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南京事件

 満鉄理事を辞めた洋右は年来の希望である政治家に転身しようと決意し、政友会に接近します。洋右は機敏です。昭和二年二月には政友会の中国政情視察団に同行して支那各地を巡視しました。

 支那は戦乱期でした。広東に本拠を置く蒋介石(しょうかいせき)は、ソビエト連邦の援助を得て軍備を整え、昭和元年七月に北伐を宣言し、支那統一の覇業を開始していました。以後、蒋介石軍の北上に伴って戦闘が支那各地で生起し、戦闘のあとには将兵による略奪暴行が頻発しました。それもそのはずで支那軍閥の将兵は、その大部分が拉致されてきた若者や犯罪者や山賊や匪賊です。しかも共産匪賊も混入していました。このような軍隊には戦意も軍律もありません。蒋介石軍とて例外ではなく、役に立ちませんでした。しかし、その役立たずの軍隊を督戦隊が変えました。

「督戦隊を設置すべきです」

 蒋介石に進言したのはドイツ軍の顧問団でした。欧州列強は、植民地の土人どもに銃を担がせて一軍を組織させ、つねに危険な最前線に配置します。そして、白人部隊は安全な後方から督戦隊として土人部隊を監視するのです。土人部隊が攻撃を躊躇したり、逃げ出したりすれば、督戦隊は後方から容赦なく狙い撃ちます。人種差別に根ざした白人国家特有の残酷な軍法です。

 ちなみにアメリカ軍は黒人部隊や日系人部隊を編制し、やはり最前線へ投入しました。督戦隊こそ置かなかったものの、米国内の人種差別を部隊編制にそのまま反映させたものです。日本だけが例外でした。日本は台湾、朝鮮、満洲などの外邦を統治しましたが、外邦人部隊を編制して、それを最前線へ投入したり、督戦隊を設置したりするようなことはありませんでした。

 ともあれ蒋介石は、ドイツ軍顧問団の進言を受け容れて督戦隊を設置しました。これは驚嘆すべき事実です。蒋介石軍の督戦隊は、後方から躊躇なく支那同胞を撃ち殺したのです。この事実は支那社会の根深い暗部を窺わせます。しかし、督戦隊の効果は絶大で、蒋介石軍は見違えるように勇敢になりました。

 哀れなのは、敵と味方から狙い撃ちされる支那兵です。が、彼らはただ単に哀れなだけではありません。生き延びるためには獰猛になりました。とにかく生き延びて食を得、あわよくば略奪暴行することのみが軍閥兵たちの望みです。その暴虐が北伐とともに北へ拡散していきました。

 支那大陸という「飯」にたかってきた外来の「蝿」は、不毛の地だった租界に莫大な富を蓄積し、近代的な都市さえ建設しました。商店には物品があふれ、工場では豊富な製品が生産されています。そして列国の大使館や領事館には金品財宝や武器が収められています。租界は、支那固有の「蝿」にとって垂涎の「飯」です。

 その「飯」が軍閥兵の目当てです。蒋介石軍の北上に伴って、支那各地で略奪暴行が頻発し、租界や租借地や領事館が襲われて列強諸国の軍人、官吏、民間人に多大の被害が出ました。日本の被害も小さくありません。南京、漢口、蘇州、重慶など揚子江流域の各地に居留していた日本人の多くが略奪暴行などの被害を受け、およそ三千名の邦人が家財一式を放棄して命からがら帰国するという事態になりました。

 なかでも南京の日本領事館襲撃事件は、支那軍閥兵士の暴虐とともに、幣原外相の対支宥和策が空文に過ぎぬ事実を暴露した出来事でした。南京事件の経緯は次のとおりです。

 幣原喜重郎外相は、その国際協調主義から蒋介石の国民政府に対して宥和政策をとっていました。

「日支互恵の理想への邁進」

 これが幣原外相の理想であり、政策です。なんら具体性のないイデオロギーです。幣原外相の甘さは、蒋介石が幣原の宥和策を理解し、感謝さえしていると勘違いしていたことです。南京領事は森岡正平でした。森岡領事は、幣原外相の政策に忠実で、それが正しいと信じていました。

