表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
3/20

トーキング・マシン

 日露戦争に勝利した日本は、かろうじて南樺太の領土と南満洲のロシア権益を獲得することができました。その権益のなかには南満洲鉄道の経営権と鉄道附属地の行政権が含まれていました。日本としては、この鉄道を大いに活用して富を産まねばならなりません。しかし、日露戦争直後の日本財政は疲弊しきっており、政府には投資余力がありませんでした。なにしろ日本は戦費の大部分を外債に頼っていましたし、一円の賠償金も得られなかったからです。

「日本単独での鉄道経営は無理である」

 このように桂太郎総理が判断したのも無理はなかったでしょう。桂太郎総理は、アメリカの鉄道王ハリマンに対して南満洲鉄道の共同経営を約しました。アメリカの技術と資本を導入して南満洲鉄道を経営しようと考えたのです。決して悪い発想ではありません。しかし、ポーツマス講和会議を終えて帰国した小村寿太郎外相は、この措置を知ると激怒し、鬼気迫る勢いで桂太郎総理を説得し、ハリマンとの約束を破棄させました。

「なぜ小村外相は日米共同の鉄道経営を否定したのか」

 これが外務省内で大きな話題となりました。その理由を外務官僚たちは様々に推測し、議論しあいました。議論好きの洋右も大いに論じました。洋右の弁論は明快です。小村外相が満鉄の日米共同経営案を蹴った理由、それは日米戦争を回避するためだったのだと洋右は解釈します。

「もし、ハリマンとの約束どおり日米共同経営が実現し、アメリカ企業が満鉄経営に乗り込んだとすれば、その後、いかになりいったであろうか。日米間の資本、技術、人的資源等の差から考えてみて、アメリカ人が必ずや勢力を占めたであろう。また、アメリカ人の無邪気かつ傍若無人な気質から考えて、満鉄経営の実権はほとんどアメリカ人の手中に落ちたであろうことは想像に難くない。そして、満洲は事実上アメリカの植民地と化したであろう。かかる事態が招来されたときに、日本人は果たして黙してこれを座視し得たであろうか。わたしは否と答えるに躊躇しない。ロシアの満洲占拠は排撃するが、アメリカのそれは許すということがあり得ようか。わが生命線たる満洲に横暴を働く国は、その何国たるを問わず、日本は等しく排撃するのである。それが露であろうが米であろうが英であろうが、結局は、これと戦い、これを斥くるにきまっている。何国人がいかように意識しようが、そうなるのが運命であり、歴史的必然であるのである。すなわち小村外相の一挙は、図らずも日米戦争を予防したのであって、小村外相は実にアメリカ人からも感謝されてよいと思う」

 はやくも日露戦争直後において洋右は満洲を「生命線」だと論じています。アメリカ通の洋右が語るアメリカ論には説得力がありました。アメリカが満洲を支配したらやがて日米戦争になる。だからこそ小村外相はその悪芽を摘んだのだというのです。

 古来より日本の安全保障は支那大陸の動向に左右されてきました。白村江の戦い、元寇、日清戦争、日露戦争、どれも大陸国家の侵略意図から発生した戦争です。満蒙や朝鮮半島に侵略的な強大国家を成立させないこと、これこそが日本の希望であり、安全保障政策です。では、具体的にどうするか。

 当時、清国も李氏朝鮮も日本を蔑視していましたし、ロシア帝国は典型的な侵略国家です。よって日本が朝鮮と満洲を抑えるしかありません。やるかやられるか、獲るか獲られるか。帝国主義の世界にあってはこの選択しか日本にはなかったのです。

 日露戦争はアメリカにとっても重大な出来事でした。日露の仲介をしてポーツマス条約を成立させたことはアメリカの外交的名誉です。しかし、アメリカの実益にはつながりませんでした。満洲利権には介入できなかったし、日露は協約を結んで仲良くなってしまったからです。以後、アメリカは戦略を変えます。

 アメリカにとっての悪夢とは、ユーラシアに巨大国家が成立することです。ユーラシア国家はアメリカの数倍の国力を有することになり、アメリカはその軍門に降らざるを得ません。そうさせないためにはユーラシア大陸につねに介入し、紛争を起こさせ、巨大国家の成立を抑制し続けねばなりません。こののちアメリカは欧州や支那の紛争に介入しつづけます。第一次大戦も第二次大戦もアメリカが惹起した戦争であるといってよいでしょう。もしアメリカが善意の第三国としてあくまでも中立を守っていたら、欧州の紛争も支那事変も抑止し得た可能性が高いのです。しかし、アメリカはそうしませんでした。ユーラシアの紛争はアメリカの国益だからです。このアメリカの地政学的戦略は二十一世紀の今日においても不変です。


