。
リーフティとアズは、絶えず支援する。
盾、砲撃、戦術。すべてが調和していた。
そしてその嵐の中心で——
ヨルが、よろめいた。
灰色の仮面では、もはやその魂の亀裂を隠せなかった。
息は浅く、身体は粘り続けていた。
だが、心が——崩れ始めていた。
魔力の一撃。
正確な突き。
深く裂かれた傷。
そして——
記憶が、帰ってきた。
かつて、ある王子がいた。
その名は――ヨル。
テオ王国の正統なる後継者。
黄金の王国。幸福な民。
正義を貫く父母――ヴィレオンとエリサ。
幼き日々は、優しさに満ちた教えで彩られていた。
「支配しようとするな、ヨル」
母はよくそう言った。
「愛することを、学びなさい」
――ヨルは、愛した。
ヴィアム。
冒険の仲間であり、戦場の隣人であり、夢を語り合った相手。
彼女と、そして友人のラー。
三人は、切っても切れない絆で結ばれていた。
だが――
真実の瞬間が訪れた。
「……私と結婚してくれないか?」
「……ごめんなさい、ヨル。
私は……ラーを愛しているの」
その瞬間、王子の心は崩れた。
だが、顔には出さなかった。
笑顔を浮かべ、
結婚式では“立会人”として指輪を差し出した。
そして、自分自身に――別れを告げた。
時は流れる。
だが、傷は癒えなかった。
その頃、ヨルはある男に出会った。
名はオエル。
機械の知識に長けた旅の賢者。
両親の親友であり、自身の良き助言者でもあった。
「痛みから、新たなものを築ける」
彼はそう言った。
「でも……もう何も感じたくない」
ヨルが答えると、オエルは静かに首を振った。
「ならば、お前は……人間であることを捨てることになるぞ」
そして、堕落が始まった。
かつて理想を語っていた若き王子は、
少しずつ、姿を消していった。
宮殿での時間は減り、
彼は街へと足を運ぶようになった。
路地裏へ。
酒場へ。
そして……娼館へ。
そう、娼婦たち。
表情のない女たち。
嘘くさい声。空っぽな笑い。何も癒さない手。
「もう一杯いかがですか、殿下?」
誰かがそう言いながら、彼の上に跨ってくる。
それが嘲りか、日常か――もはや分からなかった。
ヨルは杯を掲げ、笑い、
自らを酒と肉体に溶かしていった。
一夜限りの相手を買い、
時には三日間、何も考えずに過ごした。
快楽は機械のように繰り返される。
だが痛みは、毎朝、必ず戻ってきた。
安酒の香り。
安物の香水。
交わった後の、果てしない虚無。
年月が過ぎても、
彼の中に“心から愛した記憶”は、もうなかった。
城には、読まれぬ手紙。
もう笑わない自画像。
彼の名を呼ぶことを恐れる使用人たち。
両親は、彼を探し続けた。
「どうしてそんなに遠ざかるの?」
母エリサが問いかける。
「私たちでも届かないほど……何がそんなに辛いの?」
父ヴィレオンが必死に訴えた。
だが、ヨルは答えなかった。
答えられなかった。
答えたくなかった。
彼は沈黙を選んだ。
そして、見知らぬ肉体を麻酔として用いた。
そしてある朝――
「私たちの娘が生まれました。
名前はアン。
“希望”にちなんで」
ヴィアムとラーからの手紙だった。
彼女らの子ども。
かつての仲間の未来。
ヨルは、泣いた。
叫ばず。
何も壊さず。
ただ……静かに、涙を流した。
会いに行かなかった。
抱きしめにも行かなかった。
偽りの笑顔すら、浮かべなかった。
その日、彼は悟った。
自分の中には、もう何も残っていないと。
やがて戦争が始まる。
ヨルは、北部戦線の指揮を任される。
だが――
彼は酒に酔い、
精神は朦朧とし、
心は……すでに失われていた。
命令は支離滅裂。
戦略は存在せず。
結果は、壊滅。
「見捨てられた!」
「死んだのは、あいつのせいだ!」
「王位を継ぐ資格などない!!」
両親は、彼を罰さなかった。
だが、彼自身が自分を裁いていた。
そしてその夜……
ヨルは、姿を消した。
歩く。
倒れる。
血を流す。
それが、何日も繰り返されたすべてだった。
そして――
荒廃した森の中。
一人のフードを被った人物が現れた。
「……まだ泣き続けたいか?
それとも……お前の痛みを、世界にも味わわせたいか?」
ヨルには、もう声がなかった。
あるのは、涙と、怒りだけ。
「……何も残っていないなら」
その声は、静かに続けた。
「すべてを捨てる時だ。」
「……何を、差し出せばいい?」
「お前の魂。
名前。
そして……人間であること。」
「……代わりに、何が手に入る?」
「裏切りのない世界。
感情のない世界。
痛みのない世界。」