フクシア
人生は、美しい。
どんな体験も、どんな感情も
実は自分自身が選択しソウゾウし、生み出したものだ。
そこにはいいも悪いもなく
ただただユニークで、さまざまな形の愛が埋め込まれている。
第1章 6歳の時、私は死にたかった
私の記憶は3歳の時からある。
この記憶はいつのものだろう…
お葬式…、祖父の、6歳のころだ。
私は大人の感情とか気分にも敏感な子供だった。
この世界では、大人が言葉にすることと、感情や心は別物だと悟ったのはいつか、はっきりとはわからないけど、私は感じていた。
そしてこう思っていた。
「私はとんでもない世界に生まれてきてしまった」と。
こんにちは、新しい世界。
どれほど楽しみにしていたか、とかは、知らない。
けどまさか、人と人同士がまぎれもない信頼関係や愛で結ばれて「ない」精神状態が「ふつう」である世界に生まれてくるなんて、思いもしなかった。かと言って、そんなにひどい家庭環境だったわけではない。いわゆる普通の、どちらかといえばいい環境だったと思う。それでも私はそう感じた。
秋田県秋田市ー、私が生まれ育った家は、秋田駅から徒歩15分くらいの、住宅街にあった。小さな頃の古い家は、面白い構造だった。祖父、祖母、父、母、私と弟が二人。家族が増えるたびに増築を重ねたからである。中心にあるのは、台所と居間。外に見える景色は、祖父が作らせた坪庭で、隣の家の立派な松の樹を背景に、藤棚がかかった小さな滝の流れる池があり、錦鯉が優雅に泳いでいた。裏庭には砂場やブランコや柿の木もあり、私は季節のうつり変わりと共にたくさんの植物や果物や山菜や、鳥をめで、とても豊かに育ったのだと思う。
階段とトイレはふたつずつあり、下宿の大学生が2〜3人いた。ぐるぐる走り回れる築80年の古い家が、私は大好きだった。
祖父は、私のヒーローだった。3歳の頃、父が横浜に転勤になって引越しの最中、喧嘩する父と母の感情を感じとり泣き叫んで嘔吐した時、血相を変えて助けてくれた。祖父は一人っ子で、夕食中に幼い弟が祖父の晩酌の酒を倒してしまった時、ひどく怒って私達は2階へ移動して食事をしなければならなかったくらい威厳をもっていたが(その後溢れた酒をきれいにすすったという)、私には優しくていつも微笑んでいたから。戦時中も英語ができた為徴兵を免れた祖父は、NHKを定年退職した後、癌で入院した。私にアルファベットを教えてくれた祖父。
小学校へ入って、「常識」「時間」「お金」という、この世には奇妙な、どう捉えていいのかよくわからないものが存在するということを知った。小一の勉強は簡単だったけど、時計は読めなかったし、常識といわれるものに対しては違和感しか感じなかった。
4月下旬、祖父は死んでしまった。
目を、見開き私に手を伸ばして、必死に何かを伝えようとしてたけど、言葉にならなかった。すぐに弟と一緒に病室からだされてしまった。
数週間後、ショッピングセンターの駐車場で一人、後部座席に残りりんごを見つめてた。運転席と助手席の間にりんごがひとつ置いてあった。赤いりんごを見つめながら思ってた。
「この駐車場からとびおりたら、死ぬのかな」って。
すべてが、どうでもよくなった。
意味のわからない常識に従わないといけないのも嫌だった。とにかくなんとなく生きのびる為には、あまり何も見ず、何も感じないようにしようと思って、目を細めて、周りに流されて生きようと心に決め、ぼうっと毎日を過ごしていた。
登校する時は、決まって祖母が大きい通りを渡るところまで一緒に来てくれる。車が来ないのを見計らって祖母がランドセルの背中を押し、走って渡るスタイルだ。
ぽんっと押され、走り出した…はずだった。
次の瞬間、目の前にあったのは、すごいスピードで動くグレーのぶつぶつ。右から左へしゅんしゅん音を立てて滑っていく道路のアスファルト。
「何これ⁈…夢だ、ぜったいに夢だ!!」
車体の下で私の上半身は浮いていた。ランドセルがどこかに引っかかっていたせいらしいが、どこに?ランドセルを背負った子供の上半身が浮くほど軽自動車の車高は高いだろうか?
