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パリ講和会議

 松岡洋右がアメリカ勤務を終えて帰国したのは大正五年です。洋右はアメリカを離れるにあたり何ら予言めいたことを言いませんでした。さすがの洋右も、二十数年先の日米戦争を想像することはできなかったようです。それも無理はありません。なにしろ欧州で戦争が勃発し、洋右ばかりでなく全世界の関心が欧州に集中していたからです。

 帰国した洋右は待命のまま半年ほどを過ごしました。この間、山県有朋公爵を何度か見舞いました。山県公爵は老衰のため面会謝絶の病状にありましたが、「松岡洋右が来た」と聞けば、「ここへ」と言い、洋右を病床に侍らせました。

 ある日、山県有朋は日露協約締結時の思い出を洋右に語りました。聞き終えた洋右は、現下の欧州大戦の情勢を語り、ロシア帝国の趨勢について持論を述べます。

「ロマノフ王朝は滅亡するに違いありません。第四次日露協商締結の際、そのことを勘定に入れておられましたか」

 山県公爵は驚嘆してしまいます。

「何や、そりゃあ。どひょうしもないことを言うが」

 「どひょうしもない」とは「とんでもない」という意味です。ロマノフ王朝が倒れるなど、山県にとっては意想外なことです。かつて日露戦争で日本を苦しめた大ロシア帝国が滅亡するなど、山県には想像もできないことでした。そこで洋右は最新のロシア情勢を詳しく論じました。山県は緊張の面持ちで聞き続け、聞き終わると、しばらく沈黙しました。

「どうも、そう見ざあなるまいのう」

 洋右の意見に賛意を示した山県は、しかし、内心では半信半疑でした。

 大正六年三月、ロシア革命が起こりました。その翌月、洋右が山県邸を訪れると、山県有朋はシゲシゲと洋右の顔に見入りました。

「とかあない」

 「一言もない」という意味です。山県は洋右の慧眼に脱帽したのです。

「オレにはどうしても支那問題がわからぬ」

 山県公爵はそう言い、対支政策論を書いて出すよう洋右に命じました。山県の病床にはたくさんの文書、資料が積まれています。病床にあってなお山県は日本の行く末を憂えており、政策研究に余念がありません。洋右はさっそく「対支政策実行要目」を書き上げ、山県邸に持参しました。


 第一次大戦がつづくこの頃、シベリア出兵問題が日本の国論を二分させていました。ロシア革命が勃発し、欧露にはソビエト政権が成立しています。とはいえソ連政権はまだ弱体です。シベリアには白系ロシア人の政権が複数樹立されており、情勢は混沌としていました。このロシアの混乱期に居留邦人保護のためシベリア出兵するべきか否か、それが問題でした。

「出兵すべし」

 外相秘書官となっていた洋右は出兵を主張しました。ですが、政府の大勢は出兵反対論です。ところが、そこへアメリカ政府からの出兵要請が舞い込むと、日本政府は掌を返して出兵論へ急転換しました。この無定見に憤った洋右は持論の出兵論を捨て、出兵反対論に転じます。政策論争というものは、得てしてこんなものです。

 ときの外相は後藤新平、外務次官は幣原喜重郎です。後藤外相と幣原次官は、アメリカ政府の要請どおりに出兵すべきとしましたが、洋右はこれを不可として噛みつきます。

「アメリカ政府の底意もわからぬまま、なぜアメリカの要請に唯々諾々と従うのか。わが派遣兵力の上限を七千名までとアメリカ政府に決められる必要がどこにあるか。出兵の可否であれ、その兵力量であれ、帝国が自主的に判断してしかるべし」

 洋右は力説しましたが、結局、黙殺されてしまいます。口の悪い洋右は幣原次官を「アメリカかぶれ」とののしり、政府の方針転換を「追随外交」、「属国根性外交」と批判しました。

 大正七年五月、洋右は総理秘書官となり、八月には臨時シベリア経済援助委員会幹事を仰せ付けられました。洋右は、シベリアに対する経済援助策を立案しました。シベリア住民および自治政府に対して食糧をはじめとする生活必需品を供給するのです。そして、この機に乗じて利権獲得を画策するアメリカ企業を抑制するのが真の目的です。洋右が立案した原案を検討するため、政府と財界の首脳が総理官邸に集まり、会議が開かれました。立案者の洋右が説明に立ちます。

