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南満洲鉄道

 洋右が官を辞して五ヶ月後、アメリカの首都で国際会議が始まりました。ワシントン会議です。この国際会議では太平洋地域の平和秩序が議論され、海軍軍縮条約をはじめとする諸条約が成立しました。山東還付条約もそのひとつです。第一次大戦中、日本軍はドイツ軍の青島要塞を攻略し、ドイツ租借地の膠州湾を占領し、これを軍政下に置いていました。その膠州湾を日本が中華民国に無条件で返還するという条約です。これと同様に、イギリスは威海衛を、フランスは広州湾を中華民国に返還しました。

 これは従来の国際慣行に前例を見ない義挙でした。支那大陸の租借地を列強が自主的に返上したのです。この義挙を演出したのはアメリカです。自由平等、民族自決、機会均等、門戸開放といった美辞麗句で英仏日を籠絡して租借地を返還させ、アメリカ自身はなんらの損失も払わない、何ともズル賢いアメリカ外交です。中華民国に対する不思議なまでのアメリカの善意です。これによってアジアが安定するとアメリカ政府が考えていたとすれば、実に短絡的な愚見です。

 英仏日の義挙は、支那人の意識に変化を生じさせましたが、それは混乱を呼ぶ変化でした。英仏日の善意を相手の弱みと解釈した支那人の排外感情に火がつきました。排英、排仏、排日運動が支那大陸全土で盛んになりました。なかでも日貨排斥運動が最も熱を帯びました。こののち支那大陸における列強と支那軍閥との力関係が徐々に逆転していき、支那大陸はいっそう不安定化します。

 国際社会は中華民国を理解できていませんでした。迂闊な対中宥和政策は、おもにアメリカの利権拡大欲によって推進されたものです。清朝以来の支那大陸の歴史に最も通じているはずの日本は、国際世論に唯々諾々と迎合してしまいました。パリ講和会議を経て、なお、日本外交は消極姿勢を維持したままです。明治期の日本外交には見られなかった脇の甘さです。

 明治のはじめ、外交の方針について人に問われた勝海舟は鼻先であざ笑いました。

「外交の方針だとか何とか言って騒いでいやがるけれども、全体、何をしとるのかオレにはさっぱりわからねえ。飯のうえの蝿を逐うような事ばかりやるのに、方針も何もいるものか」

 幕長戦争の和平交渉と江戸無血開城の談判を成し遂げた勝海舟は交渉の名人です。そんな勝の短切な言葉には千鈞の重みがあります。外交は徹底した現実主義であり、方針や理想の入り込む隙間がありません。古来、戦争と平和に関する名論卓説は数多いものの、海舟の外交観からすれば、戦争とは「蝿」同士の闘争であり、平和とは「蝿」が「飯」にたかっている状況に過ぎません。これが現実です。その現実の中で「国益のために何をなし得るか」を追求するのが外交です。それはまるで「飯」にたかる「蝿」を手で追い払うようなものであり、思考というよりむしろ反射神経の問題です。考える前に手を動かさねばなりません。とりわけ明治日本のような弱小国家には理想を追うような贅沢は許されていませんでした。

 江戸末期、日本という小盛りの「飯」の上にさえ欧米列強という「蝿」がたかってきました。「蝿」は植民地に寄生すると、そこから一切合切の富を収奪して本国に運び去ってしまいます。すでに日本以外のアジア全域が「蝿」にたかられて「飯」と化していました。幕末の日本も危うかったのですが、日本は維新によって中央集権国家をつくりあげ、富国強兵によって外来の「蝿」による収奪をかろうじて防ぎました。明治の優れた外交家たちは「蝿」に対する監視を怠らず、「蝿」の出現する小さな兆候をも見逃さず、あらかじめ「蝿」の出現を予想さえし、「蝿」が現れるたびに機敏に追い払い続けました。

 日本の安全保障にとって最も重要な「飯」は朝鮮半島です。これは天が日本に与えた地政学的条件であり、動かしようがありません。朝鮮半島に強大国が盤踞してしまえば、もはや日本列島を守る術がないのです。そのため、日本は朝鮮半島という「飯」をめぐって清国という「蝿」と戦い、帝政ロシアという「蝿」と戦いました。これらの戦いに勝利した日本はようやく「飯」たることを免れ、「蝿」の仲間入りをしました。

