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十字架上の日本

 第一次上海事変の停戦が実現して数日後、洋右は牧野伸顕内大臣からの密命に接しました。

「リットン調査団に接触せよ」

 満洲では、去る三月一日、清国最後の皇帝だった溥儀(ふぎ)を執政とする満洲国が独立を宣言していました。これに抗議するため中華民国政府は満洲問題を国際連盟に提訴しました。これをうけて国際連盟理事会は日支紛争調査委員会を設置し、リットン調査団を派遣していたのです。

 リットン調査団は三月十四日から二十六日まで上海に滞在しましたが、この間、洋右は二度にわたってリットン卿と会談しました。むろん日本の立場を説明し、理解を促すためです。

「遺憾ながら、支那は崩壊の過程をたどりつつあり、今や崩壊の徴証は歴然である」

 洋右は支那情勢を述べました。支那が自律的に混乱状態から回復する見込みはないのです。そして、この混乱に乗じて共産主義勢力が支那大陸に浸透しつつあります。

「ソビエト・ロシアは今なお世界革命の夢を捨てず、支那の混沌に乗じて支那の赤化を遂行し、次いでインドに魔手を伸ばし、アジアの赤化に成功した暁には、世界革命の道程に昇らんとしている」

 洋右は、満洲を支那軍閥に任せることは非現実的であると説きました。必ずソビエトによって赤化されてしまいます。赤化した満洲は世界共通の敵となる。だから、満洲のことは日本に任せておきなさい、というのが洋右の主張です。洋右は、満鉄による満洲開発の実績を強調しました。日本は満洲の経済産業を発展させ、未開だった満洲に文明秩序を確立させつつあります。この経済成長こそが共産主義に対する免疫です。よって、満洲に対する日本の影響力が失われれば、満洲はもとの無秩序状態にもどってしまい、赤化してしまいます。

「溥儀は日本の傀儡(かいらい)ではないか」

 という追求が洋右に向けられました。洋右は、あきれたような顔をして肩をすくめます。世界各地に多数の傀儡を養っているのは、むしろ欧米列強ではないか。しかし、そのことには触れず、洋右はズバリと切り返します。

「そうです。溥儀は日本の傀儡です。しかし、張作霖や張学良ならば可で、溥儀ならば不可という論拠はございますまい。彼らはみな日本の傀儡です」

 リットン調査団員には返す言葉がありません。ガツンと反撃しておいて、洋右は極東の歴史について説明し始めました。そもそも満洲は、漢民族にとって化外の地でした。その証拠に万里の長城が支那と満洲を隔てています。漢人は満洲を東夷と呼び、そこに暮らす騎馬民族を野蛮人とみなして侮蔑してきたのです。その満洲に女真族が王朝を建てました。女真族は勢力を増し、支那の明王朝と争い、ついに勝利して支那を平定しました。支那は女真族の植民地になったのです。その女真族はモンゴル、ウイグル、チベットと盟約を結んで連邦を形成し、その広大な版図を支配しました。これが清王朝です。つまり、清朝という満洲族の国家は、満洲、モンゴル、ウイグル、チベットの四国連合に、支那という植民地が付属するという構造だったのです。

 その清朝が辛亥革命によって倒れました。清朝が倒れたので四国連合は解体され、満洲、モンゴル、ウイグル、チベットはそれぞれ独立国に戻り、植民地だった支那も独立を回復したのです。これが辛亥革命の正しい歴史解釈です。したがって、清朝の版図を中華民国が継承すべきだとする孫文や蒋介石の主張には正統性がありません。

「孫文の大ボラにだまされてはいけません。満洲は中華民国の領土とは言えません。モンゴル、ウイグル、チベットも同様でございます。日本は確かに満洲に影響力を行使しております。しかし、イギリスもチベットに干渉しているではありませんか。モンゴルも実質的にソビエトの支配下にあります」

 皮肉を効かせながら、アジアの歴史に疎い欧米の貴顕紳士らに洋右はアジアの歴史を説きました。そして、日本国内で高まりつつある国際連盟脱退の世論に触れました。日本の国内世論は、国際連盟脱退に傾いています。もし日本が脱退すれば、国際連盟にとって痛手です。日本が脱退すれば、欧州諸国間の紛争を第三者的立場から仲介できる大国がいなくなってしまうからです。国際連盟の存在意義は大幅に低下するに違いないのです。