「米国その他の利権獲得に対抗する」

 この点を洋右は強調しました。これに対して反論を試みたのは幣原喜重郎外務次官です。

「アメリカに対抗するのではなく、協調すべし」

 ふたりは激しく討論の火花を散らしました。幣原次官が対米協調を主張するのに対し、洋右は自主外交の必要を説きます。外務次官と総理秘書官の論争は、財界代表者の立場から見れば政府内の内輪揉めのようです。出席していた三井合名副理事長の早川千吉郎は、ふたりの激しい議論を興味深く眺めていましたが、幣原次官の反論をことごとく粉砕する洋右の弁舌に感嘆しました。後に早川千吉郎は満鉄総裁となりますが、その際、三顧の礼をもって洋右を理事に迎えます。それは、この時の記憶があったからです。


 大正七年八月、洋右は総理秘書官を免ぜられ、待命となりました。待命とはいえ遊んでいられるわけではありません。洋右はパリ講和会議の準備を命ぜられました。

 パリ講和会議は、第一次世界大戦の戦後処理を議題とする国際会議です。欧州には古くから会議外交の伝統があり、列国は国際会議のプロトコルつまり手順を熟知しています。しかし、日本政府には国際会議の経験が皆無です。そのため外務省をあげて国際会議の手続きを調べに調べています。とはいえ外交プロトコルとは事務レベルの手続きに過ぎません。あくまでも外交の本質は政治家同士の外交駆け引きであり、その駆け引きには決まり切った形式などありません。よって下調べにも限度がありました。結局のところ右も左も分からないというのが外務省の本音でした。戦勝国としての華々しい国際会議への出席でありながら、外務省の関心は(なんとか無難に会議を終えたい)という消極的なものとなりました。そんななか、恥をかきたくないという日本的なナイーブさを持ち合わせなかったのは洋右だけです。洋右は意気揚々と準備に励みます。パリに出発する直前、洋右は椿山荘の山県有朋公爵を訪ね、大いに抱負を語りました。

「世界の舞台に踏ん張らねばならぬ日本としては、もはや東洋のことばかりを言っているわけにはいきませぬ。たとえ欧米のことであろうが、これに対して堂々たる論陣を張るべきです。極東を守ることがわが国の本分であり、国是ではありますが、けれども、世界の日本であるためには、欧米の問題にも我々は突進せねばなりませぬ。軍人がよく言う、攻撃は最大の防御なり、というやつです」

 これを聞いた山県は、しばらく考え込み、やがて口を開きました。

「おぬしの言うことは、理論としては条理が立っておるけれども、世の中のことは理論どおりにはいかぬぞ。オレは五十年やってきたでのう。オレの五十年の経験に基づく結論じゃ。理論どおりにはいかぬ。欧米のことはまだまだオレらの知ったことじゃない。そんな力もない。オレはただ、極東を後生大事に守る考えじゃ。おぬしも考えを変えて、極東立て籠もりを考えるべきじゃ」

 これを聞いた洋右は失望しました。さすがの山県公爵もすでに老い、気魄も萎んでしまったようです。

(欧米のことにまで容赦なく介入してやりとばす気魄がなくて、これからの日本が立ちゆくものか)

 初の国際会議に臨む日本全権団は、西園寺公望公爵を筆頭に総勢六十四名の陣容です。大正七年十二月十日、全権団は天洋丸に乗り、横浜港を出帆しました。洋右も全権団随員を命ぜられ、報道係主任という役割を与えられました。座談の得意な洋右は適任だったでしょう。しかし、船中では内外記者との懇談が禁止されていたので何もすることがありません。暇をもてあました洋右は全権団員を相手にしゃべり散らして過ごしました。洋右は、次席全権大使の牧野伸顕男爵に対してさえ遠慮せず、猥談に花を咲かせ、ひとしきりしゃべり尽くすとソファにふんぞり返って鼾をかいたりしました。

 サンフランシスコからは大陸横断鉄道の旅です。大晦日にニューヨークに到着し、翌年の一月八日、カーマシャ号に乗船して大西洋を横断し、ロンドンを経由してパリに到着しました。

 この長い旅のあいだに洋右の心中には大きな変化が起こっていました。山県有朋公爵から聞かされた「極東立て籠もり」論が洋右の心をとらえて離さなくなっていたのです。

(山県公ついに老いたり)

 と、その気魄の矮小を内心で憐れんだ洋右でしたが、欧州への途上、アレコレと迷い始め、パリが近づくにつれて「極東立て籠もり」論こそが正しいと思い直すようになりました。

