手 首
黄ばんだ障子の前に膝をついて、竹林亭春宵は中へ声をかけた。
「春宵でございます。怪談会に参りました」
応える代わりに内側から痰のからんだ重い咳が聞える。
それを合図のように春宵はさっさと障子を開け、埃っぽい廊下から、口だけは懇ろに挨拶を述べた。
襟巻きの絹物は取らずそのまま冷え冷えとした中へ入る。
伊勢屋清兵衛は、くくり枕の上に寝乱れた白髪頭を少しもたげ、お槇に薬湯を飲ませてもらっているところだった。
いつでもゆるんだ着付けのお槇は、おおぶりの湯飲みを病床の枕もとにあぶなっかしげな手つきで置き、春宵を見てぞろりと立ち上がった。
たっぷりとした腰のあたりを、春宵がねめまわす。
病人の枕もとに腰を下ろすと、座布団には女の温みが残っている。思わず武者震いに似た震えがきて、春宵は襟巻きに首をひっこめた。
夏の避暑用に建てられたこの寮は、今時分になると川風が身を切るようである。よほど寒くならないと火鉢も使わないらしく、障子の隙間や欄間の透かし彫りのあたりを吹きぬける風で、座敷の内はいつものことながらしんしんと冷え込んだ。
見ると、くすんだ赤い友禅の布団の下に、清兵衛の老いて薄くなった体がわずかに人らしき形に起伏をなしている。四、五日前に見たときより、さらに薄くなったような気がする。
病み疲れてへこんだ眼窩に大きな目玉がぐるりと動き、伊勢屋清兵衛は魚のように膜の張った目を春宵に向けた。
「今日は、何話目からだったかな」
痰のからまった、くぐもった声だ。座敷は病人の息で甘臭い。
春宵は、何でもないようにぐいと愛想のよい丸い顔を近寄せ、
「九十話目でございますよ、ご隠居さま。今宵でちょうど百になりましょう。満願でございます」
これは商売柄、病人の耳元で愛嬌よろしく歯を見せた。
引退したかつての豪商、伊勢屋清兵衛が、つれづれに怪談の百物語の催しをはじめたのが去年の夏のことで、興にのってその一晩では終わらず、その後、幾晩もつづけて集まっていたのだが、そのうち、言い出しっぺの本人が突然病に倒れ、そのまま長く延期になっていた。
年が年だから病は重くなるいっぽうだというのに、何を思ったか、病床の枕元にまで人を集め、百話の成就までふたたび語り継ぐことになったのである。
出席者は、もともと清兵衛と共に怪談会に集まっていた八人に加え、清兵衛自ら雇った噺家数人、知り合いの隠居仲間や物好きな戯作者まで入れ、全部で十数人になった。
この夏の終わりごろからぽつりぽつりと寄り合って、病人が疲れすぎないよう、毎回十話ほども順繰りに語り継ぎ、すでに九十話を終わっていた。
この頃、江戸に怪談会と呼ばれるものが流行し、当時の知識人、学者、風流人がこぞって不思議の体験や奇妙な言いつたえ、事件など語り合うのに夢中になっていた。
当時すでに国学者として誉れの高かった平田篤胤なども、侍や商人をまじえた怪談会の集まりで、天狗小僧と呼ばれる超能力少年の取材を行っていたほどである。
学者や知識人が怪談噺に夢中になれた時代であった。
——今日は何人来るやら、物好きなものだ。
春宵は奥に座を移すと、襟元を正しながら、まだほかに人気のない座敷を見回した。
襖を開け放った奥座敷の床の間の片隅には、異国風な象嵌をほどこした愛用の煙草盆が埃をかぶっている。螺鈿細工で春画をほどこした贅沢な煙管も、大枚はたいて取り寄せた西洋パイプも、違い棚の上に並べられているだけで、もう長いこと使われていない。
今日のために用意したらしい掛け軸に、春宵はふと目を奪われた。
山水の床掛けにしてはおどろおどろしく暗い図柄を、嫌う人は嫌うかもしれない。ぼうぼうとした竹薮を背景に、黒い沼が広がる。釣りをする立ち姿の美人が描かれ、その釣竿から垂直に垂れる糸が、黒々とした水面に幾重も波紋を広げている。
その女の片肌落としたしなだれた風情が、どことなくお槇に似ているような気がして、春宵は上目遣いにそっと清兵衛の年若い妾を盗み見た。
——これも、ヨイヨイになっちゃあ、宝の持ち腐れだ。
そうしている間にも玄関に、人の訪う声がした。お槇が着物の裾を引きずり気味に出て行く。
妻を亡くして久しかった伊勢屋清兵衛が、ひとり息子に家督をゆずったのはやっと還暦を迎えてからである。日本橋にあった間口七間の江戸店は息子夫婦に、伊勢松坂の本店のほうは子飼いの番頭にすべてまかせ、自分はこぎれいな隠居所を向島に建て、そこに移り住んだ。
息子も商売に身を入れ、木綿問屋から高級呉服や小間物にまで順調に手を広げていき、伊勢屋の身代は安泰かと思われた、その矢先である。