 外務官僚としての洋右は、口うるさい無頼派官僚として省内で名を売りました。政策論にやかましいばかりではありません。外務省内にはびこっている因襲に対して大いに非を鳴らしました。アメリカ流の功利主義を身につけている洋右の目から見ると、外務省内に蔓延する江戸時代的な慣習は不合理かつ不条理に思えてしかたがありません。明治の御一新があったとはいえ、江戸期の慣行は明治の官僚機構に引き継がれ、生き続けていました。

 官吏は親任官、勅任官、奏任官、判任官、雇員、傭人という職位に区分されていましたが、これがそのまま一種の身分になっていました。勅任官ともなれば、まるで江戸時代の殿様みたいに振る舞っていました。その部下たちは、外套の着脱から、食事のお世話、休日の遊びのお供にまでコキ使われました。そして、それを誰も不思議とは思わない時代だったのです。役所内では身分に応じて食堂、便所、廊下までが区別されていました。

「馬鹿げている。アメリカの人種差別でもあるまい。おなじ日本人ではないか」

 思ったことを口に出し、行動に移すのが洋右です。長幼の序にやかましい役所内にあって、洋右は勤務態度も交際もアメリカ流で押し通しました。つまり実力主義です。ときには上司を上司とも思わず、先輩を先輩とも思わず、論戦を挑みました。その無礼をとがめられると、洋右はむしろ喜色満面で再反論し、古びた因襲を口撃しました。

 洋右は、ひとたび論じ始めれば相手に口出しする暇を与えません。その弁舌は無限の銃弾を装填した機関銃のように連綿とつづきます。洋右の弁論術はおおむね次のようでした。まずは自分の意見を滔々と述べ、その論拠を明らかにします。次には論争相手の立場から議論を再検討してみせます。まるで相手の脳内をのぞいているかのように正確に論争相手の考えを論じてみせるのです。そのため相手は口をはさめず、むしろ「そうだ、そのとおり」とうなずいてしまいます。さらに洋右は第三者の観点から論点を眺め直し、結論へと導いていきます。その舌鋒にかなう者は外務省内に皆無でした。洋右は、担当職務をはるかに超える満洲論や国家論を好んで論じました。洋右の大風呂敷な議論は、上司には煙たがられ、同僚にはあきれられました。アメリカで大人になった洋右には「分をわきまえる」という日本人的遠慮が欠けていました。これは致命的な欠点になりかねないものでしたが、洋右の場合、英語力と事務処理能力が抜群だったため、周囲は洋右を認めざるを得なかったのです。幸いなことに、明治の官僚機構には洋右のような洋行帰りの無頼漢を容れる度量がありました。


 明治三十九年、関東都督府外事課長となった洋右は満洲の遼陽へ赴任しました。アメリカ大陸を知っている洋右は、広大な満洲の曠野を見てもさほど驚きませんでした。

 その数ヶ月後、本省から命令が届きます。

「日清間の漁業問題について報告せよ」

 洋右は事情を調べて上京し、外務省で報告しました。洋右の綿密な報告は上司を満足させましたが、追加の命令が出ました。

「この報告を山県有朋公爵にもしておいてくれ。今すぐだ」

 洋右は面白くありません。

(どうして同じことを繰り返さにゃならんのだ。山県公がここに来ればええんじゃ)

 洋右は不満でした。山県有朋といえば維新の元勲であり、陸軍の法王と称される権力者であり、洋右にとっては郷里の大先輩でもあります。しかし、洋右には畏れ入るという感覚がありません。それでも命令どおり、洋右は小石川目白台の山県公爵邸を訪れ、なかばふて腐れ気味に報告をしました。その態度の横柄さが山県公爵の気に障りました。

「小僧、無礼であろう」

 老骨の山県公爵は気合を込めて洋右を叱りつけました。並の官僚ならば縮みあがって平身低頭するところですが、洋右は平然としています。

(アメリカ人ならば余計な儀礼などスッ飛ばして本質を論じるものを)

 鬱憤を隠そうともせず、洋右はやけ気味に反駁しました。

「御言葉を返すようですが、山県公爵ともあろうお方が、いかにも小さいことを仰せられる。公爵は、満蒙に対し、どういう政策をお持ちになっておられますか」

 洋右は弁々と満洲経営論をまくしたて始めました。満洲経営はまだ緒についたばかりであり、日本政府にも山県有朋にも確固とした定見がありませんでした。そんな時期に、この若手官僚は二時間ほどかけて満蒙問題を語り尽くしたのです。

