福州事件
松岡洋右がフランスから帰国したのは大正八年九月です。パリ講和会議の残務整理が終わった十二月、「福州事件調査のため出張すべし」との内命が洋右に下りました。
福州事件とは、いわゆる五・四運動という支那全域に及んだ排外運動のなかの一事件です。パリ講和会議がまだ進行中の大正八年五月四日、北京において日貨排斥運動が発生しました。支那人学生の集団が日貨をあつかう商店を監視し、その商品運搬を妨害し、商品を略奪し、焼却しました。さらには商店そのものが打ち壊され、火を放たれました。最初は日貨を扱う支那人商店が襲われましたが、やがて在留邦人の商店までが被害を受けるようになりました。この排日運動は北京から支那全土に広がりました。コミンテルンの謀略ではないかと疑われましたが、確たる証拠は出ませんでした。
そして、北京からはるか南の福建省福州でも似たような事件が起こりました。すでにパリ講和会議の終わっていた大正八年十一月十六日、日本人と台湾人と支那人とが衝突し、双方に負傷者が出たのです。
福州では、以前から支那人学生による執拗な排日運動が横行していました。その横暴は甚だしく、日本製品を取扱う支那商人が迫害されたり、排日運動に反対する支那要人が襲われたりしていました。支那人学生たちは、警察権もないのに商店に踏み込み、家宅捜索し、日本製品を捜し出しては掠奪押収し、それらを山のように路上に積み上げて公衆の面前で罵倒し、破壊し、焼棄したのです。こうした支那人学生の横暴に対して支那官憲はいっさい取り締まりをしませんでした。福州の在留邦人は排日運動をおそれ、憤りましたが、隠忍自重するほかはありませんでした。なにしろ日本の主権が及ばない支那大陸での出来事です。治安を守るべき中華民国政府には内政統治の意思と能力が欠けていました。福州在住邦人が新聞に寄稿した文章の一節は実に哀切です。
「われわれはどのようにして自らを救えばよいのであろうか。福州在留邦人の多数は商人である。大会社もあるが大部分は小商人である。支那人を顧客とする商売が生活のすべてである。それら小商人の生活が、あろうことか黄口の支那学生に脅されておびえているのである。そればかりではない。われわれと同じように支那学生の暴力に畏縮している支那商人までが、生活を脅されてわれわれ日本人に救いを求めてくるのである。われわれは自らを救うために、またあわれな支那商人を救うために、果してどうしたら良いであろうか」
十一月十六日、天田洋行という日本人商店に雇われた支那人苦力四名が綿布とゴム製品を背負って歩いていました。突然、数名の支那人学生に襲われました。支那人学生は苦力を押し倒し、荷物を奪おうとします。偶然そこに居あわせた数名の台湾人が義侠心から行動に出ます。
「何をする」
台湾人が支那人学生をさえぎったところ、支那人学生は「黙れ」と叫んで台湾人に打ちかかってきました。台湾人と支那人学生の闘争となりました。そのすきに天田洋行の支那人苦力は荷物を担いで逃げ、これを近くの支那人商店に預け、急を知らせるために天田洋行へ走りました。台湾人は支那人学生一名を捕え、これを支那巡警に引き渡しました。一部の台湾人は急を告げるべく日本総領事館へ走りました。
間もなく数十名の支那人学生が現れ、その附近にいた台湾人を手当たり次第に襲撃しはじめました。急を聞いて駆けつけた日本人と台湾人がこの乱闘に加わり、双方の間に大挌闘が演ぜられました。やがて支那人学生たちが逃げ出しました。三十名ほどの支那人学生は十名ほどの日本人と台湾人に追いまくられ、青年会館へ逃げ、そして、堅く扉を閉じました。
「万歳」