 大正期になると外交事務に精通した官僚あがりの外務大臣が現れるようになり、外交が事務化し、理想主義に傾き、肝心の駆け引きを失いました。世界の思潮に迎合することを以て事足れりとする外交になりました。これこそ平和ボケです。その弊害に洋右は早くから気づいていました。

 洋右に言わせると、日本の外交官は相手国の真意を見抜こうとせず、協調主義とか宥和主義などという浮ついた理想を追求することで満足してしまい、国益の追求をなおざりにしていました。これは怠慢でしかありません。日本の外交官は、いつしか国際協調主義というイデオロギーに幻惑され、国際社会を見誤ってしまいました。国際協調主義などという文言は空疎でしかないのです。

「静観していれば事態は沈静化するだろう」

 という根拠なき予断に基づく外交態度です。外務官僚にしてみれば、これがいちばん楽です。そこまでひどくなかったとしても、日本の外交官は概して国際社会を高潔な善人の集団であると思い込み、日本的な互譲の精神が世界に通用すると思い込んでいました。確かに表面上はそのように見えました。世界各国の外交官は誰もが高潔な紳士です。しかし、内実は違うのです。

 アメリカは日本の外交力を減殺しようとワシントン会議を画策し、みごとに成功します。それは四国条約です。米英仏日の四ヶ国が調印した四国条約は、太平洋地域の現状維持を約しています。しかし、この条約の本質はそこではありません。この条約の第四条によって、長らく日本外交の基盤だった日英同盟が廃棄されました。この事実を報道で知った洋右は外務省の無能を罵倒しました。

「日英同盟解消によって日本の外交力は数段も弱まってしまったというのに、世界平和に貢献したとか、五大国に列したとか、外務省は何を浮かれておるか」

 腹立たしく感じましたが、洋右にとって外務省はもはや過去の職場でしかありません。洋右が取り組むべきは、今や南満州鉄道の経営です。


 大正十年六月に官を辞した洋右は、その翌月、南満州鉄道株式会社理事に就任しました。洋右は政治家になるという志を変じ、満鉄本社のある大連に移りました。

 満鉄に洋右を引き抜いたのは満鉄総裁の早川千吉郎です。当時、満鉄は塔連炭鉱事件という贈収賄事件で揺れていました。このため早川総裁は有力な経営陣の構築に腐心していたのです。そんな早川総裁は洋右に目をつけました。このアイデアに山本条太郎と後藤新平が賛成しました。

 山本と後藤は、松岡洋右という暴れ馬を飼い慣らし得た数少ない人物です。ふたりは気宇壮大な度量の持ち主で、洋右の舌鋒を容れて余りある大風呂敷です。だから洋右は言いたいことが言え、素直な心性を発現させることができました。洋右は、このふたりにだけは従順です。後藤新平は次のように洋右を激励し、洋右の背中を押したのです。

「わしのような老人でも、満鉄を自分の生命だと思っている。理事就任を機会に満鉄に骨を埋めるつもりで仕事に当たってもらいたい」

 後藤新平は初代満鉄総裁を務めた人物です。後藤が満洲に入った明治三十九年、満洲は荒涼たる大地に過ぎませんでした。日本のおよそ四倍の面積に人口は千二百万しかなく、見るべき産業はありませんでした。しかも馬賊や匪賊が跳梁跋扈しており、治安はきわめて悪い。狩猟や農耕の適地ではありましたが、近代的な富を生み出す条件には欠けていました。

 肝心要の鉄道は、延長千百二十五キロほどありましたが、日露戦争直後のことでもあり、各所で線路が爆破されていました。鉄橋に至ってはすべてがロシア軍によって破壊されており、あらゆる機関車、貨車、客車はロシア本国に引き揚げられていました。満鉄がロシアから引き継いだのは、鉄道敷地だけでした。