「それでもよろしいのですか」

 と穏やかに恫喝しておいて、洋右は満洲問題への理解をリットン卿に求め、会見を終えました。


 洋右が帰国したのは四月です。洋右は再び宮中に召され、上海事変について御進講するという栄に浴しました。大任を果たした気分でした。立候補者不在のまま実施されていた衆議院選挙で洋右は当選していました。


 そんな洋右を驚かせる事件が発生したのは五月十五日です。犬養毅総理が暗殺されたのです。犬養毅総理は安政二年生まれの老政治家で、満洲事変の早期収束を目指し、蒋介石との秘密交渉を進めていました。アジア主義者の犬養総理は、中華民国政府の満洲主権を認めつつ、行政権と警察権のみを要求しようとしていました。その内容は、のちのリットン報告の勧告案にやや近いものでした。そんな犬養総理は、満洲国からの国家承認要求を拒み続けていました。これが暗殺される一因だったようです。

 事件の直後、総理遭難の報に接した閣僚たちは内閣官房に参集し、徹夜で事態の収拾に当たりました。

「総理も間違っているよ」

 そうつぶやいたのは内閣書記官長の森(つとむ)です。これを聞きとがめたのは芳沢謙吉外務大臣です。

「どういうことだ」

 芳沢外相は犬養総理の娘婿でもあります。尋ねられた森恪は隠し立てせずに答えました。森書記官長によると、犬養総理は陸軍の中堅将校三十名程度を予備役に編入しようとしていました。いずれも満洲事変の当事者です。

「これがいけないんだ」

 森恪は言いました。芳沢外相は慄然とし、返す言葉を失いました。

 犬養総理の死に伴い、五月二十六日に斉藤実内閣が成立しました。外相は内田康哉です。かつて洋右が外務省を辞職した際、最も強く慰留してくれた先輩です。洋右の能力を買っていた内田外相は、来たるべき国際連盟総会に参加するよう洋右に要請しました。洋右はこれを了承し、準備のため七月末から満洲視察に出かけました。

 洋右は関東軍や満鉄の首脳に会い、現状の把握に努めました。満洲青年連盟などの居留民団体からは数多くの陳情を受けました。満洲の空気は概して国際連盟脱退論です。

 二週間の視察を終えて帰国した洋右は、青山南町二丁目の妻の実家に引きこもり、連盟総会の対策を練りました。来客をことごとく追い返し、例外的に吉田茂だけを頻繁に呼び寄せました。この時期、吉田茂はイタリア大使を終えたばかりで本国待機中でした。洋右は、吉田茂を相手に論じ、討論し、激論し、あらゆる想定問答をくり返して弁舌を鍛えようとしたのです。青山二丁目にカン高い吉田の声が響きます。それを圧し潰すように洋右の大声が唸ります。

「シゲ、来い」

 洋右は吉田を何度も呼び出し、模擬討論の相手をさせました。ちなみに吉田茂は洋右より二才年長です。ですが、そんなことに洋右は頓着しません。吉田茂ほど傲岸不遜な男さえ温和しくさせてしまうような威力を洋右は持っていました。吉田は何度も洋右に呼び出され、激しい議論に付き合わされ、しかも論破され、罵倒されました。洋右の死後、吉田は次のように述懐しました。

「松岡君の思い出といえば、良いことはあまり思い出がなくて、ひどい目にあったとか、いじめられたとか、そういう悪い方面だけが思い出として残るのであります」

 松岡と吉田は喧嘩ばかりして仲が悪いというのが世間の評でしたが、実のところ、ふたりは仲が良く、喧嘩友だちという言葉のとおり、毒舌仲間のふたりは会えば喧嘩まがいに舌戦を試み、互いの弁舌を鍛え合い、認め合っていたようです。


 斎藤実内閣の外相となった内田康哉は、日本の外交方針を従来の国際協調主義から自主外交路線へと転換した人物です。内田外相は、いわゆる幣原外交の弱腰を一擲し、強気の自主外交を外交方針としました。とはいえ、この内田康哉という人物はもともと国際協調主義の外交家でした。官僚時代の内田は幣原喜重郎の忠実な部下でしたし、外相となってワシントン条約の成立にも尽力しました。かつて福州事件のときに屈従的な対支和解をしたのも内田外相でした。いわば幣原喜重郎の後継者ともいうべき人物です。

