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海の底で始まる生命の伝説

作者: 冷瑞葵

 生命が誕生したのは、深い深い海の底だった。深海にある高熱の水が吹き出すところが生命の起源であると言われている。

 そんな()の象徴であるこの深海で、一人の冷たくなった人間が()を迎えようとしていた。

「ちょっとあんた!」

 甲高い声が海水を震わせる。大きく立派な尾ビレが水を掻き、大きな体を推して進む。

 死にかけの人間はその声に反応することなくゆっくり、ゆっくりと沈んでいった。

「しっかりしなさいな! あんた、分かるかい?」

 沈んでいく人間を優しく抱きかかえたのは、上半身が人間、下半身が魚の姿をした正真正銘の人魚である。




「初めてだね、こんなに綺麗な体が降ってくるのは」

 人魚は人間が息をしていないのを確認して、より深い海の底へと連れていった。人間の体は硬直し、空気のない虚空に向かって口がポカンと開いている。

「心配なさんな。ここは生の象徴の地。きっとあんたにも力をくださるはずさ」

 人間は全く反応を示さなかった。人魚は人間に絶えず声をかけ続け、暗く重い海の底へとぐんぐん泳いだ。

 やがて、ほんの少し海水の温度が高くなる。

 人間の足がビクンと大きく跳ねた。両足を揃えて水を蹴るように暴れ始める。人魚は必死に人間を抱きかかえて微笑んだ。

「始まったね」

 人間は数分間暴れた後に急に覚醒したように目を見開き、動きを止めた。人魚は人間――だったものの顔を覗き込んで、彼の意識がすっかりもとに戻ったことを確認した。

「あんた、分かるかい?」

「は……?」

「気がついて良かった。泳げそうか?」

 男は人魚に促されておそるおそる足を動かす。両足がくっついて離れず、バタ足ができそうもない。仕方なくドルフィンキックをしてみると「上手上手!」と人魚は嬉しそうに笑い声を上げた。

「まだ一人じゃ泳げないか。引っ張るから着いてきな」

 わけも分からず人魚に手を引かれ、人間は黒い大海の中を泳ぎ出した。それは悍ましくも神秘的で、真冬の夜空のような海だった。




 それから数日すると、かつて人間だった男の足は完全にくっついて立派な魚のヒレも生えてきた。人魚の助けがなくても自分である程度泳げるようになり、広々とした海の中を散歩するのが日課になった。

「慣れてきたな。飲み込みが早い。良いことだ」

「……うん」

「少し上に上がってみるか?」

 人魚はケラケラと笑い、男を誘導する。出会ったときからずっと何か子供扱いされている気がして男は不貞腐れたように頬を膨らませた。

 素直に人魚についていきながら、そっちがその気ならと弟ぶって不機嫌な気持ちを隠さずに質問する。

「ねぇ、俺、人魚になるの?」

「おう、そうだ。『人魚』って言葉知ってたのかい。なら話は早いね」

「マジで? ファンタジー世界じゃあるまいしさ……」

「ふぁんたじい? それは分からないが、ほら、あんたの足を見てみな。それは人魚の足だろう」

 男は巨大魚の尾ひれのような足をちらりと見て、ほんの少し足を離そうと力を入れ、数秒もせぬうちにその試みを断念した。男は夢のような浮遊感の中にいて、まだ現状を飲み込めてはいなかった。




 やがて2人の目に可視光が届き、人魚の美しい鱗が輝いて見える。

 久しぶりの光に目が慣れる前に水の終わりが目の前へとやってきて、2人は大海の中心で水の上に顔を出した。気分が悪くなるくらいの晴天で、水面に光が反射して目に眩しい。

「久しぶりの空気だ! どうだい、気分は」

「うん」

「うんと言うだけでは分からないよ。どうなんだい」

「……なんでまだ俺生きてんだろうなーって思う」

 水の中とは声の通り方が違う。互いの声がカラカラと聞こえる。男は自分の言葉がこんなにも乾いたものとして発せられることが恨めしかった。

 眩しい日差しを煙たがるように視線を落とす男に対して、人魚はキラキラと水面の光のような笑顔を浮かべていた。

「はぁ! さてはあんた、死にたがりか。物好きだね」

「好きでやってるわけじゃないけど」

「いやいや、貶すつもりはないんだ。あたしも似たようなもんさ。あたしの命で村が助かるって言うんだからさ、自ら海に沈んでやったね」

「……何それ? いつの時代だよ」

「んー?」

 人魚は笑顔を崩さないままどこか遠くを見つめた。その横顔はいかにも人間らしく、郷愁に浸るような優しさを抱えていた。

 男はふと恐ろしくなった。人魚の見据える先が全く見えそうにない。

「さぁ、どのくらい前なんだろうね。あんたからしてみれば」

 人魚は独り言のように呟いた。その瞳はやはりどこか遠くの方を向いていた。




 それから2人は他愛もない話をして、日が傾いた頃に深海へと戻っていった。潜り始めると光はすぐに届かなくなり、辺りには真っ暗な世界が広がる。

 男の表情は晴れない。先程の人魚の言葉が気にかかって心に影を落としている。

 それに気づかない人魚ではなかった。下に向かって泳ぎながら器用に後ろを振り返り、僅かな酸素が溶け込んだ海水を存分に吸い込んで、気持ち大きめに声をかける。

「浮かない顔だね。何か気になることでもあるのかい? 言ってみな」

 男はすぐに答えることができなかった。男が黙っている間、人魚はずっと後ろ向きに泳ぎ続けた。

 数分後、ようやく男は口を開いた。

「あ、あの……あなた、何歳なんですか?」

「はぁ? なんだ、そんなつまらんことを知りたいのかい。悪いけどもう数えてないよ」

 嫌な予感が当たって男は頭が真っ白になった。天を仰ごうにも深海に向かっている身ではうまく上を見上げることができない。

「あの……あの、俺、死にたかったんだけど」

「あぁ、そりゃ御生憎様だね。あんたもう死ねないよ。あたしもね」

 人魚は美しく微笑んだ。真っ黒な世界の中で光輝くような笑顔が眩しくて、男は目を逸らしたくなった。

「ほら、聞いたことくらいあるだろう。不老不死ってやつさ」

 いや、一度死んでるから不死ではないかと言った人魚の笑い声は、呆然とした男の耳には届かなかった。

「ま、すぐ慣れるさ。時間はたんまりとあるんだ」

 人魚の輝く笑顔は、男には絶望の象徴であるようにすら感じられた。何も言えないでいる男の肩を尾ひれで叩いて、人魚はまた深海へと沈んでいった。




 かつて無から生命を生み出した深い海の底は、役目を終えた今、降りてきた生命を蘇らせ、気まぐれに無限の命を与えている。

 人魚となった2人は、あるときは水面に漂っているところを、またあるときは海底で優雅に泳ぐところを目撃され、ついには(つが)いの人魚として都市伝説となった。

 何千年と続く都市伝説すら彼らにとっては瞬きすれば終わる流行りのようなもので、2人は儚い伝説を笑い飛ばして長すぎる命を持て余している。




 この記録もいつか彼らに届く。彼らはこの意味のない寓話をも嗤い、途方もない命を想い、そうして意味なく繰り返される明日をいつまでも生き延びていく。

 慣れてしまえば、そんな人生も悪くない。少なくとも彼らのうち一人はそう証言をし続ける。

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