 昭和二年三月十六日、南京城内の須藤医院に北部軍閥の負傷兵が幾人も担ぎ込まれました。須藤理助院長は、負傷兵の手当てをしながら戦況を聞き出しました。

「南京の陥落も近い」

 北部軍閥兵士の観測を聞き、須藤院長は危険を感じます。そこで森岡領事に連絡し、邦人の退避を進言しました。

「邦人は早めに引き揚げた方がよいのではないですか」

 しかし、森岡領事は楽観的でした。幣原外相の対支宥和策が効果を発揮すると信じていたのです。

「南軍が暴れることはないよ」

 南軍とは蒋介石軍のことです。

 三月二十一日に蒋介石軍が上海を占領すると、南京城外の戦況も切迫し、大砲の発射音が頻繁に聞こえるようになりました。須藤医院に運び込まれる北部軍閥の負傷兵が増えました。須藤院長は再び森岡領事に注進しました。

「せめて婦女子だけでも軍艦に移すべきです」

 揚子江には日本海軍の駆逐艦三隻が停泊していました。ここに避難することも可能だし、領事が要請すれば海軍陸戦隊が出動することもできます。しかし、森岡領事は何の措置もとりませんでした。心配でたまらない須藤院長は、その夜、須藤家の婦女子を領事館に自主避難させました。

 翌朝、森岡正平領事は海軍に対し、通信連絡兵として水兵三名を派遣されたい、と要請しました。水兵三名という指定に森岡領事の楽観ぶりが現れています。それでも森岡領事は南京城内の邦人婦女子に対して領事館へ避難するよう指示を出しました。

 森岡領事の要請をうけた海軍第二十四駆逐隊司令は、荒木亀男大尉に水兵十名をつけて南京領事館に向かわせました。荒木大尉の一隊は機関銃一門と小銃で武装し、通信機一台を装備していました。荒木大尉の派遣隊は二台の自動車に分乗して南京城に向かいました。そのとき南京城の城門は北部軍閥の守備隊によって警備されていました。機関銃と通信機を積んだ一台目は難なく検問を通過したのですが、荒木大尉の乗る二台目が検問に止められてしまいました。

「武器の携行はならぬ」

 すべての小銃が押収されてしまい、荒木大尉とその部下は翌朝まで北部軍閥の司令部に抑留されました。後に判明したところでは森岡領事の失態でした。北部軍閥に対する通知を怠っていたのです。それでも翌二十三日には荒木大尉とその部下が丸腰ながら合流し、日本領事館の正門を閉じ、土嚢を積み、機関銃を台座に据えました。この日、夜までに百二名の邦人が領事館内に避難してきました。

 やがて南京城内で北部軍閥の敗走がはじまりました。森岡領事は北部軍閥に対する警戒を怠りませんでした。撤退時に焦土作戦をとるかもしれず、南京城内で略奪暴行が発生する可能性があったのです。とはいえ、森岡領事の警戒は必ずしも万全ではありませんでした。後日わかったところでは、領事館内の倉庫に小銃三十丁と弾丸六千発が秘蔵されていたのです。これらの武器弾薬を森岡領事は荒木大尉に使用させるべきでしたが、そうはしませんでした。理由は分かっていません。それでも、この夜は無事に過ぎました。

 翌二十四日早朝、北部軍閥は完全に敗走し、蒋介石軍が南京城内に入城してきました。青天白日旗が翻るのを見た森岡領事は「もう安心だ」と避難民に伝達します。領事館に避難していた日本人は領事の言葉を信じて安堵しました。森岡領事は警備態勢を解かせました。荒木大尉は土嚢と機関銃を撤去しました。領事館の正門が開け放たれ、日本国旗が掲揚されました。