 そんな内田康哉がなぜ国際協調主義から自主外交主義へと変節したのか。この間の経緯を理解することは、歴史の節目を理解するために重要だと思われます。

 問題は、ワシントン条約成立後の十年間に世界で何が起きていたか、です。この間、日本はワシントン条約を厳格に遵守していました。これに対して支那は条約を破りつづけました。中華民国政府も軍閥政府もワシントン条約を守りませんでした。満鉄時代の洋右が張作霖軍閥との交渉に苦労した理由もここにあったのです。さらに、欧米列国までがワシントン条約を反故にしはじめました。驚嘆したのは律儀に条約を守ってきた日本政府です。

「いったい全体どういうことだ」

 業を煮やした日本政府は、アメリカ政府の本音を確かめるために内田康哉を特使としてアメリカに派遣しました。内田特使は、アメリカ国務省にケロッグ国務長官を訪ね、日本の立場を説明し、アメリカの意向を確かめようとしました。内田特使はケロッグ長官に次のように訴えました。

「ケロッグ長官、お聞きください。支那に隣接するわが日本は、安全保障面でも経済面でも重大な関心を支那大陸に寄せざるを得ません。日本政府はアメリカ政府の呼びかけに応じ、国際協調主義に共鳴し、国益を抑制してまでワシントン条約を批准したのです。そして、日本政府は九ヶ国条約などに定められた条項をこの十年のあいだ忠実に遵守してきました。しかるに、当の中華民国がワシントン条約を無視する無法行為をくり返しているばかりでなく、英米をはじめとする締約諸国までが違背的行動をとるに至っている。国際協調主義の理念に立つならば、各国が団結し、中華民国政府にワシントン条約を遵守させるべきです。この際、アメリカ政府が主導して国際会議を開催すべきではないですか。もし、そうなさるなら日本政府は全面的に協力いたします。ワシントン会議を主導したアメリカ政府こそが中国問題に関する国際協力の保証人であると日本政府は認識しております。中国を国際協調の枠内に引き戻す意志をアメリカ政府が有しているのか否か、それを日本政府は知りたいのです」

 内田特使の真摯な問いかけに対してケロッグ国務長官は曖昧模糊とした抽象論で応じ、明確な回答を避けつづけました。その態度に内田特使は強く失望し、アメリカ政府に対して憤りを感じました。内田特使からの報告を聞いた日本政府は驚きましたが、なお自重し、出淵勝次駐米大使をしてアメリカ政府の意向を再確認させました。

「中国政府は、過去の約束の履行を反故にして、自国の要求事項を獲得することだけに熱中しています。列強諸国はこの事実を無視せず、中国が外国との責務や公約を反故にしないよう働きかけるべきです。中国に大きな関心を持ち、隣国中国の健全な発展を望む日本政府は、アメリカ政府がこれに同意されると確信しております」

 出淵大使の質問に対するアメリカ政府の回答は、とりつく島もないほどに素っ気ないものでした。

「各国は独自に行動する権利を有する」

 このアメリカ政府の態度に、日本の政治指導者は失望を通り越して激怒しました。「各国は独自に行動する権利を有する」というのなら条約など無意味です。国際協調主義とは何だったのか、ワシントン条約は欺瞞だったのであり、日本政府はまんまといっぱい食わされた、独自に行動して良いというなら、そうさせてもらおう。ワシントン条約の履行に最も熱心だった日本がワシントン体制を見限り、態度を変えていく理由はアメリカ政府の背信にあったのです。ワシントン会議を主導したアメリカ政府こそが中国問題に関する国際協力の保証人であると信じていた日本政府は、アメリカに裏切られ、やむなく自主外交路線へと方針を転換したのです。日本にしてみれば、やむを得ない選択でした。

 そんな日本の怒りの炎に、アメリカが油を注ぎます。満洲事変が勃発して関東軍が満洲を制圧し、満洲国が成立すると、アメリカのスチムソン国務長官がいけしゃあしゃあと先の論調を変えて声明したのです。