「果たして収益が上がるものかどうか」

 日本政府首脳の誰もが満鉄経営の行く末を心配しました。そもそも資本金が集まるかどうかさえ不安でした。初代満鉄総裁に就任した後藤新平は、まず内地から狭軌車輌を移入し、ロシア製の広軌道を内地と同じ狭軌道に変更して細々と営業を開始しました。当時の写真を見ると、まるでアメリカの西部劇のような光景です。狭軌鉄道と軽便鉄道の車両があり、小さな駅舎があり、疎らに建物が建っているだけです。あとは広漠たる曠野です。そんなところから満鉄経営は始まりました。後藤総裁は積極的でした。

「広軌改築を一年以内にやれ」

 そう命じたのは明治四十年です。

「三年はかかります」

 技術陣は抵抗しましたが、後藤総裁は承知せず、必要な資材と機材をすべてアメリカから輸入させ、ともかく一年で広軌改築を達成させました。さらに後藤総裁は「満鉄十年計画」を立案し、鉄道、炭鉱、電気、港湾、旅館、病院などを総合的に整備していきました。

「後藤の大風呂敷」

 と言われましたが、この十年計画はほぼ達成されました。後に満洲を訪れた後藤新平は周囲に語りました。

「俺が満洲に広げた大風呂敷が大きすぎたというなら、その大きすぎた部分を切って持ってこい」

 洋右が満鉄理事となった大正十年には、鉄道延長は二千五百キロに達し、営業収入二千八百万円を売り上げるまでに成長していました。満鉄による各種の開発事業が満洲の経済成長を担っています。その業務範囲は実に広く、鉄道事業はもちろん、倉庫業、運輸業、旅館業、自動車事業、洗濯業、海運業、建設業、鉱山事業、製鉄業、発電事業、化学工業、農業、販売業、ガス事業、都市開発、道路整備、教育事業、衛生防疫事業、調査事業など、まさに近代化そのものです。

 日本という「蝿」は奇妙な習性を持っていました。欧米の「蝿」は害虫であり、植民地からあらゆる富を収奪し、現地人を奴隷化しました。ところが日本という「蝿」は、新領土に投資をし、開発をする益虫でした。日本は、不味い「飯」だった台湾、朝鮮、満洲を美味しい「飯」に変えていきました。日本の外邦領土は時間の経過と共に発展しました。

 満鉄の事業は事実上の国家経営といってよく、本来なら中華民国政府か、張作霖の軍閥政府がやるべき仕事です。しかし、中華民国にせよ満洲軍閥にせよ、その要人たちは政争と蓄財に明け暮れており、産業政策どころか民政そのものにまったく関心がありません。結果として、ロシア権益を引き継いだ日本の満鉄が満洲を文明化していったのです。それを見た満洲の支那人政治家たちは実に鷹揚なものでした。

「我々の代わりに日本人が造ってくれている。やがて我々のものになるだろう」


 満鉄理事となった洋右は、組織改革の意欲に燃えました。当時、満鉄の高級職員はたるんでいました。午前十時頃になってようやく出勤してくるのです。

「午前八時までに出社し得ざるものは即時辞表を提出さるべし」

 洋右は厳命し、綱紀の粛正から仕事を始めました。洋右は、鉄道線路延伸のため軍閥政府との厄介な交渉に従事したほか、研究事業に力を入れ、シェールオイルの開発や石炭の液化などに取り組みました。松岡理事の秘書を務めた大岩峰吉が当時の洋右の仕事ぶりを語り残しています。

「松岡さんは頑丈な身体をしておられたので相当の無理をされても、そのために休むということはなかったが、喘息には参っておられた」

 激務に励む一方、洋右は休むときにはしっかり休みました。ときおり湯崗子温泉で静養しました。洋右には寝だめという特技があり、眠り始めると何も食べずに寝続けました。

 洋右の抜群の記憶力に大岩峰吉は何度も驚嘆させられました。資料に目を通すと、その誤りや矛盾点を即座に見抜き、指摘し、修正させました。洋右は部課長級の人材育成に力を注ぎ、大きな経営の夢を語りつつ、一方では細々した事務処理の要諦を語りました。議論が大好きで、部下との応酬を嬉々としてやりました。洋右は部下の個性を見抜き、命令を出す場合、相手に応じて表現を変えました。その細心と適確に大岩はいつも感心させられていました。