台湾人と日本人は勝利を叫んで青年会館を後にしました。すると、背後から銃で撃たれました。青年会館の窓から狙撃されたのです。幸い銃弾は外れました。そこへ数十名の支那官憲がやって来ました。さらに数百名の支那人学生も集まりました。騒乱は広がり、銃声が一発、二発と轟き、やがて発砲音が連発するようになりました。群衆は悲鳴をあげて逃げまどいます。日本人と台湾人は敵対できぬと判断し、逃げ出しました。
ある方角に逃げた日本人の一団は、偶然、そこへ突進して来た支那人学生の一団と衝突しました。そこに支那官憲が加わって支那人学生を応援しました。衆寡敵せず、日本人の一団は逃げ出します。日本人の一団は協興洋行という商店に隠れました。そこへ支那軍隊が出動してきて、ようやく騒動はおさまりました。
一方、急報に接して日本総領事館から江口善海警部の率いる領事館警察隊が現場に急行しました。すでに黄昏時です。現場は混乱し、熱狂していました。これを鎮めるため支那官憲が誰彼の見境なく発砲したのでますます騒然となりました。危険きわまりない混乱の中、日本人一名が支那巡警に殴打され拘引されたという情報に接した江口警部は、部下を支那第四署に派遣し、拘引された日本人の消息を確かめさせました。しかし、支那第四署は言を左右にして返答をよこしません。
江口警部はいったん日本総領事館にもどり、領事館内にいた全員を率いて支那第四署へ向かいました。往来には人もなく、人家は戸を堅く鎖ざして灯火を消しています。どこからか銃声が聞えます。日本総領事館員の一行が青年会館前に差しかかったとき、突然、鬨の声を上げて数十名の支那人学生が襲ってきました。石が飛び、銃が鳴ります。江口警部らはこの襲撃を防いだものの、支那人学生がどんどん増加してきて、ついに支えきれなくなりました。日本領事館員達はやむなく順記という西洋料理屋に逃げ込みました。支那人学生は衆を頼んで押し入ってきます。江口警部は電灯を消し、三階の天井裏に全員を隠れさせました。
「日本人をかばうのはけしからん」
支那人学生は、その西洋料理屋の器物を手当り次第に破壊します。そして三階にのぼり、潜んでいた江口警部らを見つけ出しました。もはや逃げも隠れもなりません。江口警部らは奮然と身を挺して支那人学生に抵抗しました。その頑強な抵抗に辟易した支那人学生たちは、逆に逃げ出しました。その間に支那官憲の一団が来着して、現場を鎮めました。江口警部らは支那官憲とともに支那第四署へ行き、そこに収容されていた日本人四名と台湾人一名の無事を確認しました。間もなく全員は釈放され、日本総領事館に引揚げました。
こうして事件は落着したのですが、その後も不穏な情勢が続いています。
「万一の場合には邦人を福州から脱出させねばならない」
そう考えた福州総領事の森浩は、海軍に軍艦派遣を要請しました。砲艦「嵯峨」と駆逐艦「桜」および「橘」が福州に出動しました。
これが福州事件の顛末です。この福州事件は日支間の外交問題となりました。中華民国政府は日本人居留民に責任があるとして抗議しました。
「福州事件は全然居留日本人が事端を醸せるものにしてその非は日本側にあり」
日本政府は反論します。
「福州事件に関し日本側の調査によれば事件発生の動機及び事件の曲は支那側にありと認めらる」
北京で日支間の交渉が開かれましたが、双方譲らず、両政府共同の調査委員会が開かれることになりました。その調査委員として洋右に白羽の矢が立ったのです。
大正八年十二月九日に辞令を受領した洋右は直ちに東京を出発し、十二日に門司から竹島丸に乗船し、上海を経由して、十九日に福州に到着しました。
洋右は砲艦「嵯峨」に乗艦し、艦長梅田三良少佐から現地の事情を聞きました。その後、日本総領事館を訪れ、森浩総領事から事情を聴取しました。すでに危機的状況は去っているようです。洋右は軍艦の引き揚げを本省に進言しました。その方が支那側との調整がやりやすいと判断したからです。ただ、「形勢なお不穏」とする意見もあったので、軍艦が現地を離れるのは翌年一月五日となりました。