「日本は九ヶ国条約に違反している。アメリカは満洲国を承認しない」

 これを知った内田康哉は激怒しました。アメリカは「各国には独自に行動する権利がある」と言っておきながら、のうのうと前言を撤回し、日本を非難してきたのです。アメリカ政府にたぶらかされたという激憤が内田康哉という国際協調主義の紳士を自主外交論者へと変節させたのです。

 以上は、条約に対する日本人の生真面目さとアメリカ人の狡賢さがよくわかる外交史の一面です。こうした経緯があったため、斎藤実内閣の外相に就任した内田康哉は強烈な自主外交を主張し、帝国議会で過激な答弁をしました。

「満洲問題のためには、いわゆる挙国一致、国を焦土としても一歩も譲らない決心をもっている」

 この発言は「焦土演説」と呼ばれて話題となりました。内田外相の主導によって斉藤実内閣は、七月に満洲国の承認を閣議決定し、九月十五日には日満議定書に調印しました。ここにおいて日本は、満洲国の主権を認め、中華民国の満洲主権を否定したのです。


 翌月、リットン調査団は日支両国に調査報告書を手交しました。外務省は直ちに翻訳分析作業に入ります。その十日後、松岡洋右は国際連盟総会の全権代表として正式に任命されました。これは異例の人事です。通常ならば駐仏大使か駐白大使が全権代表になるべきところです。しかし、長岡春一駐仏大使と佐藤尚武駐白大使は相談のうえ全権代表を辞退し、松岡洋右を任命するよう意見具申したのです。その理由は、中華民国代表の流暢な英語力に対抗するためでした。

「松岡ならば遜色ない」

 外務省内の衆目は一致し、洋右に白羽の矢が立ちました。洋右の異能が外務省の人事慣行を打ち破ったのです。並外れた英語力と演説力を持つ洋右は、希有の能力者でした。しかしながら、裏を返していえば外務省内の人材不足が指摘されねばなりません。英語を自由自在に操り、外交談判に熟達し、演説にも優れた人材がいなかったのです。

 松岡洋右を全権代表とする日本全権団は、十月二十三日に敦賀を出港、ウラジオストク港へ向かいました。そこから先は鉄道の旅です。満鉄とシベリア鉄道を乗り継いでモスクワに入りました。洋右はモスクワに五日間滞在し、ソ連政府のリトビノフ外相やカラハン外務次官と会談しました。洋右は、満洲国を承認するようソ連側に要請してみましたが、これは拒絶されました。

 一方、外務省ではリットン報告書の翻訳分析作業が進められ、逐次、その内容が洋右のもとへ電報されてきています。リットン報告は、満洲の現状認識については公平でした。支那軍閥には内政統治能力がなく、日本の統治と開発が満洲を発展させたことを認めています。ただ、最終的な結論では中華民国の主権を認め、満洲に自治政府を成立させるとしています。つまり、リットン報告は満洲国を承認しませんでした。しかも、満洲自治政府には列強諸国の顧問や教官を雇い入れさせ、国際協力を進めるとしています。これに加えて満洲を非武装化するともしていました。これは日本としては呑めない条件です。ポーツマス条約によって日本がロシアから獲得した鉄道附属地への駐兵権が否定されるからです。

「リットン報告書の提案は、要するに満洲のバルカン化じゃ。これは必ず失敗する。バルカンの現実を見てみよ。リットン卿も芸がない」

 洋右は喝破します。リットン報告の提言は、斉藤実内閣の方針と明らかに対立していました。

(これをいかにして調整するか)

 洋右は、冬枯れていく欧露の大地を車窓に眺めながら考えます。

(幣原の弱腰外交には百害あって一理もない。じゃが、強気一辺倒の内田外相も極端に過ぎやせんか)

 日本の不幸は、政府の外交方針が屈従と強気との間で大きく振幅し、安定を欠いたことです。洋右は、両者の中道をとろうとします。

(屈従も悪いが強気一辺倒も芸がない。日本は満洲を実効支配しておるのだから、現状維持で良いのだ。満洲国政府をして善政を布かしめ、その実効支配を継続して平和と繁栄を実現し、実績で国際世論を納得させる。そのためには時間が必要だ。つまり長期外交戦が日本に有利である)

