第8章 セオ王国
血を流さぬ傷もある。
消えぬ記憶もある。
だが――
たとえ忘却の中にあっても…
希望は、そっとささやき続ける。
一行は、霧に包まれた小道を進んでいた。
霧はまるで生きているかのように木々の間を渦巻き、
森そのものが呼吸しているようだった。
葉のざわめきの中に、かすかに響く声――
古く、遠く、どこか勝ち誇ったようなささやき。
「……これは、“テオ”の残響か?」
視界は狭く、
一歩一歩が不確かだった。
保護された少女たちは、灰色の雨合羽に包まれ、
無表情のまま歩いていた。
かつてはかすかにでも返事をしていた彼女たちが、
今では――
ひび割れた声で、わずかにささやくだけ。
まるで何かが、心の奥から消えかけているかのように。
セレステは、黙って歩くリュウガの横に近づいた。
「……正面から、向き合わなきゃ」
リュウガは言葉なく、静かにうなずいた。
ギルドの建物は、石と彫刻された木で築かれた要塞のようにそびえていた。
堂々と、どっしりと。
その中で、ギルドマスターが彼らを待っていた。
その声は低く重く、
そのまなざしは、積み重ねた年月と共に、重みを持っていた。
「……マスター。
“テオ王国”についての情報が欲しい」
リュウガはまっすぐに告げた。
重い沈黙が、部屋を覆った。
「テオは……七年前に隔絶された」
ギルドマスターはゆっくり語り出す。
「突如として、すべての接触が断たれた。
魔法障壁の噂もあれば、大災害だという者もいる」
「記録は残っていませんか?」
セレステが眉をひそめて尋ねる。
「古い文献には、“魔力崩壊”とだけある。
それ以来、テオは**禁域**とされてきた」
カグヤが、傍らの少女たちを見つめた。
「……もし彼女たちが鍵なら?」
ギルドマスターの目が鋭く細められる。
「彼女たちが外へ出られたというなら……
何かが変わったということだ。
結界が弱まっているのか、あるいは……“裂け目”が生じたのかもしれん」
リュウガが一歩前へ出る。
「マスター。
……彼女たちは“テオ”から来た。
そして――たぶん、俺もだ」
ギルドマスターは目を閉じ、深く考え込む。
「……テオ。かつては活気ある王国だった。
だが今は――沈黙しか残っていない」
セレステが、そっとつぶやく。
「……リュウガは、自分がどうやってこの世界に来たのか――覚えてないの」
ギルドマスターは、机の上に古びた地図を広げた。
これは、“知られた世界”の地図だった。
東:霧に包まれたテオ王国
北:聖星帝国
西:アルトニア
山脈の向こう:ヴォルター
南:未踏の地
カグヤが地図の端に指を当てた。
「……行くなら、
ルート、仲間、そして――**覚悟**が必要ね」
「だが君たちは、もうそれを示してくれた」
ギルドマスターがうなずく。
「テオから脱出し、我々と協力する**“元住民”**がいる。
連絡を取ってみよう」
リュウガは、地図を巻き取りながら静かに言った。
「……夜明けと共に出発する。」
その夜、彼らが宿を取ったのは、
**石と木で造られた、温もりある酒場――《金の猪》**だった。
焼きたてのパンと、温かいシチューの香りが店内に満ちていた。
村人たちは、まるで生きる伝説を見るようなまなざしで彼らを見つめていた。
クーロはいつものように沈黙していたが、そこに“不在”はなかった。
その瞳は、食器の並び、皿の配置、周囲の表情をひとつひとつ観察していた。
セレステが、救出された少女たちに優しく微笑みかける。
「……料理、美味しい?」
少女たちは、まるで機械のように口を開いた。
「……おいしいです」
その前には、小さなデザートが丁寧に並んでいた。
クーロは、言葉なくそれを見つめていた。
だがそのまなざしは、こう語っていた:
「――せめて今夜だけでも。
ほんの一口でも……楽しんで」
その想いを受け取ったかのように、
ひとりの少女が、そっとスプーンを手に取った。
そして――ケーキを一口。
「……おいしい……」
その瞬間。
リュウガの胸に、何かが温かく広がった。
ひとつの“笑顔”。
たったそれだけで、奇跡だった。
その夜、一行は温泉を訪れた。
竹と岩に囲まれた、湯気立ちのぼる湯処。
セレステとカグヤは、救われた少女たちを女湯へと案内した。
「お湯の温度、大丈夫?」
セレステが優しく声をかける。
「……適切です」
少女たちは、相変わらず無表情に、同じ調子で答えた。
カグヤは、少しだけ喉を鳴らした。
「……テオのこと、何か覚えてる?」
「……すべてが、灰色だった」
リュウガは、クーロと共に湯に浸かっていた。
湯気がまるで霧のように立ち込め、ふたりを包み込んでいた。
「……クーロ。君も感じてるか? ……何かがおかしい」
クーロは、かすかにうなずいた。
「記憶だけじゃない。
俺は――すべてを失った気がする」
彼女は、答えずにそっと湯に目を落とした。
だが、その沈黙は“理解”だった。
入浴を終えた皆が、暖かい火の前に集まっていた。
ふと、一人の少女がセレステの手を握った。
「……ありがとう、いてくれて」
セレステは、やわらかく微笑み返した。
「ずっと、そばにいるよ」
その時、リュウガがふと思い出したように言った。
「……物語、聞いてみる?」
返事はなかった。
だが、誰も否定しなかった。
リュウガは目を閉じ、片手を差し出す。
すると――
金色に輝く古書が、ふわりと空中に浮かび上がった。
「――昔々、
木々が歌い、
星たちが夜に舞い踊る国がありました……」
語るごとに、本から光の映像が空に広がっていく。
浮かぶ竜。
生きる山。
きらめく星々。
少女たちは、
初めて――顔を上げた。
目を見開いた。
ひとりが、そっとリュウガのそばに歩み寄る。
セレステとカグヤは、互いに微笑み合った。
希望。
クーロも、かすかに――けれど確かに微笑んだ。
やがて物語が終わり、
本は静かに閉じられる。
「……ありがとう」
少女が、かすかにささやいた。
それだけで、十分だった。
ひとつの火花。
まだ語られていない物語。
その夜、暖炉の前で――
約束は、交わされなかった。
ただ、ぬくもりがあった。
ただ、つながりがあった。
ただ、それが――始まりだった。
テオの謎が、彼らを待っている。
だが今や、彼らは――
もう、ひとりではなかった。