喜寿の祝いも迎えようといういい年になって突然、隠居していた清兵衛が、孫よりも若い妾を入れた。年老いてからの遊蕩は容易におさまるものではないという世間の常識どおり、清兵衛は親戚の諌めも聞かず、隠居所にその女を引っ張り込んだ。そこで、世間体を気にする若夫婦と仲違いすることになった。
そのうち当の清兵衛が中風に倒れると、家族も親戚も持てあまし、妾を介護につけ、人家もまばらなここ青山の寮へ、態のいい島流しである。
隠居の身で寝たきりでは建て替えもままならず、築後長く放置されていた寮は、どこも吹きぬけに広いばかりで内部は暗く、川端ということもあって湿気がひどかった。
こんなところに人が集まるのもこの怪談会ぐらいと、春宵は、胡粉摺りの板を使った侘び好みの天井に、上寄せた目をこっそりと走らせた。四隅には雨の染みが広がっている。
そのうち、怪談会の連中が何人かまとまってどやどやと部屋へ入ってくる。それぞれ何食わぬ顔で見舞いを言う。
さりげなく客の顔ぶれを見回しながら、春宵は心の内でつぶやいた。
——いくら流行か知らないが……。
死にかけた病人の枕辺で、幽霊譚を聞かせようという伊勢屋の発想自体、人が悪い。
人によっては忌み嫌うような不気味な掛け軸の好みといい、頭のゆるめな妾といい、年老いた清兵衛のボケというより、ゆるやかな狂気を疑わぬでもない。
まあ、ここは商売、商売と口の中で唱え、春宵は、かじかんできた手を膝の上ですり合わせた。
お槇が衣擦れをさせながら、床の間のそばに据えた座敷行灯に不器用ににじり寄る。裾を手でさばけばいいものを、ぞろりとひきずるからいけない。
薄暗い病床から、
「いや、灯はいい」
言いかけて、病人は喉を引きつらせ咳き込んだ。
客は誰も見て見ぬふりで目をそむけている。中には袂でさりげなく口元を覆う者もいる。
もう長くはあるまいと、春宵はひとり離れた席で冷ややかにそれを眺めていた。
それぞれの膝元に立てられたろうそくに、琥珀色の火が灯される。
怪談話を一話語り終えるごとにろうそくを一本ずつ吹き消していく趣向である。そうして百本目のろうそくが消えた時、怪しいことが起きるとか……。
待ち時間を持て余し、春宵は隅でそっとあくびをかみ殺した。
百話目はもちろん、死にかけている伊勢屋清兵衛の番となるはずであった。
「……さて、お話も語り継がれまして、九十九話。私、竹林亭春宵が務めさせていただきます。
噺家とは申せ、本日は実話でなければいけないと、真にその目で確かめたことを話すようにという仰せでございましたので、今日お話しいたしますのは、私の幼なじみ、直吉のことでございます。
私と直吉は、親が大工仲間でして、家も近く同い年というだけでなく、揃って左ぎっちょ。それを直したい親にしょっちゅう叱られていた。
そんなわけで、ふたりは小さい時から仲良くしておりましたが、私は何を踏み外しましたか、噺家なぞというやくざな商売に糊を得、直吉のほうはまっとうな大工となった次第でございます。
直吉は私なんぞと違って、根がまじめというか、職人気質で、何事につけても凝る男でございましたから、のこぎりならのこぎり、鉋なら鉋と、納得行くまで引いている。やがて、どうしたって腕は上がる、だから棟梁にも可愛がられる。
まあ生真面目でしまり屋のところが、時にはやっかみ半分、仲間から変わり者呼ばわりされることもあったが、そのうち下谷小町と評判の器量よしの嫁さんをもらう、男の子が生まれる、小金を貯める、とまあ、いいことづくめでございました。
そんな矢先。
まだ皆さまの記憶に新しいかと存じますが、一時コロリが大流行いたしました。直吉はたまたま食った寿司にあたったのでございます。
上げ下しに高熱が加わり、七転八倒しながら、ああ、そうだったのか、これが今までの身にすぎた幸福のぶり返しだ、死ぬんだなと、覚悟を決めておったそうでございます。ご存知のように、コロリの発作はすさまじい。
ところが、幸いにもなんとかこれを持ち直します。
もちろん、その後二度と寿司は喉を通らなくなった。生ものを見ただけで胃の腑が持ち上がると、見るのも嫌がるありさまでございます。
さて、どうにか峠は越したものの、それからいっこうに本復しないまま、ふらつくところを無理に仕事に出たのでございますが、これがいけなかった。
京の清水寺に似せた岩清水の別荘の、高い足場で仕事をしていたとき、直吉は突風にあおられ、足を滑らせてしまったのでございます。
あの岩場から落ちて、生きているのはまさに奇跡と思われました。岩に打ち付け、頭が半分も砕けたと申します。
たちまち顔が倍も脹れ上がり、直吉はそれから四日三晩、眠り続けました。
