朗らかな光と最終日
最終話です。
朝起きたとき、なんとも言えないだるさを感じました。
何もしたくないと考えてしまうほどに、全身が重いです。でも、起きなくては、心配をかけてしまいます。
だるい身体を引きずるようにして起き上がり、寝衣から簡易ドレスに着替えます。ですが、その動きだけでも指先を動かすのが億劫で時間がかかります。
時間をかけてやっと着替え終えた私は、髪を低いところで一つに結い、昨日旦那様に頂いた髪飾りをつけました。
扉を開けようとした私は、また指先から力が抜けていることに気づきました。手のひら全体を使いドアノブをひねり、扉を開けましたが、指先に力は入りません。
恐らく今日は刃物は触らないほうがいいのでしょう。さすがにいつ力が抜けるかわからない状況で刃物を使うのは危険ですから。
現在時刻は午前5時半。
この3日の間の日課となった朝食作りをするために厨房に向かいます。
出迎えてくれた料理長に申し訳なく思いつつも、今日の朝食は作ってもらいたいと告げると、料理長は快く受け入れてくれました。
料理長に二人分の朝食を作ってもらうと、いつもの薔薇園に朝食を持っていきます。いつ力が抜けてもいいようにと手のひら全体でお盆を包むようにしながら持ち運びます。
足を引きずらないように気をつけながら向かった東屋では、今日も旦那様が待っていました。
旦那様の前に朝食を置き、自身の朝食もテーブルに置きます。
この3日の間の日課となった東屋での朝食は今日で終わりですが、やはり、ここで食べる朝食は美味しいです。
のんびりと朝食をとり、食べ終えた私を旦那様はじっと見つめてきます。
「どうかなさいましたか?」
「……体調が悪いのか」
思わず目を見開きます。ですが、それをすぐに隠した私は、何事もなかったように話しかけます。
「いつも通りですよ。心配性なのですね」
「……そうか」
ええ、そうです。あなたが心配性だから私の体調が悪いと思うだけです。私は元気ですよ。
そう言おうとしたのに、なんとも言えないだるさがまたやってきて、言葉を口にできなかった。
顔を顰めてしまわぬようにと笑顔を貼り付けます。何事もなかったように振る舞うなんて、今までもやってきたではないですか。今更こんなこと、難しくともなんともありません。
だから、騙されてくださいよ、旦那様。
貴方は何も知らなくていいのです。私が死を迎えるなどと、絶対に教えてはあげません。
どれだけ問い詰められようと、私は笑って見せましょう。
───なんでもないですよ。
そう言いながら。
*
今日は何をしましょうか。
特にこれと言ってやりたいことはないですし、いつ力が抜けるかわからない以上、乗馬などをするには危険です。
う〜。どうしましょう。
現在時刻は午前7時。
あ、そうです。のんびりと日向ぼっこでもして、お昼寝しましょう。最後の日がこうして穏やかに過ぎ去るというのは、とてもいいものなのです。
どこで日向ぼっこしましょうか。薔薇園の東屋は木陰にあるので日向ぼっこには向きませんし……適度に陰っていてお昼寝できる場所……。
裏庭……?
そうです、裏庭がありました。
フラフラとしながらも裏庭に行った私は、少し悩みました。
先客がいるのです。旦那様という先客が。
うう、どうしましょう。フラフラとしているところを見せるわけには行きませんし……。
まあいっか。
よし、寝ましょう。
旦那様は林檎の木の下で本を読んでいますので、私はオレンジの木の下で眠ることにしました。
生い茂る草の上で寝転がると、自然に包まれ、落ち着くような気がしました。
そしてそのまま、深い眠りの海に沈んでいきました。
*
───このグズ!!
ビクリと身体が震える。恐る恐る顔をあげると、そこには両親と姉、妹がいた。
『なにか、してしまいましたか』
自身の意志とは関係なく、言葉が飛び出す。
ああ、これはずっと前の……そう、伯爵家に嫁いで来る前のことだわ。
───なにかしてしまいましたか、じゃあないのよ!さっさと出てけっていってるのよ。あんたみたいなゴミ、我が家の恥だわ!!
───本当に。お姉さまったら、こんなこともできないの?お掃除をしてって言っているのよ?難しくはないでしょう。お姉さまみたいなグズでもできるわ。
『ぁ……ごめんなさい、ごめんなさい……』
───謝罪はいらないわ。惨めなあなたを見ても面白くないもの、ねぇ。
───つまらん。こんなグズが我が子などと……。なぜお前は同腹の姉妹と同じようにできんのだ。
『ごめんなさい、ちゃんとやりますから。お願いします、追い出さないでください、ごめんなさい、ごめんなさいごめんなさいごめんなさい』
───うるさいわよ!ルルーディア!!