(山県公の五十年の艱難辛苦が極東立て籠もり論を導き出したとするなら、これが正しいのではないか。理屈どおりにはいかんと、公爵はおっしゃっていた)

 洋右の心は「極東立て籠もり」論に固まりました。非常に我の強い性格ながら、心服した人物にだけは従順になるというのが洋右の特性です。とはいえ、洋右にその自覚はありません。洋右の理性はあくまでも冷静に各国の国力を計量し、日本の国力をもって欧米問題に容喙するのは無謀であると結論していました。

(ダーダネルス海峡の問題にまで日本が関与するなどはもってのほかじゃ。我々の関心事はあくまでも極東であって、欧州のことに多く口出しをしてはならない)

 洋右のこの変心は、日本全権団にとって幸いでした。なぜなら日本政府の基本方針が「極東立て籠もり」論だったからです。洋右が異論を唱えれば、激しい議論が生じて全権団内に波風が立つに違いありません。全権団内の融和を考えれば、洋右の変心は望ましいものでした。

 しかしながら、国際会議という外交交渉の場で国益のやりとりをする場合には、決してそうではなかったようです。日本政府は、極東に立て籠もるためにこそ、その駆け引きのために欧州問題に容喙すべきでした。アメリカ的な取引手法を知っているはずの洋右までが山県公に影響され、すっかり日本人になってしまいました。初心だったと言えるでしょう。欧州問題に直接的な利害を持たない日本だからこそ、欧州問題についてキャスティング・ボートを握り得るのです。そして、それを餌にして列強と巧妙に取引し、欧米列強の極東への介入を防ぐ。これこそが西洋流の外交です。しかし、建国以来はじめての国際会議に臨む日本全権団には、そんな余裕も準備もなかったのです。

「極東への列強の介入を予防するため、日本も欧州に容喙しない」

 きわめて日本的な論理、つまり日本的な譲り合いの精神だけを頼りにして日本全権団は国際会議の舞台に出ていきました。


 パリでの洋右は、報道係主任としてホテル・ブリストルに事務所を構えました。この事務所は新聞課と通称され、洋右は新聞課長と呼ばれました。新聞課は四十種類ほどの新聞に目を通し、主要記事を切り抜いてスクラップして全権団内に回覧させました。また、ときにマツオカ・ステイトメントを発表しました。

 パリ講和会議の冒頭、最高会議の構成国が議題となりました。アメリカ大統領ウィルソンは、地上戦に参戦した四大戦勝国(英米仏伊)によって最高会議を構成し、講和会議を主導するべきだとしました。

「それは当然だ」

 ウィルソン案に賛成する日本全権団員が少なくありません。パリに至る道すがら、まだ血腥く荒涼たる欧州の戦場の凄まじさを目にした日本全権団は、欧州の地上戦に参加しなかった日本は一歩を譲るべきだと感じたのです。これこそ日本人的な謙譲の感覚だといえます。しかし、これに異を唱えたのは洋右です。

「それは断じていかぬ。地上戦というなら日本軍は青島戦をやっておる。それに、連合軍の兵站線を太平洋から地中海まで護衛した日本海軍の貢献は抜群である。最高会議は日本を加えた五大国で構成されるべきだ」

 洋右は強硬に主張しました。幸いなことに洋右の意見は牧野伸顕次席全権に採用されました。牧野次席全権は同盟国イギリスに働きかけました。日英同盟の効能により、日本は五大国に列することができました。洋右の手柄といえるでしょう。

 しかし、せっかく五大国に列した日本ではありましたが、日本全権団は基本方針どおりの消極外交に終始しました。山東問題については中華民国代表団と激しく応酬し、また人種差別撤廃条項を国際連盟規約に加えるよう提案し、世界の有色人種から注目を浴びました。とはいえ欧州問題にはいっさい介入しませんでした。

(欧州問題に介入しないから、極東問題には介入してくれるな)

 この日本全権団の願望は、一方的に秘めたものでしかありません。日本全権団の不器用さは、この方針を表明しなかったことです。だから欧米列国には日本全権団の消極姿勢が不可解でたまりません。

(日本は奇怪である。何を考えているのか解らぬ)