よもや助かるとは、誰も思わなかった。
脹れが引くのにひと月もかかったという話ですが、顔の左右があとから不器用に継ぎはいだように、微妙にずれたのでございます。それほどの大怪我でした。
さて、こうして直吉は、からくも二度の生還を果たしたわけで、これだけでも充分に怖いと存じますが、さあ――
お話は、これからでございます」
まず最初に、直吉の女房のお咲が、亭主の様子がどうもへんだと言いはじめた。
最初に深い昏睡から目を覚ましたのは、明け方である。長屋の四畳半の暗がりで、直吉は聞いたこともないような嗄れ声を出した。
隣に伏していたお咲が聞きつけて、
「お前さん、気がついたのかい?」
不安げに頭をもたげると、直吉は痰で詰まった喉をひとしきり鳴らして、
「ああ、煙草盆をとってくれ」
あたりまえのようにそう言った。
今まで一度も煙草を呑んだことのなかった者がそう言ったので、お咲は狐につままれたような気がして、亭主の顔を上からのぞき込んだ。
それから回復するに従って、直吉の物言いや動作にそれとなく気をつけていると、どうも今までと違うような気がする。
最初、まだ足元の不確かな亭主をささえながら外の厠へつれて行くと、となりの犬が吠えかかった。子犬の頃から隣家で可愛がっていて、見慣れているはずなのに、直吉の姿を見るたびに、狂ったように牙をむき出して吠える。
不審に思っていると、おかしなことはまだあった。
第一、それまで子煩悩だった男が、ほとんど子供に無関心になった。まるで、女房のお咲に言われてはじめて、子供の存在に気づいたかのようである。
まだ三つになったばかりの男の子のほうも、どことなく面相の変った父親を怖がってか、寄りつかない。
直吉が抱きあげようとすると、まだ回らぬ遅い舌で、
「この人は、ちゃんじゃあない」
と、言って泣いた。
自分の思っていたことを子供が代わって率直に言ったことで、お咲はますます妙な気持ちになった。
そのうち容態もだいぶ良くなって、同僚の大工が見舞いに来た。その時になってお咲ははじめて、自分の観察の誤っていなかったことを知らされた。
「直吉は尋常じゃあなかったぜ」
この同僚の男は帰り際、お咲を手招いて憂い顔でささやいた。お咲はちょうど入れ違いに買い物から帰って来たところであった。
「なに、ちょうど軒下に蝉がとまったのさ。子供が首を伸ばしてそれを見上げていたんだ。そしたら、直の奴、『坊、ちょっと見てな』って、すっくと立ち上がって、まだじんじん鳴いてる蝉を片手で捕まえ、思いっ切り地面に叩きつけたのさ。子供のびっくりした顔を面白そうに見てたっけ。驚いたねえ、ありゃあ、直らしくねえ」
お咲の顔の蒼ざめたのを見て、つけ足す。
「まあ、あれだけの怪我をしたのだから、もとどおりってわけにゃいかないかもしれねえが」
それから十日ほどしてやっと春宵に会えたとき、お咲はとうとうこれを伝えた。
「気味が悪いったらありゃあしない。だから、お前、あの時しっかりと……」
その時はまだ、春宵もお咲の言うことを本気に聞いていなかった。
お咲の言葉尻を取ってからかいながら、春宵はその着痩せする身体を引き寄せた。
そうこうしているうちに直吉の顔や身体の脹れもすっかり引いたというので、幼なじみのよしみで春宵も長屋に直吉を見舞った。
昼を過ぎた時分で、直吉はちょうど飯を食っていた。
頭にはまだ白いさらしを分厚く巻いているにもかかわらず、布団の上にしっかりとあぐらをかき、普通の人間がするように丼を抱え、忙しく飯を口に運んでいる。
おお、もういいのか、傷は痛まないかと春宵が声をかけると、直吉ははじめて丼から顔をあげ、こちらをいぶかしげに見つめた。
その表情が、まるで初対面の人を見るようで、春宵をひるませた。
布団の上で直吉は、箸を指の間に挟んだまま、掌をこちらへ向け、ちょっと待てと制する。
この時だった。
——なんだか、妙だ。
春宵の見知っている直吉は、子供の頃から左利きである。それも自分と同じ、直そうとしてとうとう直らなかったいわくつきの左利き。
直吉は右手に箸を持っていた。
春宵の当惑などおかまいなしに、直吉は布団の上に座ったまま、じっとこちらを睨みつけるようにして言った。
「お前のとこの親父さんも大工だ。お前は俺とは幼なじみだった。お前の肘の傷は、子供の頃、俺と一緒に柿の木に登った時にできた。その時やっと取った柿は渋くて食えなかった」
きょとんとしている春宵に、直吉は暗誦でもするように続ける。
「俺の女房の初産のとき、お前は親父さんといっしょに祝いを持って来てくれた。祝いの品は翁の皐月人形だった」
