第一次上海事変
昭和六年三月二十七日に帝国議会が閉会すると、洋右は執筆活動に入りました。政治家としての主義や政策を書籍にして頒布し、有権者の理解を得ようと考えたのです。洋右は「日本と満蒙」、「満蒙問題の考察」、「動く満蒙」、「東亜全局の動揺」などをこの時期に書きあげました。洋右の政治的立場はいわゆるアジア主義であり、大陸進出論です。そのことは「満蒙は日本の生命線」、「なんぞ富国にとどまらん、なんぞ強兵にとどまらん、大義を四海に布かんのみ」といった言葉に表現されています。実に気宇壮大というしかありません。とはいえ、その目的はあくまでも日本の安全保障にあり、山県有朋の語った「極東立て籠もり」論です。満洲に反日的な巨大国家を成立せしめないという国家戦略であり、要は親日国家を満蒙に樹立させることでした。満蒙の経済、法律、治安、文化などを向上させながら長年月をかけて実効支配を進めていく。これが洋右の持論です。
書斎に籠もっていた洋右が満洲事変の勃発を知ったのは、昭和六年九月十九日、代々木の自宅においてです。早朝から洋右は新著の校正原稿に赤鉛筆で訂正を入れていました。やがて朝刊が届きます。
「日支両軍ついに交戦」
大見出しが眼に飛び込んできました。そのときの衝撃を洋右は校正後記に書いています。
「朝刊が来た。眼を見張った。が、次の瞬間に力なく校正の赤鉛筆を放り出して、吾れ知らず、うなだれた。外交は完全に破産した。威力はまったく地に墜ちた。世界を挙げて我が勢力の存在を認めていたはずの満蒙で、このていたらくは何事であるか。実はわが軍人ほど堪忍強い者はない。それがこの挙に出たということはよくよくのことであったろう。こんなことを防ごうと思えばこそ筆も執った。もう校正をする勇気もない。砲火剣光の下に外交はない。東亜の大局をつなぐ力も無い。やんぬるかな、噫」
洋右は根っからの外交家であり、常に戦争を避けようと考えていました。そのことは「砲火剣光の下に外交はない」という言葉によく表現されています。あくまでも外交的努力によって東亜政策を推進する。それが政治家としての洋右の目標でした。しかし、実際に戦闘が始まってしまいました。こうなってしまうと、その尻ぬぐいだけが外交の仕事となるのです。
満洲事変はなかなか収束しませんでした。政府は不拡大をくり返し声明していますが、満洲の戦線は拡大していきます。洋右はジリジリしてきました。帝国議会は閉会中であり、衆議院議員とはいえ為す術がありません。居ても立ってもいられなくなった洋右は政友会の有力者に面談し、党のとるべき方針について意見しました。
「この問題は対アメリカ問題であり、対国際連盟問題である。国内の政局など小事に過ぎない。だから、これを好機として民政党から政権を奪おうなどという姑息な考えは捨てねばならぬ。いまは党利党略ではなく、国益重視で若槻内閣を支持してやるべきだ」
国家的見地から民政党の若槻内閣をささえてやり、挙国一致で満洲問題に対処すべきだ、と洋右は政友会の重鎮を説いて回りました。しかし、政友会は洋右の意見とは逆に、政権奪取の画策に熱中します。洋右が政党に失望したのはこの時です。この経験は、のちに洋右を政党解消運動へと走らせます。
洋右の焦燥をよそに満洲の戦火は拡大していきました。この間、洋右がもっとも遺憾としたことは、関東軍の行動と政府声明とが常に矛盾したことです。不拡大を政府が声明すると、関東軍が進出する。チチハルには行かないと政府が声明すると、関東軍が進軍する。錦州には手を出さないと政府が声明すると、関東軍が錦州を爆撃する。これでは国際的な信用が根こそぎ失われてしまいます。
満洲軍閥政府の無法な排日運動に対して長らく無為無策であり続けた日本政府は、身内の関東軍の行動に対しても無力でした。さらに悪いことに、外務省は満洲事変を日中両国で解決することに失敗し、中華民国政府による国際連盟への提訴を許してしまいました。
「本事変を国際連盟へ持ち出さしめたるは大失態なり」