「松岡さんの眼は鋭い。あの眼でにらまれて、あの声でどなられたら、たいがいの者は寄りつかぬ」

 上海領事館時代に山本条太郎から諜報の重要性を教え込まれていた洋右は、満鉄に諜報部門を設立しようと考えました。

「私は一国の外交でも、戦争でも、また商売にしたところが、この諜報というものをしっかりしておかなければ成功を収め得ない、という考えをもっておるのであります。ところが、諜報ということは非常に難しいことなんであります」

 洋右は重役会議で訴えました。満鉄には設立当初から調査部があったものの、諜報という要素には欠けていました。洋右はそれを補強しようとしたのです。

(要は人材だ)

 適当な人材を物色した洋右は、運良く格好の人物を見つけました。陸軍少将高柳保太郎です。高柳少将は、日露戦争時には満洲総軍司令部参謀を務め、シベリア出兵時にはウラジオ派遣軍参謀長となった逸材です。ウラジオ特務機関やオムスク特務機関を設け、対ソ諜報活動を統括した諜報の専門家です。特務機関という組織を最初に発想し、実現したのがこの高柳少将でした。ところが不運にも恩賜煙草事件というスキャンダル禍に遭い、閑職に追いやられてしまいました。不遇の高柳少将に洋右は懇請します。

「満鉄の諜報組織を確立して欲しい」

 高柳少将は満鉄嘱託となり、諜報、調査、情報のための組織をつくり、人材を育てました。高柳少将は、一企業の情報機関では満足せず、一国の情報機関たりうる組織を整備しようとしました。洋右もこれに同意しました。やがて満鉄調査部は、世界的な視野で調査諜報活動を実施するようになっていきます。その範囲は実に広く、満洲や支那はもちろん、ソ連、中央アジア、中東、欧州、東南アジア、南洋、南北アメリカにまで及びました。そして、その分野は産業や資源に限らず、各国の兵要地誌や技術、政治、宗教、民族、思想にまで広がりました。外交官や駐在武官の目に触れにくい市井の情報も集められました。そして、それらの情報を総合して判断を下す情報分析部門が本社に置かれました。こうして「満鉄に属していれば世界情勢がわかる」と言われるまでになります。

 それほど大風呂敷な諜報活動がなぜ満鉄に必要だったのかと、今となっては不思議にもなりますが、高柳少将も洋右も国家戦略の立場から、その必要性を確信していました。

 日露戦争に勝利した後、日本政府は「ロシアによる復讐戦」という事態を常に想定し続け、これを未然に防ごうとしています。

 日露戦争の際、日本を利した戦略的要因には、ユダヤ人投資家による日本外債の購入、ロシア国内における共産主義者の反政府運動、中央アジアにおけるイスラム系独立主義者による反乱などがありました。したがって、ロシアによる対日復讐戦を想定した場合、諜報活動の対象は必然的に共産主義、ユダヤ、イスラムなどへと及ぶことになったのです。

 一例をあげると、山岡光太郎という人物を洋右は後援し、情報収集にあたらせました。山岡光太郎は、もと陸軍の通訳官でしたが、後に特殊任務に関与するようになり、陸軍を辞した後は民間間諜として活動していました。山岡は、日本人として初めてメッカに巡礼したことでイスラム社会との関係を深め、その後、生涯の大部分を放浪のなかに過ごしつつ、イスラムとユダヤの研究に没頭しました。山岡光太郎の諜報活動の一端を示す資料があります。「土国最近の内治外交」という報告書です。山岡は、コンスタンチノープルに滞在しながらケマル・パシャによるトルコ革命の進行を詳細に報じています。

 山岡光太郎のような民間間諜は、この時代、数多くいたと思われますが、その詳細は必ずしもよくわかっていません。それら間諜からの報告がどのように活用されたのか、その詳細も不明です。ただ、ロシアの対日復讐戦を考えた場合には、ユダヤ資本からの援助を得なければならず、中央アジアでイスラム独立運動を活発化させてロシア軍を牽制させたい。すべては、そのための布石でした。