それはそのとおりなのだが、なぜそんなことをこんなときに確かめる必要があるのか。
「記憶をなくしてるようなんだ。頭を打ったせいでな」
取ってつけたように直吉はそう言った。直吉の顔の左右が、別々の表情を見せたようだった。
これはもう遅かれ早かれ、また何か講じなくてはならないと、春宵は思った。もう仕損じるわけにはいかない。
いくら石部金吉でも、直吉だって早晩気づくに違いない。直吉が続けて死に損なったことで、春宵はあせる気持ちになっていた。
それからさらにひと月ほどして、今度は春宵のところで弔事があった。長く患っていた父親がとうとう逝ったのである。
借金まみれであったが、春宵は人気商売の手前もあって、それなりの葬儀を営むことになった。
いっぽう直吉の方ももう包帯が取れたときだったので、葬式へ顔を出してきた。
直吉がこの頃おかしいというのは皆聞いていたから、あのひどい怪我を目の当たりに見ている棟梁も同僚の大工達も、もちろん春宵も、葬儀などそっちのけで一同息をつめるようにして直吉の様子ばかりうかがっていた。
精進落としには、寿司を出した。
「ええ、直吉があたって死にそうになった、あの寿司でございます。あれ以来、喉を通らなくなっていた寿司」
竹林亭春宵は、ここまで話して言葉を切った。
怪談会に集まった一同をおもむろに眺め渡す。どの顔も、下から照らす蝋燭のわずかな灯りで不気味な陰影を帯びている。
「で、食べたんでございますよ、これを。右手に箸を持って。
直吉は実にうまそうに全部平らげました。
誰も何も言いませんでしたが、私どもは思わず互いに顔を見交わしました……。
そこにいるのは確かに私どもも姿形をよく見知っている直吉です。しかし、どうもおかしい。どうしても別人のようだ。
もしかしたら、本人はもう当の昔に死んでしまっているのではないか。私どもはそう思いはじめたのでございます。
しかし……
すると……
ここにいるこの男はいったい誰なんだろう」
春宵は半ば腰を浮かせながらかしこまって頭を下げた。
「さて、お後がよろしいようで」
高まっていた座の緊張が急にほぐれ、客人たちはきまり悪げに互いの顔を見合わせた。
神妙に面を伏せた春宵の口元に、してやったりとばかり皮肉な笑みが浮かぶ。
春宵が自分の前にあるろうそくを勢いよく吹き消すと、一条の白い煙が薄闇にゆったりと孤を描いて立ち昇った。
横たわって聞いていた伊勢屋清兵衛が、
「では、ここで、一時休みましょう」
痰のからんだ声で、お槇に命じて行灯に火を入れさせた。
床の間の不気味な掛け軸が、黄色い灯りにぼぅっと浮かびあがる。
いつの間にか、座敷の隅に、寿司桶が積み重ねてあって、
「夜食を用意しましたので、お口に合いますかどうか、どうぞ箸をおつけくださいまし。なに、供養だと思って」
清兵衛がしきりにすすめる。
誰かが何か言って小さく笑い、いくらか空気がなごんできた。
一同はすすめられるままに箸を取った。
もっとも、今の話のすぐあとでは、寿司が喉につかえるような気がしないでもない。
春宵は、箸を取り上げたところで首をかしげた。
──今、伊勢屋は「供養」と言ったが何のことだ?
伊勢屋は、お槇の手を借りて大儀そうに身を起こし、重そうな丹前を羽織って、小用に立つ。
丸めた背中は猫のようで、麻痺した左手は脇に固まり、ねじれた指先がしじゅうふるふると小刻みに震えている。お槇の肩につかまっていても、肉の落ちた足は今にも折れそうだった。
お槇以外誰の助けも断わって、伊勢屋清兵衛は道行きよろしく広い廊下を静々と渡っていった。
障子が閉まるや、さざ波のように客たちが低い声で話しはじめる。
「ああなっちゃ、ねえ、もう……」
「まあ、伊勢屋といえば豪勢なもんだったんだが……」
かつて伊勢屋の羽振りには目を剥くものがあった。
吉原を一晩借り切った豪商尾張屋への面当てに、畳二畳ほどもある大饅頭に生きた小鼠を何匹も仕掛けて贈りつけたり、両国にあった春木屋の寮の隣屋敷を買い取り、公衆便所に開放したこともある。きれいどころを引き連れて花火見物にやって来る春木屋に対抗した嫌がらせである。
「一癖も二癖もある人だってのは知ってましたがね。まあ、愉快っちゃあ愉快だった」
嫉妬心が強く、同業を次々と陥れることでのし上がった伊勢屋を、江戸っ子は、「近江乞食に伊勢泥棒」とはやした。それでいて、伊勢屋の仕掛ける痛快な嫌がらせやいたずらを、誰も待ちうけているところがあった。
「それが、この夏、中風で倒れてからでしょう? こりゃあもう悪趣味だって言われても、まあ仕方ない」
お槇のことだろうか。
それともこの怪談会のことか?