 洋右の胸中にある外交方針は、リットン報告とも違い、内田外相の自主外交方針とも異なっていました。満鉄経営に深く関与した洋右は、当然ながら満洲事情に詳しい。疑いようもなく日本の投資と開発によって満洲は発展し、日本の統治が治安を改善させつつあります。これを続けていけばよいのです。満洲国発展の実をあげることによって国際社会を説得していくのです。日本政府としては国際連盟の顔を立てつつ時間を稼ぎ、満洲の実効支配を不動のものとしてゆく。

(これが最善策じゃ)

 洋右は、一方では国際連盟を説得し、他方では日本政府を折伏せねばなりません。きわめて困難ではありますが、これを達成するつもりです。


 ジュネーブには十一月十八日に到着しました。洋右はさっそく国際連盟事務総長ドラモンドを訪問し、また英外相サイモンと会談しました。このとき洋右は強気の発言をしています。

「満洲国が承認されないなら、日本は国際連盟を脱退する」

 むろん本心ではありません。洋右の強硬発言は、いずれ妥協するための布石です。洋右の交渉術は、右と見せておいて左へ、否定と見せておいて肯定へ、というものでした。

 十一月二十一日、国際連盟理事会においてリットン報告書の審議が始まりました。出席したのは当事国の日本と中華民国、英仏独伊の列強、そしてチェコ、スペイン、グアテマラ、ノルウェイ、アイルランド、パナマ、メキシコ、ポーランドといった小国の代表です。

 この日から洋右は機会あるごとに発言し、リットン報告に含まれる誤謬を訂正するよう訴えました。そして、中華民国代表の顧維鈞(こいきん)と四度にわたって舌戦を繰り広げました。顧維鈞は、豊臣秀吉の朝鮮征伐をとりあげたり、田中上奏文という捏造文書などを引用したりして日本の侵略性を印象づけようとしました。これに対して洋右は、顧維鈞の毒舌を軽くいなし、支那大陸の現実を述べました。支那軍閥の支配地には法も秩序もない、したがって軍閥の悪政から日本国民の生命と財産を保護するのは日本政府の当然の使命であるとしました。洋右は「満蒙は日本の生命線である」とくり返し述べました。そのためジュネーブでは「生命線ライフライン」が流行語になったほどです。

 十二月六日からは国際連盟特別総会が舌戦の舞台となりました。初日、中華民国代表の顔慶恵と洋右とがそれぞれ演説し、以後は各国代表による意見陳述となりました。満洲事情に疎い各国代表は、当事国の意見よりも第三者たるリットン報告を信用し、支持する傾向にありました。この情勢を洋右は演説によってくつがえさねばなりません。

 十二月八日、この日の最終演説者として演壇に立った洋右は、後世「十字架上の日本」として知られる歴史的演説をやってのけます。

「国際連盟が設立されて以来、列強間の紛争は抑止されてきました。これは偉大な実績です。しかし、その国際連盟が、なぜか日支紛争についてだけは紛争を助長しているように見えるのです。これが国際連盟の意志だとは私は信じません。しかし、そのように事態が進行しているのです。日支紛争をあおっているのが何者なのか私は知りません。何者かに使嗾(しそう)された支那は日支の直接交渉を拒絶しています。支那には日支直接交渉を望んでいる人々が数多くいることを私は知っています。

 ご存じのように国際連盟の目的は平和です。英米仏その他諸国の目的もまた平和です。日本の目的も平和です。反日的なプロパガンダにだまされないで下さい。目的は同じなのに手段が異なっているのです。日本は国運にかかわる大問題に直面しています。同時に極東平和という難問にも取り組んでいます。常識的に考えてみて下さい。日本こそが極東を知っているのです。

 欧米の一部の識者は、国際世論は反日であり、日本も反国際だと主張しています。本当でしょうか。日本には欧米から数多くの手紙やテレグラフが届いています。それらは日本の立場を理解し、応援してくれています。頑強に反日を訴える人々も確かに存在し、反日世論が広がっています。しかし、その国際世論がくつがえらないと誰が断言できるでしょう。二千年前、人類はナザレのイエスを十字架にかけました。そして、今、いわゆる国際世論なるものが同じ過ちを繰り返さないと誰が確約できますか。私ども日本人は、いま、審判にかけられていると感じています。この二十世紀に日本を十字架にかけたいと願う人々が欧州やアメリカにはいらっしゃるようです。諸君、日本は磔刑を覚悟しています。しかし、私どもは堅く信じています。数年を経ずして世界の世論は意見を変え、われわれ日本人がナザレのイエスのように世界から理解される日が来ると。