 領事館が無防備になったところへ南軍の支那兵一個中隊が乱入してきました。その中には共産党のスパイがいたようです。午前七時です。荒木大尉と水兵十名は丸腰だったため、支那兵に銃口を突きつけられると抵抗できません。やむなく荒木大尉は部下に無抵抗を命じました。領事館内には警部一名、巡査部長一名、巡査二名のほか駐在武官の陸軍中佐一名がいました。しかしながら、多勢に無勢でどうにもなりません。駐在武官の根本博中佐は、果敢にも拳銃一丁で応戦しましたが、反撃されて気絶し、重傷を負いました。

 支那の暴兵は小銃を乱射しながら略奪を始めました。これを防ぐ術はまったくありませんでした。支那兵の一群は領事館の金庫に殺到し、これを開けようとします。別の一群は領事館内を物色して走り回り、金目の物品を片端から運び出し、興味のないものは破壊します。邦人は軍人も民間人も銃を突きつけられ、腕時計や指輪や財布を巻き上げられ、衣服を剥がされ、靴まで奪われました。婦女子も身ぐるみ剥がされました。裸にされた邦人女性が支那兵に引きずられていきます。必死に助けを求めますが、下帯ひとつにされた男たちには助けようがありません。この集団的な略奪暴行は午後一時まで続きました。

 支那の「蝿」が去った後、領事館内には何も残っていませんでした。水道の蛇口から便器までが持ち去られていました。死者一名、負傷者三名、強姦された女性は森岡領事の妻女をふくめて三十数名という惨憺たる被害です。

 この惨劇を生き延びた日本人は脱出方法を検討しましたが、なにしろ全員が身ぐるみ剥がされているため妙案がなく、そのまま翌日になりました。

 翌朝の午前十時、吉田海軍中佐の率いる八名が自動車で領事館に乗り付け、以後、脱出方法が検討されました。そして、午後六時までに全員を駆逐艦三隻に収容することができました。その際、本来なら最後まで残るべき森岡正平領事は真っ先に軍艦に避難してしまいました。丸腰だったために何も抵抗できなかった荒木亀男大尉は責任を痛感して自殺しました。


 これほどの被害が発生したにもかかわらず、幣原喜重郎外相は対支宥和の方針を変えません。これと同様の被害をうけた英米両国政府は、南京城への威嚇砲撃をその艦隊に命じていました。英米は日本にも参加を求めたのですが、幣原外相はこれを断りました。協調しようとしない幣原外相に対し、イギリス総領事からは抗議がきました。一方、蒋介石からは「南京事件に関して蒋介石の立場を特に諒解せられたる好意的措置を感謝する」との一報が届いていました。英米が日本に対する不信を強めたのはこの時からです。

 こうした不可解なまでの軟弱な対支外交が影響したせいで、四月にも漢口の日本租界で大規模な略奪暴行が発生します。現実オンチの文民こそ武弊を生む原因といえるでしょう。


 洋右は、政友会の中国政情視察団とともに北伐の渦中を旅行しました。惨憺たる支那の実情に接し、洋右は大いに悟るところがありました。四月に帰国してみると国内世論は「暴支膺懲(ぼうしようちょう)」の対支強硬論に満ちています。

乃公(だいこう)(いで)ずんば)

 と洋右は思いました。この時期、政党政治は国民からの支持を急速に失いつつありました。不毛な政権奪取合戦、経済失政、軟弱外交、財閥や支那軍閥との癒着、絶え間ない醜聞など、失望の材料には事欠かなかったのです。洋右も政党政治に半ば失望していましたが、まだ見捨ててはいませんでした。