実際、豪商たちの競い合いは奇怪な趣味にまで及んでいた。
成り上がりの春木屋が紅毛碧眼の妾を囲ったと聞くと、尾張屋は高貴な生まれの吉原太夫を貰い受けた。それが、男女両性具有の双なりだともっぱらの評判である。
対抗して、伊勢屋清兵衛はこのお槇を見つけてきたのだそうだが、頭が緩めの白痴美人という以外、この女のどこが清兵衛の興を引いたのかわからない。
客達はそれぞれ、思わせぶりに目を交し合っている。
——そういえば、この寿司にしろ……。
春宵はふと箸を持つ手を止めた。
——自分の今の怪談噺に合わせたように寿司を出したのは、ただの偶然だろうか。
幼なじみのことは、今日ここではじめて語った実話である。稽古すらしていない。伊勢屋がそれに合わせて前もって用意できたはずがない。
話が話だけに、春宵の胸に後悔の念が押し寄せた。直吉のことを話すなんて、馬鹿なまねをした。
春宵の隣に座っていた、いやに痩せた男が箸を置いて、座に口をはさんだ。
見慣れない顔である。骨董屋だと言う。片時も行儀のよい膝を崩さない。
「私どもでお買いあげいただいたあの掛け軸も、長いこと売れなかった不評のお品だったのですが、こちらのご隠居さまが今日の怪談会に是非お使いになりたいと言われましてな」
男の目線の向こうに、行灯の黄色い灯りが明滅し、床の間の掛け軸をぼんやりと浮かび上がらせている。
春宵は上の空で相槌を打った。
骨董屋は、
「琳派の絵師でして、『深山孤霊妖之図』と箱書にございます。実はこれ、裏話がございましてな」
急に声を落とす。
「絵柄にどうも南蛮風な工夫があるらしいのです。ちっと奥行きがありましょう?」
掛け軸の絵柄はどこか不吉に調和が崩れ、見るものを不安にするようだった。
構図のせいか? 墨の濃淡か? 女の姿か?
廊下はしんとして、伊勢屋はまだ厠から戻りそうにない。
骨董屋は尖った膝を揃えてこちらに向き直ると、
「描いた絵師が誰なのかわかりません。どうも転び伴天連のひとりではないかと言う者もおりましてな」
迫害され、棄教した切支丹信者が転びと呼ばれ、小日向の切支丹屋敷に収容されたことは知っていた。が、しかし、それも遠い昔のことであり、いまどき切支丹禁令など、人の口の端にものぼらない。
伊勢屋がいないうちに、そそくさと挨拶をして帰る者がある。障子がしめやかに数回開け閉てすると、残ったのは春宵とほかに数人となった。
伊勢屋の話が終わらぬうちは、春宵は帰るわけにいかない。
骨董屋はかまわず、ひとりごとのように続ける。
「邪宗の徒は残らず殉教したと聞いておりますが、聞きしにまさる厳しい拷問だったそうでございますな」
と、最後はつぶやきに変わった。
その話が聞こえてか、座敷に残った者たちは、葬式のように頭を垂れ、黙々と箸を使った。
厠から戻ると、お槇が老人の尖った身体を布団にくるみこんだ。麻痺した左手が枯れ枝のように布団の端から飛び出す。ぐずぐずと手間取るのを、老人は文句も言わず、されるままになっていた。
病人の寝床から離れているのをいいことに、骨董屋がまだ掛け軸のことを小声で言っている。
「あの釣竿のところでございますよ。水面と釣り糸が交差するところ。逆さ十字が、御覧になれましょう? じっと見ていると反転する隠し絵になっている」
一段と声を落とし、
「パライソ(天国)とやらがこの国に来たとき、地獄も共に来たわけでございます。あの釣をする女も邪宗の観音でしてな、邪悪に憑く妖かしの類」
春宵の耳に、寿司を食べた生臭い息を吹きかけながら、
「何が妙かというと……。」
骨張った両手でしきりに釣竿を持つ手つきをする。
春宵は薄暗い床の間を横目で見て、落ち着かないまま、生ものを口に運んだ。
ふとその箸を止め、
——山葵が効きすぎてやしないか?
眉をしかめた途端、伊勢屋清兵衛が寝床から同じことを言った。
お槇に手伝わせ、寿司にのっているネタだけほんの少し、形ばかり口に運んでもらいながら、
「山葵が効きすぎてやしないか」
清兵衛がひとりごとのようにつぶやいた。
春宵は、喉の奥が急に狭くなったような気がした。
これは大工の直吉が、あの日まさにあの時、女房のお咲に言ったという言葉じゃあなかったか?
人間にはあれでも分量が少なすぎたが、山葵に混じるにはあれくらいなものだ。実際、コロリのように苦しんだものの、直吉は死ななかった。
ふいに伊勢屋清兵衛が、されこうべのような頭をやや起こし、薄暗い病床から春宵に声をかけた。
「あれは山葵でございましたな、直吉さんがあたったのは?」
春宵はぎくりとして、危うく口の中の物をむせかかった。
消え入りそうな声で、
「さようで……」
と、受け流し、はやりはじめた動悸を抑える。
今日の噺の中で寿司とは言ったかもしれないが、山葵とはひとことも触れなかった。言ったはずがない。
直吉があの山葵にあたったことを知っているのは、自分と直吉の女房お咲のふたりより他にない。どうして伊勢屋が知っているんだ?