(たいした若僧よ)

 足軽から身を起こして成り上がった山県には、客気あふれる若者を愛するところがあります。山県公爵は感心すると同時に、洋右の言葉に長州なまりがあるのに気づいていました。

「ところで生まれはどこか」

「長州の室積です」

「おう、そうじゃったか。どうりでな。室積といえば、今津屋はどうなっているかのう」

 山県公爵は遠い目をしました。

「私がその今津屋の(せがれ)です」

 山県公爵は驚きました。

「そうか、それでどうなった」

 洋右は一家没落の経緯を語りました。

「そうじゃったか、おまえが今津屋の倅じゃったか。それは意外じゃった。まあ、これも奇縁じゃ。今日は、ゆっくり晩飯でも食っていけ」

 さっさと帰ろうとする短気な洋右を山県公爵は強引に引き留めました。やがて晩餐の席が設けられました。そこへ山県有朋公爵は紋服袴姿で現れ、厳粛な顔つきで洋右を上座へと誘いました。いかに傍若無人な洋右も、これには恐縮せざるを得ません。驚きかつ恐縮する洋右を山県公爵は強いて上座に引っ張り、押さえ込んで座らせました。

「まあ、聞け。今日は、今津屋の倅としておまえを上座に据えるのだ。遠慮せんと座れ」

 老いたとはいえ槍の名手でもある山県は手もなく洋右の身体を操作し、上座に座らせました。そして、山県公爵は下座に回ると、敬虔な面持ちで幕末維新の思い出を語り始めました。

 山県有朋は長州藩の足軽から身を立てました。縁あって尊皇倒幕の志士となった山県は、今津屋に何度も世話になりました。食事や宿泊はもちろん、こづかいまでもらいました。山県ばかりではありません。天下の志士たちは金に困るたびに今津屋を頼ったのです。

「幕長戦争の際、今津屋に出向いて多額の軍用金を徴発したのは、このワシじゃ。いかに維新回天のためとはいえ、気の毒じゃった」

 山県公爵は、今津屋に浪費を強いたことを詫び、感謝を述べ、今津屋の小倅を丁重にもてなしました。洋右の感慨もひとしおです。

(このワシが学僕としてアメリカに渡らざるを得ず、人種差別の辛酸をなめさせられた理由は、維新回天の功業にあったのじゃ)

 洋右と山県公爵との交際は、このようにして始まりました。


 洋右が初めて後藤新平に出会ったのも同じ頃です。その日、洋右は関東都督府経理部長の辻村楠造主計監に随行して大連から旅順に向かっていました。旅順に向かう列車内で後藤新平と偶然に同席しました。後藤新平は満鉄総裁に就任したばかりです。車中の座談に辻村主計監が満洲問題を論じます。すると、後藤新平総裁は、辻村主計監の意見をまったく無視し、聞こえよがしに嫌味を言いました。

「私が満洲に来てみると、皆が軍人病にかかっていることがわかった」

 軍人病とは、威張り散らす軍人に皆が迎合していることを揶揄した言葉です。辻村主計監はじめ同行の軍人はみな鼻白んで沈黙しました。気まずい空気です。しかし、後藤新平は平然としていました。日露戦勝の余韻が色濃く残り、軍人の鼻息の荒い時期です。その雰囲気を後藤新平は一言でぶちこわし、それでいて意にも介さぬという態度です。洋右は驚嘆しました。

(この人、実に偉い)

 以後、洋右は後藤新平に私淑します。


 明治四十年十一月、洋右は外務省政務局に異動しました。政務局は外務省の政策立案を担当する部署です。当時の洋右の様子を、後に外相となる芳沢謙吉が語り残しています。

「初対面のときから松岡は敬称を略して『おい芳沢』と呼んできた。こちらも『松岡』と呼び捨てにした。非常に何でも遠慮なく、お互いに言いたい放題にやっていた」

 ちなみに芳沢謙吉は入省年次で洋右より四年先輩です。その芳沢を呼び捨てにする洋右の神経は尋常ではありません。芳沢の回想はつづきます。

「私どもは水野幸吉、本多熊太郎、松岡洋右の三人にトーキング・マシンという仇名をつけ、そう呼んでいた」

 この三名は実によくしゃべりました。ちなみに三名が三名とも入省試験では主席でした。とるに足らない世間話や猥談から、一転、名論卓説へと議論が発展したりします。

「そのやかましいの、なんの」

 と芳沢は往事を振り返っています。

 そのように自由奔放な官僚生活を送って満足しているように見えた洋右ですが、意外にも、この年末に辞職を願い出ています。何が不満だったのかはよくわかりません。洋右は、珍田捨巳(ちんだすてみ)外務次官と山座円次郎局長に説得され、辞職を思いとどまりました。