枢密院では石井菊次郎顧問官をはじめとする重鎮たちがこぞって幣原外交の迂闊を責めました。当然です。なぜなら国際連盟加盟国およそ五十数ヶ国のうち、大部分は欧州の小国です。いずれも極東事情には無知な門外漢といってよく、関心も薄い。しかし、それら欧州諸国の代表が連盟総会では一票を持つのです。中華民国政府のプロパガンダが成功すれば日本は窮地に追い込まれるかもしれません。明らかに蒋介石の外交的勝利です。
蒋介石にとって国際連盟ほど利用価値のある外交舞台はありません。蒋介石にしてみれば、それ以外に手段がなかったともいえます。列強に国内を蚕食され、おまけに軍閥割拠の内乱状態、しかも配下の将兵は弱兵で列国の軍隊には歯が立たない。この悲惨な条件下にあって、なお外交と情報で戦い抜こうとする蒋介石の驚異的な粘り腰です。
満洲では、兵力わずか二万にも満たない関東軍が全域をほぼ平定し、戦火をおさめてしまいました。すると国際連盟における満洲論議も沈静化しました。そもそも欧州諸国は極東問題に関心が薄いのです。
(まずい)
と思ったのは蒋介石です。蒋介石は、捨て身の戦略を実行します。満洲からはるか遠い上海で紛争を起こしたのです。蒋介石は第十九路軍をして上海租界を包囲せしめ、便衣兵を租界地内に侵入させて騒擾を起こさせました。これが第一次上海事変の淵源です。こののち上海租界内において日支両軍の小競り合いが頻発します。
「満洲の戦火が上海に飛び火した」
などと史書に書かれていますが、甚だしい誤謬です。戦争は自然現象ではありません。そこには蒋介石の深謀遠慮がありました。この点を評価してやらねば、むしろ蒋介石に対して失礼です。蒋介石のねらいは、国際社会の関心を極東に向けさせるところにありました。上海租界には列強諸国の外交機関や駐屯軍司令部や派遣艦隊などが集まっています。報道機関の支局もあります。その上海で争乱を起こせば自動的に世界の耳目が極東に集まります。世界の関心を上海に集めておき、ジュネーブの国際連盟で反日プロバガンダを撒き散らせば、日本と世界とを対立させることができる。軍事と外交と情報を連動させた蒋介石の見事な戦略です。
これに比べると、日本の政治中枢は吞気だったというしかありません。政友会は政権奪取に動きます。昭和六年十二月、満洲事変に対応できぬ若槻礼次郎内閣を総辞職に追い込み、政友会主導の犬養毅内閣を成立させました。同月下旬、ようやく第六十議会が開会されましたが、翌年一月には衆院解散となりました。衆議院総選挙が行われることとなり、その投票日は二月二十日と決まりました。
通常ならば、洋右は選挙区に入り、選挙準備と遊説に日を過ごさねばなりません。しかし、洋右は選挙運動を事務所まかせにし、山口県には下向しませんでした。洋右は、国際連盟とアメリカと上海の動向を注視しつづけました。
昭和七年二月五日、洋右は、芳沢謙吉外相と面会するため外務大臣公邸を訪ねました。洋右にとって芳沢外相は外務官僚時代の先輩であり、上司です。その芳沢外相に向かって洋右はズケズケと傍若無人な物言いをします。
「わしが向こうへ行って、いろいろ奔走してやるから君の代表にしてくれ。君の代表なら何でもいい」
アメリカ仕込みの洋右は、自分を売り込むことに躊躇がありません。芳沢外相は洋右の能力を買っていましたから、その無礼を許しました。芳沢外相は犬養総理と相談し、総理兼外相の特使として松岡洋右を上海に派遣することにしました。ここから縦横家松岡洋右の獅子奮迅の活躍がはじまります。
上海では、一月以来、蒋介石指揮下の軍勢およそ十万が上海国際租界を囲んでいます。さらに便衣兵が租界内に侵入し、テロや暴動を働き、租界内の治安を極端に悪化させています。上海の日本海軍第三艦隊は陸戦隊三千名を上陸させて租界の防備に当たらせていましたが、なにしろ多勢に無勢です。ついに海軍は陸軍に派兵を要請するに至りました。