疲れたのか清兵衛は、それきり口をつぐんで死人のようにじっとしている。座敷の他の客人たちも、春宵の様子をうかがって誰も口を開かない。
——いけない、いけない。こう気が小さいじゃ。
よいよいで、ボケのきた老人の言うことだ。
春宵は、もう味のなくなった寿司の残りを飲み下すように平らげた。
隅の方で、お槇が箸を置いて立ち上がる。
ずるずると着物の裾をだらしなくひきずりながら、今ごろになって客に茶を入れて回りはじめる。
痩せても枯れても伊勢屋だから茶は極上で、馥郁と高い香りが座敷に広がった。
そばで見ると、お槇の襟足は白蝋のようにきめ細かく、なだらかな首の付け根あたりから細い産毛が一面に生えている。それが大きく抜いた衣紋のずっと奥までびっしりと続いているのが見てとれた。
膝をついたお槇の、肉付きのよい腰や太もものあたりを着物の上から推し量りながら、春宵は暖かい茶で喉を潤し、ほっと息をついた。
──馬鹿な。棺桶に片足つっこんだ年寄りの、何を恐れると言うのだろう。
春宵はいつもの不敵な面持ちを取り戻すと、他の客の様子をうかがった。
春宵の好色な視線を知ってか知らでか、伊勢屋が寝床から、誰ともなく声をかけた。
「お槇は、あの掛け軸の観音さまに似ていやあしませんか」
そういえばと、言われて目を細めても、春宵のところから暗い床の間の絵柄は今ひとつ判然としない。
その時、突然、障子に近いところで大きな音がした。
手代風の男がはじかれたように立ち上がる。木綿着の膝のあたりに濡れたしみが広がっている。お槇に手渡された湯のみを取り落としたらしい。
何に驚いたというのだろう?
畳の上に湯のみが孤を描いて転がり、そのあたりにうっすらと湯気が立った。
取り乱したやりとりに、なにやら大仰とも見えるほど客は恐縮した様子で、挨拶もそこそこに、まるで逃げるようだ。そそくさと障子が閉まると、座敷はまたしんとなった。
お槇は動じた様子もなく、濡れたあとをのんびりとかたしている。その手元に長い袖がうるさくかぶり、いかにも動きづらそうである。
春宵は嘲笑を押しかくし、下を向いた。
するとその時、伊勢屋が寝床に仰向いて目をつむったまま、かすれ声でおもむろにこう切り出した。
「先ほどのお話には、続きがありましてな」
春宵はびくりと身を起こした。
実は大工の直吉はだいぶ前に死んでいる。今日の噺ではもちろん触れなかったが、その時のことは思い出したくもない。
嫌なことを言うなと部屋の奥を見るが、病人の寝床は影絵のようで、伊勢屋の顔は見えない。
かすかに胸苦しさを覚え、春宵は、懐から取り出した手拭で口のあたりを押さえた。
腹のそこに違和感があり、生臭いおくびが出る。
──あの寿司だな。
無理して食べるんじゃあなかった。
春宵は、額にうっすらとにじみ出した汗をこっそりとぬぐった。
いつの間にかゆるゆると伊勢屋の話が始まっていた。
「あの日のことから話しましょうかな」
「あの日」というのは、伊勢屋の倒れた彼岸すぎのことである。
「あたりが急に、暗くなりましてな。
それまでもう頭は散々痛むし、胸が悪くて苦しくてたまらなかったのが、こうすっきりといたしましてな、ああ、やれやれと思ったのでございます。
ただ耳鳴りがひどうございまして、何も聞えない、と言うか、時おり聞えるのはこちら側のこと。
医者やら使用人やら、なにやかやと言っている。枕もとでは手拭でも絞るのか、水音がする。座敷の襖を開け閉てする音がする。
けれど私が目の奥に見ておりましたのは、暗い夜道でございました。
見覚えのある坂道をひたひたと下って、いつの間に来たのか、これも見たことのある、黒い沼のほとりに出たのでございます。
暗い紗でも透かし見るようで、昼にしては暗いし、夜にしてはあたりがぼんやりと見えます。
沼は暗い鏡のように、岸の竹薮を逆しまに映しておりました。
よく目をこらすと対岸に女がいる。釣糸を垂らしている。
それが、この、お槇じゃあありませんか。背格好といい、髷の形といい、ほっとして声をかけようと思いますが、声が出ない」
伊勢屋は言葉を切った。つかの間、息を整える。
その沈黙に耐えかねて、春宵は窮屈そうに居ずまいを直した。
枕の上で、されこうべを渋紙で包んだ老人の首だけが、ゆるゆるとこちらを向く。その顔の左右に別々の表情が波紋のように広がった。
春宵は目を剥いた。
伊勢屋清兵衛が掛け布団を左手でめくり、
「そのうち女が釣竿をこう引きあげて……」
ねじれていた左手がいつの間にか伸びている。清兵衛は手で釣竿を支えるようなしぐさをし、それきり大きな目で宙を凝視した。
伊勢屋の容態が急変したのは、その時である。
冷たいものがぽつりと頬にあたり、竹林亭春宵は我に帰った。
提灯の照らす中を、雨が縫い針のように光りながら斜めに走る。細い雨足が頭上の竹薮にあたるしめやかな音が聞こえてきた。
雨で灯りが消えてはかなわない。引き返そうか?