お姉さまが腕を振りかぶる。ぼんやりと見ていることしかできない私は、頬に平手を食らう。
お父さまが、私を蹴り飛ばす。お母さまがものを投げつけてくる。
妹の嘲笑が聞こえる。
何もできないのに。
私なんて、いらないのに。なんで、なんで生きているの?死んでしまったら、お母さまやお父さま、姉妹を困らせることなんてないわ。
───あなたは、ここにいなさい。
───お姉さまには納屋がお似合いですわ。うふふ!
『わかりました。ここにいます。ですからどうか、追い出さないでください、なんでもしますから。お願いします』
───やだわ、この子は何を言っているのかしら。喋らないでよ、聞き苦しい。
お姉さまが私を鼻で笑っているけれど、私はこうして、謝罪して、懇願するしかない。結果が帰ってこなくても。
私はこの家に囚われているから、お願いすることでしか生きられない。
『ごめんなさい、ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい』
流れるように口から出てくる、染み付いたその言葉が、やけに遠く感じる。
このときの私は、もう感情と言うものを理解するのをやめていた。
それしか、自身を守るすべがなかったから。感情と思考の間に分厚くてひたすらに高い、果てのないほどの壁を作る。
そうすれば、感情によって、悲しみや苦しみなんて言うものに、心を削られない。
感情なんて、私には不要。
だって……。
───ルルーディア、これをやろう。
ずっと前、そういって私にくれたお誕生日プレゼント。私の瞳のような赤のリボン。
なんてことないものだったけれど、とても嬉しかった。
『ありがとう、お父さま』
ふわりとした、喜びの感情は、すぐに凍りついた。
───お姉さま、それ頂戴?
妹の、可愛らしいおねだりによって。
『これは、私のものよ。お父さまがくださったものなの』
───ふ〜ん。ねぇ、お父さま、ルルーディアお姉さまの持っているリボン、私に頂戴?
『それは……!』
───いいぞ。よくよく考えれば、ルルーディアよりもサーニャのほうが似合うからな。
『お父さま……?』
信じられない、そう思った。
他人の誕生日プレゼントをほしがる妹も、それを笑顔で許してしまうお父さまも。
お父さま、これは私へのプレゼントではないのですか……?
その言葉は飲み込んだけれど、どうしても納得できなかった。私の誕生日プレゼントは、それ以来すべて、妹のものになった。
───また別のものを買ってやるから。
そう言われたけれど、誕生日プレゼントの代わりを買ってくれたことなんて、一度もなかった。
お父さまは、私よりもサーニャのほうが大切だもの。仕方ないわ。
そう言って自身を慰めたけど、ちっとも、よくならなかった。
【お父さまは、私よりもサーニャのほうが大切だもの】
いつしか、誕生日プレゼントを奪われることも、なんとも思わなくなり、合言葉を作り、自身の意志を押さえつけた。
【仕方ないわ】
そう。仕方ないことなの。
私はサーニャのように可愛らしくないもの。
お姉さまのように美しくないもの。
だから、仕方ないの。お父さまも、お母さまも。
私を見てくれなくても。
『【仕方ないわ】』
そう言って笑った私の笑顔は、きっと引き攣り、醜く歪んでいた。
*
身体が優しく揺さぶられるのがわかりました。
「ル………ディア、ルル………!」
あまり揺らさないでください。起きますから。
ゆるゆると開いた目に入ってきたのは、焦りの表情を顔に浮かべる旦那様でした。
どうしたのですか、旦那様。
その言葉は出てこなかった。口を動かす気力がなかった。
旦那様に支えられ、木の幹に背を預ける。ゴツゴツとした感触が、服の上からでも伝わってきます。
ぼんやりとする視界に、旦那様が入ってきます。
「大丈夫なのか?」
何がでしょう。私は元気ですよ。
「魘されていたぞ。ずっと誰かに謝っていた」
寝言です。気にしないでください。
「なにか困っていることがあるのか?」
いいえ。ありませんよ。
何も言えないけれど、心配をかけるほどのことではないと切に言いたいです。
そんな私に、旦那様はどこか寂しそうな表情で話しかけてきます。
「俺では……力になれないか……?」
お言葉だけで結構です。私はどうせ今日の内に死ぬのですから。
私はそっと、力なく微笑みます。
胸は、ずくりと痛んだまま。
*
お昼ご飯は、何にしましょうか。
などと言いましたが、私は何も食べる気が起きませんから、今日はこのままぼんやりと裏庭の木々を眺めていようと思います。
葉が陽光で光るのを見るのはいいですね。薄い葉が陽光に透けて、キラキラしていてきれいです。
そのまま2時間ほどぼんやりとしていたところで、ひとつ気になることがありました。