洋右の懸念は、日中間の紛争もさることながら、そのさきの日米関係の悪化にありました。上海租界には列強諸国の艦隊が駐留しています。何かの間違い、例えば流れ弾などで日米間に紛争が生まれはしないかと、洋右は恐れつづけます。
それにしても、昭和七年の時点で日米戦争を心配した政治家はおそらく洋右ひとりだったでしょう。のちに松岡洋右外相の下で外務次官を務めた大橋忠一は、戦後、次のように述べています。
「松岡氏もなかなか非常に親しんでおるアメリカ、しかもアメリカとの戦争を、もう、常に恐れとった。アルマゲドンとか、何遍聞いたかしらん。大変なことになってしまうというので」
日本で生まれ育ち、アメリカで青春期を過ごした洋右にとって、日米の戦争こそ最大の悲劇です。アメリカ社会の底辺で辛酸をなめ、人種差別と悪戦苦闘しながら成長し、その過程で自己の能力を高めてきた洋右は、アメリカの量り知れぬ国力を知っています。地獄絵図のような日米戦争の結末を想像し、戦慄していました。それゆえにこそ常識破りの猟官運動を敢えて為し、特使となったのです。
二月八日、洋右は御進講の機会を与えられ、親しくご尊顔を拝する栄誉を賜りました。洋右は日満関係を講じました。昭和天皇は熱心にお聴きになり、御下問なされました。
「日支親善は出来得るや」
昭和天皇は日支間に発生した事変を御憂慮なされていました。洋右は次のように奉答しました。
「近い民族というものはなかなか親善し難きものでございます。これは生物学の原理でもございまして、日支の親善はなかなか困難なりと思考いたします」
洋右が上海に入ったのは二月十八日です。キャセイ・ホテルに投宿すると、すぐに事態の把握を開始しました。重光葵公使と村井倉松総領事を呼んで事情を聞き、また居留民会長、日本商社代表、税務司などを次々に招いて意見を聴取しました。普段の洋右は、相手にしゃべる暇を与えずにひたすらしゃべり散らすのですが、この時ばかりは聞き役に徹しました。これを見て誰もが意外に思いました。
「松岡君が口をきかないのは奇跡のようなものだった」
と重光葵は後に書いています。在留邦人の口からは外務省の軟弱外交を非難する意見が多く聞かれ、暴支膺懲の要望が強い。意見聴取を終えた洋右は重光公使と意見を交換しました。
「早期停戦」
ふたりの意見は一致しました。上海租界を包囲している第十九路軍を上海郊外に押し返し、すみやかに停戦する。国際世論を沈静化させるには、それが最善です。現状を打開するためには陸軍に期待するしかありません。迅速に蒋介石軍を排除して停戦するのです。こうして中華民国政府からプロパガンダを実施する口実と機会を奪うのです。すでに蒋介石に先手を打たれている以上、遅ればせながらこれで対抗するほかはありません。
翌朝、洋右はキャセイ・ホテルの窓から黄埔江を見下ろしました。地図で見ると、黄埔江は広大な揚子江の河口にある細流に過ぎません。ですが、現実の黄埔江は川幅が五百メートルほどもある大河で、日本のどんな河川よりも広い。数多くの商船や列国の軍艦が往来しています。
黄埔江の西岸が租界です。この租界こそ、列強による支那侵略の拠点であり、また上海を世界的大都市たらしめた原動力です。ここには莫大な富が蓄積されており、支那の「蝿」にとっては眼前の「飯」となっています。
洋右は重光公使と共に上海を飛び回りました。英米仏伊の公使館を訪ねて意見を交換し、早期停戦の方針を伝えました。次いで第三艦隊司令官の野村吉三郎中将を訪ね、英米両国艦隊との共同作戦を進言しました。共同作戦中であれば日米英間に間違いの起こることはないでしょう。さらに第九師団の司令部を訪ね、司令官植田謙吉中将に国際情勢を説明し、早期の攻撃開始と早期停戦を要望しました。
二月二十日午前九時、日本軍第九師団は総攻撃を開始しました。行く手を阻むクリークや散兵濠やトーチカ陣地に悩まされつつ日本軍部隊は前進します。廟巷鎮付近の戦闘においては、いわゆる爆弾三勇士による鉄条網破壊が敢行されました。敵軍の抵抗に加え、飲料水と糧食の不足、零下八度の寒冷など悪条件が重なり、第九師団の各部隊は苦戦しました。損害は小さくありません。これに対して第十九路軍は兵力を増強させ、第九師団の前進を阻みます。