ふりむくと、今来た道が、竹薮の間を細く曲がりくねりながら続いている。
ここまで来て引き返すにはかなりの距離である。ましてやあの瀕死の病人がいる幽霊屋敷だ。
幸い雨音は、笹を風のように一凪しただけでやんでいる。
春宵はしばらく耳を澄ましてから、家路を急ぐことに決め、歩を速めた。
暗い夜道は、そこから下り坂になり、春宵はつんのめるように先を急いだ。
今ごろ、伊勢屋の寮では、医者を呼びにやっただろうか。
あの騒ぎでは、客達は足止めを食って朝までああしていなけりゃならないだろう。いや、もう通夜か?
──死にぞこないめ。
春宵は提灯の灯りの輪に照らし出された足元に、神経を集中しようとした。
地面は枯れ笹を敷き詰めたようで、歩を運ぶ度に人のささやきにも似たかそけき音をたてる。
藪の中は風もなく、獣の体温でもこもるのか生暖かい。
見回しても濃い闇が覆いかぶさるばかりだ。
重なり合う笹の影が、提灯の灯りを先へ先へと導いた。
行くにしたがって、洞窟の奥へ進むように闇が濃くなる。
歩くにつれ、胸焼けがだんだんひどくなった。かすかに鳩尾のあたりが痛みはじめたような気もする。
春宵は胸元をさすり、舌打ちをした。
今しがた、伊勢屋の発作を見て来たばかりである。縁起でもない。春宵は思い出して身震いした。
わずかに灯りの残った座敷で客の見守る中、病人は突然、枕の上の首をのけぞらせた。色あせた布団の下で体が弓なりに反った。
鴉の鳴くような奇声が老人の萎んだ喉の奥から発し、固く硬直した体が激しく上下しはじめた。
「ど、どうなさいました?」
動揺した客たちが口々に何か言いながら立ち上がる。
「だから、お体にさわるとあれほど……」
「水を吹きかけたらどうです?」
病人は、まばらな黄色い前歯を思いきりむき出しているので、ますますされこうべのようである。
「ややっ」
驚いてあとじさる者がいる。
枕もとに集まっても、客たちは手をつかねて見ているばかりだ。
「とにかく医者を、誰か早く迎えを……」
ふたたび激しい痙攣がきて、老人の身体が無惨なほど揺れた。
布団の中で反り返るやせ細った身体を、客たちは訳のわからぬままおっかなびっくり押さえつけた。
離れた所で様子を見守っていた春宵は、汗で湿った手拭をそっと懐にしまうと、静かに立ち上がった。
老人がまた鴉のようにするどく鳴く。
客たちは皆こちらに背を向け、病床を囲んでいる。誰も春宵に注意を払う者はいなかった。
春宵が廊下に出て障子を閉めようとすると、客の背の間から、切羽詰った老人の声が聞えた。
「こ、ここは、ど、どこだ?」
見ると、病人は布団から半身をのり出している。
「気がつかれたか?」
病床を囲んで、客たちが口々になだめる。
「じっとしておいでなさい」
「医者を呼びにやりますから、そのまま……」
お槇が布団の上から老人の身体を抑えようとすると、
「だ、誰だ、お前は?」
老人は小さく悲鳴をあげ、その手を邪険に振り払った。どこにそんな力が残っていたかと思うほどすばやい動作である。
すると、そのときまで老人の床にかぶさるように低く背を丸めていたお槇が、たった今目覚めた動物のように、急にむくりと身を起こした。
そこまで見届けて春宵は、障子を閉めて暗い戸外へ出たのである。
だいぶ歩いてからまた不安になり、春宵は立ち止まって提灯をかざし、前後を確かめた。
ここをもう少し行くと、宿屋や矢場の並ぶにぎやかな広小路へ出るはずである。
そう思いながら足を数歩進めると、突然、闇を切り裂き、目の前が開けた。
黒い水を重たげにたたえた沼のほとりである。
油を刷いたように暗く光る水面に霧がうっすらと紗をかけ、池のめぐりはぼんやりと際立って、木立が黒々と影になっている。
――道を誤ったか?