何やら侍女たちが忙しそうに走り回っています。どうしたのでしょう。
すると一人の侍女が私を見て駆け寄ってきました。何か用があるのでしょうか。
「奥様!奥様のご家族がいらっしゃっています。奥様を出せと仰有っているのですが、いかがしましょう」
あの人たちが来た……?嘘でしょう。
いえ、彼女らはそんな嘘をつくような人ではありませんね。
納得した私は、家族に会うことにしました。
ええ、一応家族なわけですし、私は今日で死ぬのですから、最後にどんな形であれ会っておいて損はないと思うのです。
嫌な思いをしたらそれはそれです。
なんて思ってましたけれど。
「あらお姉さま、相変わらず薄汚い格好ですのね。これだからお姉さまは……」
「やはりレイラを伯爵家の嫁にすればよかったわね。あなたみたいなグズには過剰過ぎる嫁ぎ先だわ」
「ルルーディア、今からでも遅くはないわ、お姉さまと交換しない?ルルーディアはお家が好きだものね、断らないわよね」
「ルルーディア、お前は伯爵家で何をしているんだ?どうせ何もしていないのだから、離婚して戻ってきなさい」
そうでした。私の家族がまともな人のわけないのです。
嫌な思いをしたらそれはそれ、だなんて、嫌な思いをしないわけがないのに私は何を考えていたのでしょうか。
会っておいて損はないなんて……損しかないのに。
お帰り願いましょう。そうしましょう。
「ごめんなさい、今、とても忙しいの。来てくれて嬉しいけれど、早めに帰ってくれると有り難いわ」
オブラートに包む必要なんてありませんよね。
「あらルルーディア、そんなこと言わないの。お母様はあなたを思って──」
「そうよ、お姉さま。せっかく来たのだし、お姉さまともっとお話したいわ」
「ルルーディアはいつもそうね、来たばかりなのに追い返そうだなんて」
「お前は家族に情がないのか」
やっぱり帰らないですか。というか大体何の用なのでしょう。
先程の離婚して戻ってきなさいとは本気で言っているのですか?
う〜ん。どうお帰り願いましょうか……。
と考えていると、急に全身が重たくなったような感覚に襲われました。耐えきれず倒れ込むと、侍女たちが走り寄ってきます。
なんとか笑顔を作ろうとしますが、呼吸が苦しくて、上手くいきません。
───ここに来て一気に容態が悪化するだなんて。
予想していなかったといえば嘘になりますけれど、もう少し後だと思っていたのは事実です。
「部屋に……」
「は、はい!」
息苦しさを抱えながら、侍女たちに部屋まで連れて行ってもらいます。ベッドに横になった私は、天蓋を見つめながら、自身の死が近づいていることを強く感じました。
遺言を書いた手紙は、上から二番目の引き出しに入っています。私が死ねば、身辺整理もするでしょうから、きっと誰かが気づいてくれるはず。
ここに来て初めて話をしますが、私の病はクルチス病といい、発症してから一週間は、なにもないそうです。健康に異常が出ることもなく、病が一週間かけて身体を巡ることに気づく人はほとんどいないのだとか。
一週間後、つまり、その日を含めれば4日、含めなければ3日になったとき、体調を崩します。
進行状況は人によりますが、確実にわかっていることは、残りの3日間に病気によって体調が崩れ、3日後には発症した人は必ず死ぬということ。
今まで治療に成功した例は一度もなく、医術大国であっても、治療には成功していないそうです。
病にかかって一週間で気づき、3日後には死ぬという特徴から、十日病とも呼ばれるそうです。
だから、私はこの病にかかった以上、生きることはできないと、生を諦めました。
だんだんと動かすのが難しくなってくる身体をもう、動かそうとは思いませんでした。
家にいるときからずっと消えたくて、でも許されなかった死という物が、やっと私の手に落ちてきたのです。
なのに、どこか寂しくて。嬉しいのに、どこかで悲しんでいて。
私はもう少し、生きていたかったのだと、今になって感じました。
バタン
大きな音がして、旦那様とお義父様、お義母様が部屋に入ってきました。
皆様、顔を真っ青にしています。ふふ。
そんなに慌てなくてもいいですよ、私は大丈夫です。
そう伝えようとしたけれど、口はもう動かせなかった。だから、微笑む。今まで浮かべたことがないほどの笑顔を作ります。
今までありがとうございました。そう気持ちを込めて。
最後まで笑顔でいることが、私のやること。
そう、微笑んだ私は、だんだんと深い暗闇に落ちていきました。
真っ暗だけれど温かい、落ち着く場所に。
もう、私が目を覚ますことはないと、なんとなくわかりました。
さようなら、皆様。お元気で。
*
四の月、二十日。午後五時十二分。
スティカ伯爵夫人、ルルーディア・ルーチェ・スティカ。
死去