この戦況を見て、陸軍参謀本部は二個師団増派と上海派遣軍の編成を決定しました。上海派遣軍司令官に任命されたのは白川義則大将です。二月二十五日、白川大将は親補式に臨み、昭和天皇から直々に御言葉を賜りました。
「上海から第十九路軍を撃退したら、決して長追いしてはならない。次の国際連盟総会は三月三日に開かれる。三月三日までに何とか停戦してほしい。私はこれまで幾度か裏切られた。お前なら守ってくれるであろうと思っている」
上海では洋右が東奔西走しています。二月二十七日、洋右は野村吉三郎中将とともに英国巡洋艦「ケント」に乗り込みました。ジョン・ケリー英国海軍大将の斡旋により、艦上で日支会談が開かれました。支那側代表は、第十九路軍参謀長の黄強と、特使の顧維鈞です。二時間ほどの会談で日支両軍の撤退時期や撤退区域が議論されました。合意には至りませんでしたが、日支双方が現地交渉したという事実がジュネーブの国際連盟に伝わると対日非難は沈静化しました。
上海派遣軍を満載した輸送船団は二月二十九日に揚子江河口に到達しました。白川義則大将は、輸送船内から各部隊に総攻撃開始を下命しました。すでに戦闘中の第九師団には廟巷鎮および江湾鎮への再攻撃が命じられました。新戦力の第十一師団には、揚子江岸六里橋付近への敵前上陸が命じられました。この第十一師団は、上陸後、南下して第十九路軍の横腹を突くのです。
三月一日未明、白川義則大将は上海の呉淞に上陸し、司令部を鐘紡の社屋内に置きました。午前八時、第十一師団は六里橋への敵前上陸を成功させ、南進を開始しました。第九師団は頑強な敵陣地に対して間断なく攻撃を加えます。
翌二日、廟巷鎮、江湾鎮の支那軍が退却を始めました。第九師団は追撃に移り、午後四時までに大場鎮を抜き、その夜のうちに翔南の手前まで推進しました。第十一師団は、二日午後四時までに劉河鎮に進出しました。そして、問題の三月三日早朝、第九師団は翔南を制圧、第十一師団は嘉定を陥れました。上海派遣軍は、上海租界二十キロ圏内から第十九路軍を撃退したのです。
その三月三日の午前八時頃、洋右は重光葵公使とともに上海派遣軍司令部を訪れていました。停戦の意見具申をするためです。広々とした重役室の真ん中にテーブルが置かれ、白川軍司令官、田代参謀長、重光公使、松岡特使の四名が対座しました。まず口を開いたのは重光公使です。重光公使は国際情勢と日本の立場を説き、直ちに停戦することが日本のためになると訴えました。しかし、白川軍司令官も田代参謀長も無言です。まったく反応がありません。やむなく重光公使は同じことを三度くり返して話しました。それでも白川大将は沈黙しています。田代参謀長に目を向けても同様です。その様子を見た洋右は、俺に任せろと言わんばかりにしゃしゃり出て、得意の長広舌をふるって大いに弁じ、一場の大演説をふたりの将軍に披露しました。が、白川軍司令官も田代参謀長も顔色ひとつかえず、ものも言わず、ただ姿勢正しく椅子に座っているばかりです。洋右は小一時間ほど熱弁を振るいましたが、何の反応も見せない相手にふてくされてしまい、座を立つと窓際のソファにふんぞり返ってしまいました。大人げない洋右をみた重光公使が再び説得に当たります。重光公使は同じ内容を飽きることなく説きました。それでも白川大将は無言を貫いています。
やがて昼になり、会議室に食事が運ばれてきました。しかし、白川大将はそれを向こうへ押しやり、箸を付けようともしません。ただ黙考端座しています。
すでに午後一時になりました。重光葵公使はヘトヘトに疲れていましたが、残った気力を奮って再度の説得を試みます。
「今われわれは上海における軍部と外交部の最高責任者として国家の重大事を相談している。この結果は日本の将来の国運に少なからず影響する。東京の宮中におかれてはさぞかし陛下が御心配をなされておられるでしょう。実に恐懼に耐えません」