 政策研究に着手した洋右は、政党を建て直し、帝国議会の演壇に立って幣原外交を批判するつもりでいました。ところが、洋右は志を再び変じて満洲に渡ることになります。

 洋右が私淑する山本条太郎が満鉄総裁に就任したのです。山本に口説かれた洋右は、副総裁として山本総裁を補佐することになりました。洋右のこんな言葉が残っています。

「僕は議論では誰にも負けたことがない。また誰の前でも気後れなどしたことがない。しかし、これにはただふたりの例外がある。ひとりは山県有朋、もうひとりは山本条太郎だ」

 わずか一年前に辞めたばかりの満鉄に洋右は舞い戻りました。洋右は持ち前の外交手腕を振るって張作霖軍閥との交渉に臨みました。勝手のわかった満鉄です。加えて、尊敬する山本条太郎のもとでの仕事です。洋右にとっては苦労も快事でした。


 洋右が満鉄副総裁となって一年後、張作霖爆殺事件が起きます。満洲軍閥の首領たる張作霖は、中原に覇を唱えんとしましたが、夢破れて満洲へ帰る際、列車爆発事故に遭って重傷を負い、死にました。この事件には、関東軍将校のほか、コミンテルンが関与していました。そのため真相究明は難航しました。

 この事件が発生したとき、洋右は東京に滞在していました。事件は満鉄線上で発生したのですから、看過できません。直ちに満洲に戻った洋右は、張作霖の息子の張学良と会見するなどして善後策を模索しました。

 ときの内閣総理大臣田中義一は、張作霖爆殺事件の真相を究明して責任者を処分すると御前で約束しました。しかし、その言葉に反して真相究明も責任者の処分も曖昧なままに終わりました。

「田中は不誠実である」

 昭和天皇は御勘気を発せられました。このため田中義一総理は内閣を総辞職しました。田中総理は不運だったといえます。張作霖に致命傷を与えたのは、河本大作大佐が線路脇に仕掛けた爆薬ではなく、コミンテルンが車輌に仕掛けた爆弾であったことを考えれば、田中義一総理が総辞職する必要はありませんでした。しかし、当時は真相が充分に解明されませんでした。

 田中内閣の総辞職に伴って満鉄総裁も交代を余儀なくされ、副総裁の洋右も満鉄を去ることとなりました。二年あまりの副総裁でした。


 その二ヶ月後、洋右は演説家として国際舞台にデビューします。昭和四年十月、京都で太平洋会議が開かれました。この会議は、ホノルルに本部を置く太平洋問題調査会の定例国際会議です。同調査会は、太平洋地域の民間交流と学術研究を目的として設立された非政府組織であり、この時期、会長は新渡戸稲造でした。

 この京都会議において洋右は、中華民国代表の徐淑希(じょしゅくき)と満洲問題をめぐって激しい議論を戦わせました。徐は、達意ながら早口すぎる英語で弁じ、満洲は中華民国に帰属すべきだと主張しました。これに対して洋右は、徐を上回る流暢な英語で反論します。

「徐教授は、満洲の人口増加は日本による満洲開発や治安維持のおかげではなく、久しき以前より支那全般にわたって起こってきた人口増加現象に過ぎないと主張されました。しかしながら、かくも急速な満洲の人口増加現象を左様に簡単に片付けることはできません。満洲は新開地であり、かつ多くの未開墾地を残しています。そして、満洲には他の新開地にはない特殊の現象が見られます。それは何か。支那、主として北支から漢民族が潮のごとくに満洲へ殺到しているのです。これは特異な現象であります。この現象は、満洲における治安と、満鉄の供与するあらゆる利便とを抜きにしては説明できないものであります。ボロに包まれた山東の土民たちは、自分たちの生家に火を放ち、兵乱と略奪とを呪詛し、墳墓の地に最後の愛別の涙を注ぎつつ、老若男女、一家一村をあげて平和なる満蒙に運命開拓の地を求めて旅立つ。このような実に悲惨な事実を私たちはしばしば耳にするのであります」