 最後に皆様の注意を喚起しておきたい。私は、出来るだけ短い言葉で、極東の概況を説明したいのです。あと数分だけご辛抱ください。ご承知のように、外蒙古は支那から離反し、いまや実質的にソビエト連邦の一部です。今日、支那の地図にチベットはありません。支那領トルキスタンは南京政府と没交渉です。共産主義は支那中心部にまで浸透しています。日本の面積の実に六倍に及ぶ地域が共産主義の影響下にあります。この問題を検討させて下さい。なぜ、共産主義の影響範囲は現状の地域に止まり、もっと急速に拡大していかないのか。その答えは日本の存在です。すくなくともソビエト連邦は日本を軽視していません。日本の立場が弱まれば、国際連盟や各国機関の影響力も弱まり、共産主義勢力は瞬く間に揚子江にまで達するでしょう。

 もし日本が支那を見捨て、支那の情勢をひたすら傍観するのみだったら、共産主義勢力は支那大陸を急速に呑み込むでしょう。支那の友人が何と言おうと、支那の共産化は止められないと私は確信しています。まして日本がソビエトと協約を結び、対支不干渉を約束したら決定的です。

 国際連盟の目的が本当に世界平和であるなら、そして、極東の平和がその一部分であるなら、あなたはどちらを選択しますか。混迷する東アジアの唯一の希望である日本を弱くして、さらなる混沌を東アジアにもたらしますか。それとも日本の立場を強くして、東アジアに平和と秩序を樹立させますか。この答えを皆様に委ねます。ご静聴を感謝いたします」

 洋右の演説が終わると議場は拍手喝采に包まれました。演説は成功したのです。極東からはるか遠い欧州や南米の小国代表までが熱心に拍手しました。

「言論というより詩ですね」

 洋右の演説を激賞したのはサイモン英外相です。日本の全権団もみな感動しました。長いあいだ言いたくても上手く言えなかった日本の言い分、幣原外交に代表される屈従外交によって踏みにじられてきた日本人の心情、それを松岡全権がようやく国際連盟総会の大舞台で存分に表明してくれたのです。洋右の演説は、訥弁国民である日本人の心中に積もりに積もっていた長年の鬱憤を一気に晴らしてくれました。満洲事変の首謀者であり、全権団随員となっていた石原完爾少佐も感激しました。

「もうこれでいいのだ。よくやってくれた。あとはどうでもよい。これですんだのだ」

 石原少佐のこの感想は、多くの日本人の心理を代弁していたでしょう。明治以来、日本の立場を理解してくれる隣国がありませんでした。国際的孤立というなら、最初から孤立していたのです。なぜなら東南アジアはことごとく列強の植民地と化していたし、清国と李氏朝鮮はその中華思想から日本を蔑視していたからです。日本の願望は、親日的な独立国家が支那、朝鮮、満洲に成立してくれることでしたが、傍観している限り、その見通しは全くありませんでした。そうである以上、日本は大陸に介入していくしかありません。

「日本の立場をわかってほしい」

 という日本人のナイーブさを欧米の現実主義者はあざ笑うかもしれません。そもそも国際社会に相互理解などあり得ず、独立と孤立は同義であり、優勝劣敗と利害損得だけが欧米主導の国際ルールだからです。しかしながら、洋右の演説は、欧米的な国際ルールの信奉者たちの心をさえ強く揺さぶり、冷徹な外交戦の場にふさわしからぬ感動を呼び興したのです。

 洋右の演説は日本に伝わり、世論を大いに喚起しました。全国百三十二社の新聞社は、共同宣言を発表し、国際連盟脱退を訴えました。

「いやしくも満洲国の厳然たる存立を危うくするがごとき解決案は、いかなる事情、いかなる背景において提起さるるを問わず、断じて受諾すべきものに非ざることを、日本言論機関の名においてここに明確に声明するものである」

 洋右の名演説は、国際連盟の議場に感動をもたらしたという意味において成功しましたが、日本国内の連盟脱退論を強めるという副作用をも生んでしまいました。


挿絵(By みてみん)

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