重光公使のこの言葉に白川大将が反応しました。感に堪えぬといった面持ちで黙っていましたが、しばらくするとバネ仕掛けのように起立しました。白川大将は直立不動の姿勢をとり、まるで天皇陛下に復命するかのように虚空に向かって言上しました。
「白川は、戦争をやめます。停戦命令を出します」
言い終わると白川大将は静かに着席しました。その様子を唖然として見ていた重光公使は、気を取り直して声をかけました。
「それはご立派なご決断です」
田代参謀長も言葉を添えます。
「軍司令官がおやめになるならば、田代も全くこれに賛同申し上げます」
ソファに寝そべっていた洋右は、跳び上がって喜び、テーブルに戻ってくると「じつに結構なことだ」とベラベラしゃべり出しました。こうした洋右の現金な態度を白川大将は心の内で軽蔑していたかもしれません。
日本の将軍は、決断を迫られると沈思黙考するのが型です。重大な決断をする困難さは、その本人にしか解らないでしょう。なにしろ白川大将の指揮下には十万の将兵がおり、その将兵の命を白川大将は預かっているのです。後世からみればしごく平凡と思われる決心でも、その時その場で重大な責任とともに決定するには満身の気力を総動員せねばなりません。
白川大将のもとには、ありとあらゆる情報と要望が伝えられてきていました。最前線部隊はしきりに進撃の許可を求めてきます。参謀本部からは「太湖に向かって進軍することを期待する」との電報が届いています。そして、眼前の外交官ふたりは停戦せよと説得します。甲論乙駁には際限がありません。さらに将軍といえども生身の人間です。名誉欲もあれば、失敗を恐怖する心もあるのです。結局、白川大将の決断を促したものは昭和天皇の御言葉だったようです。
白川軍司令官の決断を聞いた田代参謀長は隣室にさがり、停戦命令書を立案して戻ってきました。四人は協議して字句を修正し、白川大将の署名を得て、正式な停戦命令書が発令されました。午後二時です。
「支那軍が抵抗せざるにおいては、日本軍はこれ以上進出せず」
目的を果たした洋右と重光は司令部を辞しました。帰りの車中、洋右は言わでものことを言います。
「白川という奴はね、要領を得るまでには容易なこっちゃない。しかし、あれは了解したら筋の間違わん奴だから、もう安心だ」
ほめているのか、けなしているのか、わからぬような放言です。しかし、洋右としては誉めたつもりです。ちなみに白川義則大将は伊予松山の出身で、海軍の秋山真之提督と同齢です。陸軍に入った白川大将は秋山好古将軍の薫陶を受けました。洋右は、上海領事館時代に秋山真之と相知り、親友になっていましたから、白川大将のことも聞き知っていたのです。
第一次上海事変は白川義則大将の水際立った指揮統率によって収束しました。停戦声明の一報は朝を迎えたジュネーブの国際連盟に伝わり、連盟総会は日本軍の行動を称賛しました。結果として外交と軍事が絶妙に連携したといえます。
わずか三日間の戦闘で敵軍を撃退し、速やかに停戦するという見事な采配を見せた白川義則大将でしたが、その翌月、悲運に襲われました。昭和七年四月二十九日、上海の虹口公園で天長節祝賀会が催されました。列席していた白川大将は、ここで爆弾テロに遭遇し、身体の百八ヶ所に弾片を受けてしまいました。重光葵公使も片脚を失い、野村吉三郎中将も片目を失いました。白川大将は重傷を負いつつも起ち上がり、事態の収拾を指揮しました。白川大将は入院し、一時小康を得ました。昭和天皇は異例の勅語を下賜して白川大将を慰労しました。
「朕、深ク其ノ勞ヲ嘉ス」
しかしながら五月二十六日、容態が急変して白川大将は死にました。世間は白川大将の武功を間もなく忘れてしまいました。しかし、翌年の桃の節句、昭和天皇は白川義則の未亡人にあてて秘かに一首の御製を贈られました。
をとめらの雛まつる日に戦をば とどめしいさほ 思い出でにけり