 これは事実です。支那北部から満洲へと移入する支那人は引きも切らない状況でした。満洲には仕事があり、土地があり、腹を満たすことができます。満鉄の進める各種事業が支那人の生計の糧となっていたのです。さらに洋右は論をつづけ、中華民国政府がワシントン条約や日本との約定を守らず、満鉄による鉄道敷設を妨害している事実をあげ、非難しました。

 これに対して燕京大学教授の徐淑希は、悪びれる様子も見せずに反論し、満洲は中華民国の領土たるべきだとしました。その虚妄を断乎排撃すべく洋右は論じます。

「そもそも故小村寿太郎侯爵は、ポーツマス条約締結の直後、自ら北京に乗り込み、満洲善後談判に臨まれたのであります」

 洋右は、ポーツマス条約にまでさかのぼって満洲における鉄道敷設権の正統性をあきらかにしました。

「徐教授でさえ、満洲に対して日本が犠牲を払い、そして貢献を為したと認めておられます。ただ、日本は満洲において既に十分以上の代償を得ているではないかと徐教授はおっしゃいました。諸君、果たしてそうでしょうか。いま私にこれを吟味せしめたまえ。満洲問題を正直かつ真摯に審議しようとするなら、満洲問題の基本的要件に立ちかえらねばなりません。日本は、日露戦争の際、中立国たる清国領土において露国と戦うことを真に気の毒に思っておった。誠に万やむを得ざることとして日本は、ついに満洲の野においてロシア軍と相まみえたのであります。誠に気の毒であるとの感を日本は清国に対して持っていたのでありまして、事実、小村侯が北京において満洲善後談判に当たられた際、この心理を以て清国に同情的態度をとられたのであります。諸君、試みに思え。もし日本が日露戦争中、露清秘密同盟条約の存在を知っておったならば、いかなる結果になったでありましょう。当時の世界形勢を追懐するに、おそらく日本は満洲全部をあげて割取し、しかして何国もこれに異議を唱えなかったでありましょう。もし、しかりとすれば、今日、この会議において論ずべき満洲問題なるものは、まったく存在しなかったでありましょう」

 洋右の演説が終わると、万雷の喝采が湧きました。論争は完全に洋右の勝利です。

「日本にあのような英語のうまい人物がいるとは知らなかった」

 新渡戸稲造は感嘆の表情で周囲に語り、そして洋右に握手を求めました。洋右の名演説は評判を呼び、以後、各地から演説の依頼が舞い込むようになりました。


 昭和五年二月、洋右は衆院総選挙に山口二区から出馬し、初当選を果たします。

 十月、浜口雄幸内閣は幣原喜重郎外相の請議に基づいて支那共和国の呼称を中華民国に改称すると閣議決定しました。

「支那なる呼称は当初より同国側の好まざりしところにして」

 と幣原外相の請議書にあります。こうした弱腰な幣原外交は洋右の怒りに火を注ぎました。

 念願の政治家となった洋右が帝国議会の演壇に立ったのは、当選から一年後の昭和六年一月二十三日です。洋右は幣原喜重郎外相の外交方針を質します。

「幣原外相のとっておられる御方針は、ただ米国人の気受けさえ好くすればよろしいというふうに見えるのであります。私どもは何れの国を問わず、完全なる対等平等を旨とし、相互尊敬を基調とせざる国交は欲しない。米国人の権利も大切でありましょう、しかし日本人の権利と自尊心も大切であります。ただ、幣原外相のなさるところを見ますというと、日本人の感情などは、日本人の権利などは、どうでもよろしいというやり方をしておられる」

 幣原外交に対する国民の不満感情を代弁した質問です。国民感情が対外的に硬化してしまうと外交政策もまた硬化せざるを得ません。外交は内政の裏返しなのです。だからこそ常日頃から国民感情に目配りしておかねばなりません。民主国家の外交の難しさです。その意味における幣原外交の不備を洋右は指摘したのです。さらに洋右は、対英関係における幣原外交の弱腰を批判します。