 洋右は満鉄理事として四年九ヶ月を過ごします。この間、張作霖(ちょうさくりん)の軍閥政府と困難な交渉を繰り返しました。国際法を知らず、知っていても守ろうとしない軍閥政府との交渉に洋右は四苦八苦しました。外務省の出先機関は援助してくれません。ときの外相幣原喜重郎は国際協調主義と対支不干渉主義をとっており、満洲の領事館に自由裁量を与えませんでした。このため領事館は何もしてくれません。これを洋右は遺憾としましたが、持ち前の交渉力を発揮して鉄道延伸を粘り強く実現していきました。不幸にも早川総裁が大正十一年に急逝してしまうと、しだいに満鉄経営陣内の幣原色が強まり、洋右は息苦しくなってきました。

「吉敦線建設契約は成立した。もう満鉄に用はない」

 洋右が満鉄理事を辞したのは昭和元年三月です。牧野伸顕伯爵からは慰留の手紙が届きましたが、洋右は決心を変えません。洋右のような男が組織内にとどまるためには、洋右が腹の底から心服し、崇敬できる上長が必要でした。早川総裁の死去から丸三年、洋右にしてはよく我慢したというべきです。


 この頃の支那大陸は大動乱期です。あいかわらず支那大陸という「飯」に列強諸国という外来の「蝿」がたかっています。この悲惨な状況は清朝末期に始まり、辛亥革命を経て中華民国が成立してもなお続いています。中華民国政府は、対外的な看板だけの政府です。支那大陸は実質的には軍閥割拠の内乱状態であって、支那人同士が血を血で洗う争乱に明け暮れていました。それでいて中華民国政府は「旧清朝領が中国領であるべきだ」と大ボラを吹いているのです。世界にとっての不幸は、この支那の大ボラを欧米列強が信じてしまったことです。このホラを信じた欧米と、欺されなかった日本との間に軋轢が生まれてしまうのです。

 支那民衆も悲惨でした。それは、「蝿」が列強だけではなかったことです。支那の軍閥もまた、支那民衆という「飯」にたかる支那固有の「蝿」だったのです。軍閥政府は民衆に過酷な重税を課しました。種をまいたといっては徴税し、収穫したといっては徴税し、販売したといっては徴税する。これでは農業が成り立つはずがありません。様々な生活必需品に税が課され、道路や橋に通行税が課されました。軍閥の軍隊は、若く屈強な若者を見つければ手当たり次第に拉致して兵士としました。牛に荷車を引かせている男を見つければ、やはり拉致して軍夫にしました。軍隊では給料は支払われません。その代わりに掠奪や暴行が不問に付されました。軍閥の兵隊にとって斥候任務とは、公認の掠奪許可です。軍閥兵はめぼしい民家を襲い、強奪した物品を売って金に換えました。

 このように不穏な社会では真面目な努力が意味をなしません。民衆は絶望し、頽廃し、自暴自棄になります。道徳が廃れ、生きるためならば何でもするようになります。支那の文盲率は昭和二十四年の時点でさえ八割に達していましたから、この時期はさらに高かったでしょう。その無知な民衆は行き場を失い、馬賊、匪賊、山賊となり、各地に蔓延(はびこ)りました。彼らは時に軍閥の正規兵となり、時に盗賊にもどります。変幻自在です。そこに共産主義という赤い「蝿」までが入り込み、知恵を与え、金をつかませました。

 外来の「蝿」に対して、支那の赤い「蝿」が反逆を始めたのは大正八年です。五・四運動が起こり、排外運動、ことに排日運動が活発化しました。北京では大規模なデモと暴動が恒常化し、満洲では長春事件、福建省では福州事件が発生しました。この福州事件の処理のため洋右が派遣されたことについてはすでに触れました。

 邦人被害が発生するたびに日本政府は謝罪と賠償を要求しました。ですが、そもそも交渉相手が誰なのかがわかりません。ともかく中華民国政府や軍閥政府に交渉してみますが、どちらも言辞を左右にして事実を認めません。