洋右は日支両国の委員会を主導し、事実関係を確認しようとしました。委員会は事実関係把握のため、一月中旬までに五十名以上の証人から証言を収集しました。しかし、事実関係の把握は困難をきわめました。
「双方とも虚構至らざるなしとの心証なりとす。支那側の証言は比較的に捏造巧妙にして日台人の証言に至りては支離滅裂の状甚だし」
と洋右は電報しています。洋右は、一月二十五日までに事件の事実認識を整理し、その内容を本国に打電しました。
結局のところ、日支間の意見の相違は埋まりませんでした。洋右は、委員会において再発防止のための三条件を福建省政府に提起して任務を終えました。その三条件とは、支那人学生の逮捕、損害賠償、排日運動の取り締まり、です。洋右は二月十七日に福州を離れ、二十五日に帰国しました。
福州事件の最終処理は原敬総理と内田康哉外相の指揮するところとなりました。その方針は「寛容の趣旨により本件を解決」することでした。国際協調主義です。原敬総理は三月十二日の外交調査会において次のように発言します。
「日支委員の調査せるところ、真実は我が居留民の行為の不当にあり、曲の大部分は我に有り」
この原総理の異常なまでの低姿勢の理由は何だったのでしょう。洋右の報告は完全に無視されていました。原総理の不可解な譲歩は、アジア主義とか善隣友好とかのきれい事で片付けることはできません。洋右の提案をまったく度外視した不当なまでの忍従であり、後世のいわゆる土下座外交とそっくりです。日本政府は、森浩総領事を帰国させ、江口善海警部を転任させ、中華民国政府に対して遺憾の意を表明し、損害を賠償しました。これに対して中華民国政府は、日貨排斥運動に関して遺憾の意を表明しただけでした。事件の首謀者たる支那人学生は誰ひとり逮捕されませんでした。洋右の提示した三条件は、こともあろうに日本政府によって無視されたのです。
(どこまでワシをコケにするか)
洋右は、官を辞す覚悟をいよいよ固めました。
大正九年四月一日、外務省政務局に情報部が新設されました。部長は伊集院彦吉、次長は有吉明、第一課長(極東担当)は高尾享、第二課長(欧米担当)は松岡洋右という布陣です。しかし、洋右は一ヶ月あまり勤めると辞表を提出して田舎に引っ込んでしまいます。かねてからの希望である政治家の道へ、いよいよ転進したのです。洋右は四十歳になっており、人生の舵を切るべき時期だと感じていました。
内田康哉外相は洋右の能力を評価していました。そのため洋右の辞表を受理せず、翌年六月まで留め置きました。
「あいつはわがまま者だから、一年でも二年でも月給をやって遊ばせておいたら、そのうち遊ぶのが嫌になって帰ってくるだろう」
傍若無人な言動が玉に瑕ながら、折に触れて優れた見識を示す洋右に外務省の上司や同僚は注目していました。アメリカ帰りではあるものの決してアメリカかぶれの西洋礼賛主義者でなく、日本の歴史文化に立脚して日本の国益を追求する、加えて日本人離れした英語力と弁論力を持っている、そんな洋右が省内から惜しまれたのは当然でした。
この当時、日本人外交官には三つの弱点があるというのが世評でした。まず、外国語を操るのが下手である。そして、外交談判に不慣れで駆け引きができない。さらに、演説や弁論が苦手なため外交舞台でいっこうに見栄えがしない。これら三弱点をほとんどの外交官が抱えていたのです。そんな外務省内にあって洋右は、これら三弱点をすべて克服していたばかりでなく、三つの強みにしていました。いわば外務省内で出色の能力者だったのです。