 翌年、洋右はベルギー在勤を内命されました。これは外務省がエリートのために用意した出世コースです。しかし、官僚生活に未練を持たぬ洋右は、せっかくの出世街道を蹴り、清国在勤を希望しました。官僚機構によって用意された欧米勤務のエリートコースには何の意義も見出せなかったのです。

(むしろ支那の革命をこの目で見たい)

 そう洋右は思いました。思うだけでなく予言までしていました。

「三年にして支那は革命に逢着し、清国は滅ぶべき運命にある」

 清国は、なお命脈を保ってはいましたが、国内の治安は乱れ、諸外国に領土を蚕食され、亡国一歩手前の情勢です。しかし、この時期に革命が成功すると予想する者は外務省内に誰もいませんでした。

 四月、洋右は希望どおり北京公使館へ赴任しました。洋右は三年間ほど支那で勤務しますが、その間に武昌蜂起が発生し、辛亥革命となり、清国が倒れました。

 武昌蜂起が起こったまさにその時、武昌の対岸の漢口に洋右はいました。漢口領事館はさっそく情報収集にあたりました。洋右も奔走して諸情勢を収集分析し、独自の意見を吐きました。

「革命をたすけよ」

 洋右は主張しました。日本政府は清国政府を正当の政府と認めつづけていましたから、洋右の意見は領事館内では暴論とされました。しかし、洋右の考えでは、清国の命脈はもはや尽きているのです。よって、革命政府を助けた方が将来的に有利になるとみたのです。結局、洋右の過激な建言は駐在武官らによって黙殺されてしまいました。

 清王朝は政権を革命政府に禅譲しました。とはいえ辛亥革命は、支那大陸中南部の十四州が宣言したものに過ぎず、広大な清国の版図からみれば地方政変であるに過ぎませんでした。満洲や北支の諸州、モンゴル、ウイグル、チベットは辛亥革命に参加していません。それでも初代総統の孫文は「中華民国の領土は旧清朝領であるべきだ」と宣言しました。孫文の大ボラです。この大ボラを本気にした東洋人はいません。もちろん日本人も笑い飛ばしました。しかし、悪いことに欧米列強が孫文の大嘘を信じてしまいました。これが日本と欧米との対立を生んでいきます。東亜に発生した多くの悲劇の原因をたどっていくと、孫文の大嘘にゆきつきます。孫文は実に罪深い大嘘をついたことになります。

 ともあれ、革命当時、あくまでも革命政権は漢人の支配する支那大陸の中南部十四州を統治する地方政権に過ぎなかったのです。その革命政権を日本政府は国家承認し、「支那共和国」と呼称しました。これは英語名のリパブリック・オブ・チャイナを直訳したものです。


 明治日本は二度の戦争を経験したわけですが、そのいずれもが朝鮮半島を火種として勃発したものでした。朝鮮の実権をめぐって日清間に発生したのが日清戦争であり、ロシア帝国が朝鮮半島に浸透するのを防ぐために戦ったのが日露戦争です。これらの戦争は、強大な大陸国家が朝鮮半島を握れば日本の安全が危うくなるという地政学的条件から起きたものです。それが日本の地理的条件である以上、どうしようもありません。したがって、日露戦争後、日本政府が朝鮮半島の始末を付けようと考えたのは当然でした。

 日本政府は、日露戦争中の明治三十七年八月、第一次日韓協約が成立させました。これにより韓国政府は、日本政府の推薦者を財政顧問と外交顧問に任命することとなりました。しかし、韓国政府はこの協約を守らず、各国に密使や密書を送り、日本を非難しました。このため、日本政府は朝鮮統治強化のため、日露戦争後の明治三十八年十一月に第二次日韓協約を成立させます。これにより日本は韓国の外交権を掌握しました。ところが、韓国政府は再び協約に違反し、ハーグに密使を送る事件を起こしました。そこで、明治四十年七月、日本政府は第三次日韓協約を成立させ、韓国の内政権を握るに至ります。