不知道プチタオ

我没有関係ウオメイヨウワンシー

 これが支那役人の決まり文句です。支那に法治はなく、被害が生じても訴えるべき政府がないのです。実に厄介な土地柄でした。そんな状況下、支那の「蝿」は自由自在に活動しました。列強諸国が積み上げた資産や入植者の家財は、支那の「蝿」にとって垂涎の「飯」です。支那満洲の各地で絶え間なく殺人、強盗、強姦、行方不明などの被害が発生しました。

 被害を受けた在留邦人は、とりあえず支那官憲に訴えます。しかし、訴えたところで賄賂を要求されるだけです。やむなく日本領事館に訴えます。領事館は正式な外交手続きに従い、支那側の行政官庁や軍閥政府に被害を訴えますが、何の返事もありません。どの軍閥も支那大陸の覇王になる夢ばかりを追っており、あるいは私腹を肥らすのに忙しく、内政治安にも外交にも関心がありません。満洲や支那の在留邦人は自警団を組織して被害予防に努めるしかありませんでした。

 ときの外相幣原喜重郎は国際協調、対支不干渉を外交の基本方針とする理想主義者でした。理想としては素晴らしい。後世は幣原外相を素晴らしい外交官と思うかもしれません。しかし、それは誤謬です。幣原外相には現実認識能力が決定的に欠けていました。このことが日本の不幸となります。本来、外交は現実的なものです。絶えず微妙に変化し続ける国際関係の現実の中で、わずかに生じた隙間を見つけ、そこに付け入って国益を増進していくのです。それなのに幣原外相は、理想主義を外交の現場に持ち込み、外交政策を理想によって教条化しました。その一方、現実の被害に対してはひたすら眼をつぶりました。このため外務行政は硬直化しました。幣原外相は、支那人と理想を共有できると信じ込んでいたようです。しかし、幣原外相の対支宥和策こそ、当の支那人から侮蔑される原因でした。日本政府の宥和策は、支那人の眼には日本の弱みにしか見えません。このため排日主義と侮日行動が助長され、邦人被害がますます増えました。

 こうした幣原外交の弊害を満鉄もこうむりつづけました。満鉄理事としての洋右は「総論あって各論なし」と幣原外交を批判しました。

「幣原さんは、良く言えば総合的、悪く言えば漠然としか考えていない。幣原さんは国際協調と言うが、何ら具体策を持っていない。それも当然だ。なにしろ幣原さんは支那や満洲にまったく足を踏み入れたことのない人だ。その幣原さんに満蒙問題がわかるはずがない。現場の勉強をせず、ただ欧米方面に良い顔をしようとする。だから、波乱が起これば腰砕けになる。まるで無能な理想主義者だ。飯のうえの蝿を逐うのが仕事なのに、外務省が蝿を逐わんでどうするか。飯のうえの蝿に法を説くようなものだ。飯は腐り、ますます蝿が増えるぞ」

 幣原外相の宥和策は在留邦人の不満の種でした。その不満は時間の経過とともに鬱積(うっせき)していきます。

 のちに満洲事変が勃発すると、満洲の在留邦人は熱狂的に関東軍を支援しました。これは幣原外交への憤懣の裏返しです。それほどに幣原外交は評判が悪く、頼りになるのは関東軍だけだったのです。日本政府は毅然たる外交姿勢を示さず、邦人を保護しませんでした。そうした在留邦人の苦渋は満鉄の諜報網に把握され、洋右に報告されていました。

「幣原は支那を知らん。支那人を知らん。幣原の媚態的なやり方では支那人はますます増長する。例えて言えばこういうことだ、支那人がおそるおそる日本を舐めてみる。すると意外にも舐められる。引っ掻かれも噛み付かれもしない。ようし、もうひとつと、また舐めてみる。舐められる。大丈夫だ。ついには立ち小便ぐらいやってみる。それでも、やっぱり大丈夫だ。もっとやれ。こんな調子だから支那はひどい排日の空気になったのだ。毅然たる態度をとらないからこそ、相手に悪いことをさせてしまうのだ」


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