通勤中の大人達が数人で軽自動車を持ち上げると、かすり傷しかない女の子がでてきたのである。祖母と運転手の女性はヘナヘナと道路に座り込んだ。
救急車が来て担架にねかされ、大きなハサミで下から顔の方へ向かって衣服をジョキジョキと切られる。ピンクに黒のリボンが一面にプリントされた長袖のトレーナーは、1番お気に入りの服だった。病院についても消毒と絆創膏を貼られただけで処置はすぐに終わり、家に着くと母は祖母への怒りの感情のまま私にこう言った。
「あなた、ちびったわね!」
驚きの連続に言葉もでなかった。
そして、こう言われてる気がしたのである。
「しっかり自分の目を開いて見て、自分で考えて生きろ!」と。
この奇妙な世界で。
私はとても怖かった。
第2章 愛しています
小学2年生の冬。
同じクラスで仲のいい女の子がいた。
彼女(以下Sちゃん)とふたりで、同じクラスのいつも広島カープの赤いキャップをかぶった明るい男の子(以下Kくん)のファンになり、話のネタにして楽しんでた。
放課後Sちゃんと雪のなかで遊んでいたけど、急に飽きてしまったのか、Kくんに手紙を書こうと思いついて、その場でノートとペンをとりだし、こう買いた。
「Kくんへ 愛しています。…」
その後にどう書いたのか、覚えていないけど、おそらく
「Kくんへ 愛しています。あなたとキスしたい」とか、もしくは
「あなたとセックスしたい」と書いたかもしれない。
私はすごくわくわくしてしまって、封筒に名前と住所を書いて、切手を貼らずに投函してしまった。
数日後、機嫌良く帰宅すると、いきなり母に怒鳴られる。あまりの剣幕にすっかり引いてしまい、即座に「知らない」と答えた。
母は、娘がいたずらを受けた、として教育委員会に通報してしまった。
あの、手紙のことかって気付いたけど、当時の私はプライバシーが守られることを非常に重要視していたのと、愛を表現したにも関わらず怒られるなんて、間違ってる!という強い思いから、うそを突き通すことを決意した。
それから毎日毎日、筆跡鑑定を受けることになった。心を無にして繰り返される要求にひとつずつ答え、字を書いた。Sちゃんが、一緒に書いたって言おう?と言ってきたけど、「何のこと?」とかえした。「あなたが書いたんでしょう?」先生に言われても、私ではありませんと、答えた。
「なつきさんが書いたようです」「…!でも…、」
担任の先生はわざわざ訪問してくれて、母に告げた。先生が帰った後母は、「私に恥をかかせて!」と叫んだ。私は嵐が過ぎ去るのを待つようにじっとしていたが、その怒りと悲しみは、しっかりと受け取っていたよ。
第3章 いじめ風
小6の時に話した友達に、「あなたは小4の頃いじめられていたよね」と言われたことがある。周囲からみて、私はいじめられているように見えていた様だった。「そう、あれね」いじめられているように見えたとしても全く不思議じゃないんだけど、「あれ」は違った。
小1の事故の後、違うルートで登校するようになって、いつからかその通り沿いの家から通う、違うクラスのHちゃんと一緒に登校するようになった。Hちゃんはハキハキした子で、面倒見のいい姉御肌的な子だった。小4の時に彼女と同じクラスになった。姉御肌のHちゃんには、すぐに3〜4人の取り巻きができた。
私は食べ物の好き嫌いが多く、少食で痩せていた。Hちゃんからしたら、ほっとけないというかいじりたくなる存在だったのかもね。給食のときたくさん残す私を見て、取り巻き達は手で目隠しをし、両手を掴んで固定し、口を開けるように言った。私も面白がって好きなようにさせ、口を開けた。そこに食べ物を入れられる。みんなで協力して食べさせるあそびだったんだ。そうするとなんだか美味しかったし、そこには愛があった。Hちゃんは皆んなといるとやや高圧的に絡んでくるんだけど、2人になるとそっと手をつないでくる、男の子みたいな子だった。