「インドの関税引き上げ、シンガポールの軍港築造などが一向に手控えられる様子がない。のみならず英国の責任ある政治家は、日本がシンガポールに野心を持っておると公言してはばからぬ。しかも世界の四分の一を領しておる英国の領土内に、わが大和民族は移民としてほとんど一歩も足を入れることができぬ。これらの事実さえ幣原外相から見れば日英の国交が親善である証左であるらしい。幣原外相はわが国民の感情や利害など棚に上げて、ただ我国が隠忍しておりさえすれば、それで日英の国交は万々歳であると自賛しておる」

 次いで洋右は、日露関係における幣原外交の弊害を突きます。

「大正十四年、幣原外相は日ソ基本条約を締結されました。これによって日ソの国交は回復されたのであります。しかるに我国の利害から見て、いかなるものをもたらしたのであるか。日ソの貿易額は、我国の全貿易のわずか一パーセントでしかない。しかして北海漁業はどうなっておるか。北海漁業は日に日に圧迫をこうむっておる。幣原外相は、ロシア人が好意をもって解決してくれるであろうと言うけれども、果たしてそうか。このままいけば北海漁業は全滅の悲境に陥ることは火を見るより明らかである。ウラジオストクの朝鮮銀行支店はついに閉鎖された。およそ五百名のわが同胞も近く引き揚げる。これが日ソ国交回復の賜物である。こんなバカバカしい国交はない。こんな国交に継続する価値がありますか」

 次は対支関係における幣原外相の屈従ぶりを指摘します。

「隣邦支那が新気運によりまして新国家の建設をする大業を完成せんことを願う上において、私どもは何人にも譲らないのであります。これはアジア人としての我々の本能的熱望であります。けれども、それと同時に支那に対し、また支那におきまして、私ども日本の正当なる主張を十分に擁護伸張することはできると信ずる。腰の弱い外交が支那人たちの誤解を招いておるのである。支那に関する限り、いわゆる幣原外交なるものの結末は、さきの南京事件であります。南京事件の起こりました時に、幣原外相は何と言われた。まさか忘れてはおられまい。わが領事はじめ能く耐えて居留民の生命を全うし得たことは誠に結構であったと誉められた。支那兵にご自分の妻女を眼前で、この壇上で口にすることすら忍びないような陵辱を受けて、それでもなお、どうぞ命だけは、と言ってその生を全うしなければならないのか。


折りに逢えば散るも目出度し山桜


 という散り際の意義がわからなくなった時、わが大和民族はもはや世界の大道を闊歩できなくなるのである。外交は要するに半分は気合の問題であります。幣原外相はまるで気合負けして、気位負けをしておる。これでは日本の外交が支那において馬鹿にされるのは当たり前である。南京事件の時にこれを誉めるような御心がけであるから、南京事件が起こったと言わねばならぬ」

 最後は満蒙問題について洋右の持論を述べました。

「満蒙問題は、わが国の存亡にかかわる問題である。わが国民の生命線であると私は考えておる。国防上にも経済的にも左様に考えておるのであります。しかるに現内閣成立以来、ここに一年半、内閣は満蒙で何をなさったか。わが出先の書記官は、ただ儀礼的に支那側と時に往復する以外、何らの折衝すらしない。この満蒙の地においても幣原外相の絶対無為傍観主義が遺憾なく徹底されておる。世界の平和を口実にして自分の生存権さえも主張しないというのが今日の外交である」

 洋右の質問が終わり、幣原外相が登壇すると議場は騒然となりました。幣原外交批判の野次が溢れたのです。このため幣原外相の答弁は翌日に持ち越されました。翌日、幣原外相が答弁し、さらに洋右が反駁しました。この後、予算委員会に場を移し、洋右は幣原外相に論戦を挑みましたが、幣原外相も堂々と応じます。ふたりの議論は、結局、平行線のままに終わりました。


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