 日本政府は対外的にも動き、日露戦争中の明治三十七年七月、桂・タフト協定を結びました。アメリカは朝鮮半島に対する日本の支配権を認め、一方、日本はフィリピンに対するアメリカの支配権を認めました。その翌月、第二次日英同盟が成立しました。これにより、インドに対するイギリスの特権を日本が認め、日本が韓国を保護国にすることをイギリスが認めました。日露戦争後の明治三十八年十一月に成立した日露講和条約において、ロシアは日本の朝鮮半島における優越権を認めました。同じ内容が日露戦争後の明治四十年七月、第一次日露協約においても確認されました。

 ここにおいて小村寿太郎外務大臣は日韓併合を断交すべきだとする意見書を桂太郎総理大臣に提出し、桂総理はこれを承諾しました。南満州に得た権益を活用するためには日満韓を一体化することが合理的だと考えられました。韓国総監の伊藤博文もこれに同意したので、明治四十二年七月、日本政府は日韓併合を閣議決定しました。

 その後、ロシア統治下の満洲ハルピン駅において伊藤博文が暗殺される事件が発生します。ロシアは、それまで韓国の独立を支援していたのですが、伊藤暗殺への関与を疑われるに至り、韓国と断交しました。こうした経緯を経て明治四十三年六月、日韓併合条約が調印されました。

 二度の戦争を惹起した政情不安定な隣国朝鮮を併合し、日本は一応の安定を得たといえます。しかし、新たな火種が支那大陸に広がっていくこととなります。


 大正元年に支那から帰国した洋右は、同年十二月に露都ペトログラードに赴任しました。一年ほどの滞露生活でしたが、ロシア帝国を去るにあたり洋右は予言を残します。

「ロマノフ王朝は滅亡する。ロシアは二十年ほどのあいだ極東に関する限り、力を行使する余裕を失うだろう。僕のロシアに来た目的は達した。そして安心して去る」

 洋右がロシアを去った四年後にロシア革命が起こり、混乱の末、共産主義政権が成立します。その後、ロシア国内は内乱と粛正で混乱し続けました。レーニンからスターリンに権力が移った後も、恐ろしい恐怖政治が布かれ、ソビエト連邦は内政一辺倒となります。このため日本は、北方の脅威を一時的に忘れることができました。洋右の予言の正確さには驚かざるを得ません。

 ロシアを去った洋右は、アメリカ勤務となり、ワシントンで足かけ四年を過ごします。駐米大使は珍田捨巳、参事官は幣原喜重郎(しではらきじゅうろう)でした。ややあって海軍駐在武官として野村吉三郎がワシントンへ赴任し、互いに相知るようになります。

 この頃の日米間の懸案としては、カリフォルニア州における日本移民排斥問題がありました。とはいえ、表面上は良好な日米関係が続いており、太平洋は平穏でした。明治四十一年の高平・ルート協定によって、アメリカは朝鮮および満洲における日本権益を認め、一方、日本はフィリピンにおけるアメリカ権益を認めました。

 太平洋の平和は日本の大陸政策の前提条件です。だから日本の対米外交は基本的に宥和主義です。こののち日米関係は、大正四年の対華二十一箇条要求によって一時的に緊迫します。ですが、この緊張も大正六年の石井・ランシング協定によって緩和されます。アメリカは満洲の日本権益を認め、一方、日本は門戸開放政策の推進を約束し、アメリカによるフィリピン支配を認めました。この協定を締結したのは特命全権大使石井菊次郎です。この協定がまとまっていなければ日本の大陸政策は一頓挫をきたしていたに違いありません。

 ちなみに門戸開放とは、今日的に言えばグローバリズムです。もっと露骨に表現すれば「アメリカの商習慣をお前の国にも導入しろ」という要求です。戦後の日本がくり返しアメリカから制度改変を要求されているように、戦前の日本もアメリカからの門戸開放要求を受け容れざるを得なかったのです。

 ともあれ石井・ランシング協定によって日米は友好関係を維持しました。日本は、アメリカという民主主義国との同盟を築くことによって大陸勢力と対峙しようとしたのです。ですが、日本の希望とアメリカの野望は異なっていました。マニフェスト・デスティニー(膨張の天命)を国是とするアメリカにしてみれば、太平洋も極東もいずれは征服すべきフロンティアであるに過ぎません。広大な太平洋という海洋空間が日米の角逐を猶予していましたが、船舶や航空機や通信機器といった文明の利器が太平洋という外堀を埋めてしまった時、日本はアメリカに侵略されるべき運命にあったのです。その意味で、大日本帝国の栄光は、太平洋という天然の要害が日本に与えてくれた半世紀かぎりの猶予期間だったと言えなくもありません。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