 ただでさえ人種偏見の目で見られているなか、日本全権団の態度は列国の不信を招きました。日本全権代表はむしろ公式に表明した方が良かったに違いありません。

「欧州の事情に疎い日本は欧州問題には介入しない。そのかわり極東事情に疎い欧米諸国の極東問題への介入を拒否する」

 これは立派な要求です。しかも非常に強い要求です。極東モンロー主義ともいえます。そうである以上、会議の席上で堂々と意見表明すべきでした。それでこそ参加国は日本の主張を理解し、賛成したり、反対したりできるのです。かりに反対されたとしても日本側は議論に応じれば良いだけのことであり、それでこそ交渉になるのです。しかしながら日本全権団は初めての国際会議に戸惑い、勝手がわからず、ひたすら恥をかくまいと沈黙で押し通してしまいました。日本人のきわめて日本的な外交態度に、いとおしさとユーモアを感じるのは日本人だけでしょう。心中に強烈な要求を持っていながら、それを内に秘めて表明しないという交渉態度は、欧米人の感覚では陰謀です。文化の差異が大きな誤解を招いてしまいました。

 当初、欧米列国は日本の出方に戦々恐々としていました。国際会議に初登場した黄色人種の極東帝国が何を主張するのか、列強諸国は日本に最大の関心を向けていたのです。ところが欧州問題に関して日本は何も主張しません。そんな日本の態度を見たパリの国際世論は、まず日本を疑い、次いで侮るようになりました。

「黙然として語るところなし」

 これと対照的だったのは中華民国全権団です。中国は実質的には何らの軍事行動もとっていません。さらに支那大陸は軍閥割拠の無政府状態に近い。にもかかわらず中華民国全権団は、ありとあらゆる情報戦の手法を使い、反日プロパガンダを展開しました。そもそも参加要件を満たしていない中華民国政府をパリ講和会議に参加させたのはアメリカです。アメリカは中華民国を日本に対する噛ませ犬として活用したのです。

 アメリカは、日本の秘めた願いを踏みにじって山東問題に無遠慮に介入し、中国を支持しました。日米の意見は真っ向から対立しました。やがて日本が人種差別撤廃条項を取り下げると、アメリカは態度を軟化させ、山東問題で日本の意見を支持するようになりました。これこそ欧米流の外交です。ですが、日本全権団は西洋流のこうした駆け引きを理解できませんでした。


 パリ講和条約の調印は、大正八年六月二十八日に行われました。この日、ドイツ全権団代表は条約案に目を通し、そのあまりに過酷な内容に憤り、落涙し、署名を拒んで席を立ち、帰国の途についてしまいました。

「講和が破綻すれば再び戦争になる」

 会場のベルサイユ宮殿は憂色に包まれました。そんななか洋右だけが楽観論を声高に公言しました。

「安心しなさい。ドイツ全権団は必ず帰ってくる。考えてもみよ。あの悲惨な戦争を再びドイツ国民に強いることができると思うか。とはいえ簡単に署名するわけにもいくまい。戦争では多くのドイツ軍将兵が戦死したのだ。ドイツ全権団としては、いったんは席を蹴って見せねば死者に顔向けができぬ。だが、必ず新しい代表を派遣してくる」

 洋右のこの予言は的中します。ドイツ全権団はパリにもどり、講和条約に調印したのです。

「ミスター・マツオカ、ワンダフル」

 世界の新聞記者が洋右に注目した最初の出来事です。このとき「お見事でした」と言って洋右に握手を求めてきたのは近衛文麿貴族院議員です。

 パリでの洋右は充分に任務を果たし、活躍しました。が、意外にも洋右はパリで辞意を漏らしています。その相手は牧野伸顕次席全権と珍田捨巳全権です。牧野と珍田は慰留しましたが、洋右の決意は変わりませんでした。洋右は政治家になる決意を固めたのです。洋右が記者団に語った次の言葉から、辞職の理由を読み取ることができるでしょう。

「この世界外交の大舞台に来てみて、僕は外交官というものが外交の小使い役でしかないことをつくづく知った。パリにいる各国の大使らはいったい何をしている。何もしておらぬ。見たまえ、ロイド・ジョージでもクレマンソーでもウィルソンでも、外交官出身などひとりもいないじゃないか。本当に外交をやっているのはみんな自国の民族の中で揉まれ抜いてきた政治家ばかりだ。外交官などといって自国を離れて歩き回って、自国のことも他国のことも半分しか解らないような人間に本当の外交はできないはずだ」

 野心家の洋右は「小使い役」では満足できません。真の外交をやるためには外務省を辞め、政治の世界に身を投じねばなりません。


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