能力者は得てして不徳の欠点を持っているものですが、洋右もそうでした。自信過剰の洋右には周囲に対する遠慮や配慮や妥協がなく、上司や同僚の仕事ぶりを容赦なくののしりました。しかも職場で個人的感情を爆発させることに躊躇がなく、仕事が思いどおりに進まない時などには同僚や部下を理由もなく怒鳴りつけました。そのカミナリはすさまじく、大声で叱責し、反論を許さぬ勢いでガミガミ叱ります。唐突に感情を投げつけ、怒鳴りつけるので、叱責された方には理由さえわかりません。日本のカミナリ親父がアメリカ流ディベート術を身につけたようなものであり、周囲はお手上げです。その逆鱗に触れたら最後、ひたすら「松岡嵐」が過ぎるのを待つしかありません。
それでも洋右は洋右なりに自分の悪癖を自覚していたらしく、怒鳴りつけた後には必ず食事をおごったり、土産を差し入れたりしました。しかし、その程度で感情のわだかまりが雲散霧消するというものでもありません。
洋右には天邪鬼なところがあります。人の意見に賛成の時には無言で無愛想にしています。そして、周囲の人々が関心を寄せないものに強い関心を寄せます。これでは自分勝手と言われてもしかたがありません。心服した人物だけにはとても従順ですが、それ以外には傲岸に振る舞います。洋右は座談の名手でしたし、こののち演説の才を発揮して世界の聴衆を感動させることになるのですが、日常生活における意思疎通はむしろ苦手でした。単なる負けず嫌いでは説明のつかない洋右の屈折した性格に周囲は翻弄されました。
むろん洋右にも言い分があります。洋右には官僚組織に対する積年の鬱憤があります。組織内の同調圧力が強く、議論らしい議論のないまま上司の鶴の一声で物事が決められていくのです。そういう日本の官僚文化に洋右はなじめませんでした。
(なぜ自分の頭脳で考えないのか)
それが洋右の疑問です。洋右は大いに議論し合うことによって判断を決めようとし、周囲に議論を吹きかけます。ですが、たいていは黙殺されてしまいます。これでは面白いはずがありません。洋右の反骨は、この後、十二分に発揮されていくことになりますが、外務官僚時代にも数々の武勇伝で名をあげていました。そんな洋右にとって第一の標的は幣原喜重郎でした。
幣原喜重郎は、洋右よりも入省年次で八年先輩です。幣原は自他ともに許す知米家とされていましたが、洋右に言わせれば偽物でした。幣原のアメリカ知識は、外交官の地位と社交を通じて蓄積されたものであって、アメリカ社会のごく表面的な社交の上澄みでしかないのです。洋右のようにアメリカ社会の底辺で差別され、虐められ、血涙にまみれながらそれらを跳ね返してアメリカ精神を骨髄に叩き込んだわけではありません。よって、ふたりのアメリカ知識は本質的に異なっていました。例えて言えば、過酷な競争場裡でしのぎを削ってきたベテラン・ビジネスマンと、机上の研究だけに終始してきた経営学博士のような違いがあったといえます。洋右には幣原の誤謬がよく見えました。
「幣原はアメリカを知らぬ。演説では人道を訴えながら、一方では人種差別を容赦なくやるのがアメリカ人だ。口先の綺麗事を真に受けて何とするか」
洋右は幣原との衝突を繰り返し、そのあげく外務省に失望していきます。幣原の方も洋右の存在を煙たがりました。ささいな衝突は幾度もありました。たとえば、部下の通訳生が極めて優秀であることに気づいた洋右は、この若者を高等官に抜擢したいと思い、起案して稟議を回しました。これに幣原次官が反対しました。激論になりました。優秀な人材を抜擢登用すべきだとする洋右に対し、幣原次官は官歴の序列を尊重すべきだと反論したのです。洋右は、幣原の杓子定規な官僚的発想とエリート意識を心底から嫌悪しました。
「そもそも、ワシの志は政治家じゃ」
良くも悪くも事ある毎に外務省内を掻き回し続けてきた洋右は、大正九年六月、省内要路の強い慰留にもかかわらず、辞表を提出して出勤をやめました。正式な退官は大正十年六月です。官僚生活は足かけ十七年でした。