来る時、こんなところを歩いた覚えはない。
あたりを見回すと、夢でない証拠に生臭い藻がぷんと鼻を打つ。水に緩んでいそうな足元を、春宵は思わず確かめた。
なんとなく景色に見覚えがあるのは、あの掛け軸のせいだ。
釣をしている女が居やしまいかと、無意識に探している自分に春宵は気がついた。
掛け軸の絵柄にどことなく違和感があったのは、美女が山中で釣をしているというめずらしい構図だったせいだろうか。女もどこかしら不均衡で、そこが見る者の目をとらえたのだ。
お槇のしどけない着付けと、不器用な手つきを思い出す。人より動作が鈍く、白痴のように口が重い。
それでも春宵は、どうして伊勢屋がお槇をわざわざ手元に置いておきたいか、わかるような気がしてきた。
もう胸焼けではなく、はっきりと悪寒が走る。胸苦しさで、呼吸が乱れはじめていた。額が涼しいのは冷汗がにじんでいるせいだ。
――チッ、こんなところで。
苦痛に歪んだ幼なじみの直吉の顔が急に思い出された。左右別々の意志があるように、どこか微妙にずれる表情。あれは春宵の知っている、実直でおとなしいばかりの直吉ではなかった。
最初、長屋に直吉の怪我を見舞ったとき、談笑する顔の裏に、あざける表情が見えたように思った。次に父親の葬式で会ったとき、直吉はあたりまえのお悔やみを神妙に述べながら、どこか面白がっているふしがあった。
怪我の治ったあとも直吉は、ぐずぐずと大工仕事に出るのを嫌がって、貯めていた小金を少しずつ食いつぶしているような有さまだった。
お咲が怖がって、
「あれは亭主の直吉じゃあない。誰だか知らないが、あたし達のことを知ってて様子を見ているのさ」
と泣きついてくると、春宵もあせる気持ちになった。
そこでふたりは、手元に残っていた石見銀山の鼠捕りを、もう一度、直吉の食べ物に数度に分けて混入し、様子をうかがった。今度は仕損じないよう、一回の量をいくぶん多めにした。
直吉は激しい発作をくり返し、三日もしないうちにたちまち衰弱した。あんなにひどい怪我だったのだもの、いつぶり返したっておかしかないと、自分自身に言い聞かせるように、お咲は近所の者に言いふらした。
今日は逝くか、明日逝くか、という頃になると、春宵も頻繁に直吉のところへ見舞いを装い、つぶさに様子をうかがった。
しかし、生死の境をさまよいながら、今度も直吉はなかなか死ななかった。
とうとう逝ったのはこの彼岸すぎで、
――そう、ちょうど伊勢屋が倒れた頃だ。
途中までで聞きそびれた伊勢屋の話がにわかに胸に浮かんだ。
胸が騒いでいると、ふと遠くで名前を呼ばれたような気がして、春宵はどきりとふりかえった。
濃い闇がぐんと奥行きを増し、はるかかなたが、ほんのりと黄色く明るんでいる。それがかすかに揺れながら近づいてくる。
提灯の灯りだ。
春宵は目を凝らした。
丸い灯りに、ぞろりとしどけない小紋がぼんやりと浮かびあがる。
夕顔でも咲いたようにほっかりと白い顔は、
──お槇じゃないか?
胸に抱えているのはどうやら蛇の目傘だ。
伊勢屋の寮からは小半時のみちのりである。追いかけてくるには遠すぎる。女の足で、やすやすと追いつけるものでもない。こんな時間、女ひとり、しかもあのとろいお槇である。それも旦那である伊勢屋があの状態で、置いて来れるはずもない。
突風のように、さまざまな思考が春宵の胸をかすめた。
灯りは見る間にするすると滑るように近づいた。
そばで見るお槇は爬虫類のように無表情だ。
無言のまま白い手を伸ばし、蛇の目傘を差し出す。
伊勢屋の床の間にあった掛け軸の、黒々とした絵柄が春宵の目をよぎった。
床の間のあたりは暗くてよく見えなかったはずなのに、今になってまざまざと浮かぶ。暗い沼で釣りをする妖しい女。笑いかけて半ば開いたお歯黒の口元。焦点の定まらない目つき。顔の左右が別人のようにそぐわない。
記憶を探り、思考がめまぐるしく駆けめぐった。
息苦しく、胸があえぐ。
骨董屋の釣竿を持つ妙なしぐさ。
――あのあと伊勢屋の容態が急におかしくなったのだ。あのとき伊勢屋が手を伸ばし……。
するすると袂から手首が伸びた。
一目ではよくわからず、春宵はまじまじと、差し出されたお槇の手を見つめた。
頭の奥で大きな音が炸裂する。
暗がりに浮かんだ女の白い手首。
三本の太い指だ。粉を吹いた皺が何本も走り、先細りに黒ずんでいる。先端に黒く長い鉤爪がついていた。鳥の足だ。
春宵の喉の奥から吐しゃ物が噴出した。
提灯が落ち、ぼっと音を立てて燃え上がる。
あの痩せた骨董屋、見たこともない影のような男だった。
あの掛け軸の話。では、あれが百話目だったのか?
お槇のなで肩を炎が映し出した。
その背に黒々と、蝙蝠に似た巨大な翼が音もなく広がった。
(了)