エピローグ
強気の対米外交を推進した松岡洋右の心底にはアメリカに対する絶対的な信頼があったようです。
(自由と民主主義を標榜するアメリカが、まさか共産主義ソビエトと手を握るまい。アメリカは呵責ない人種差別の国ではあるが、一方では公正と公平を重んじている。決してアメリカが民主主義の旗をおろすことはない)
アメリカに対する絶対的な信頼こそが、結果として誤判断を招き、回避すべき戦争を惹起してしまったようです。あきらかに松岡外交は失敗したのです。しかし、この失敗は、松岡洋右に対するアメリカの背信であったとも言い得ます。
フランクリン・ルーズベルト大統領は、民主主義を棚上げして権力外交に徹し、共産党独裁国家たるソビエト連邦と連合したのです。そもそもアメリカには様々な選択肢がありました。日本を助けて共産主義の世界的拡散を防ぐこともできたし、独ソの戦争を傍観して二大独裁国家同士を共倒れにすることもできました。にもかかわらず、アメリカはソビエト共産党を援助し、ドイツと日本の打倒を選んだのです。その結果、日本は米ソから挟撃されるという戦略的死地に追い落とされました。松岡洋右のアメリカ認識が甘かったと言ってしまえばそれまでのことですが、第二の祖国アメリカを信じ、そのアメリカに裏切られたことには、むしろ同情を禁じ得ません。
さらに言えば、裏切られたのは松岡洋右だけではありません。日本政府と日本国民はもちろん、アメリカ国民とアメリカ連邦議会までがルーズベルト大統領に裏切られていたのです。
戦後になってあきらかになったことですが、ルーズベルト大統領の周辺にはコミンテルンのスパイが数多く存在していましたし、大統領自身が容共主義者でした。日本を苦しめた経済制裁や、日本を翻弄したハル長官の対日交渉の経緯をアメリカ政府は極秘とし、アメリカ連邦議会にもアメリカ国民にも知らせていませんでした。
アメリカはソビエト連邦と談合し、世界覇権という果実を分け合おうとしたのです。アメリカは太平洋と大西洋の海上覇権を獲得し、ソビエト連邦は広大なユーラシア大陸を手中にしました。観じきってしまえば、松岡洋右という外交家はコミンテルンと戦い、コミンテルンに敗れたと言ってよいでしょう。信頼していたアメリカ政府にくわえ、蒋介石の国民党、さらに日本政府までがコミンテルンに影響されていたのです。おそるべき組織力、あるいは思想の感染力というべきです。
松岡洋右がいかにすぐれた縦横家であったとしても個人の能力には限界がありました。徹底した能力主義者であった松岡洋右は、その実力ゆえに組織を軽視する嫌いがあり、変転きわまりない経歴が松岡洋右の人脈を薄くしました。それが松岡外交失敗の遠因だったのです。
第二次大戦後の特異な言論空間のなかにあって松岡外交の失敗を責めるのはたやすいことです。ですが、それなら帝国議会や歴代総理や各政党に責任はなかったのか、陸海軍の判断に誤りはなかったか、松岡以前の歴代外相の政策は的を射ていたか、そしてコミンテルンの影響力がいかなるものであったか、なによりもアメリカの対日外交は当初から単なる時間稼ぎではなかったか、などが問われてしかるべきです。
松岡洋右の生涯は結果的に悲劇となりました。しかし、同時にそれは一篇の英雄譚です。没落した廻船問屋の息子がアメリカに渡って差別のなかで苦学し、やがて帰国して外交官となり、機敏な才覚と英語力でメキメキと頭角をあらわし、国際連盟の大舞台で歴史的な大演説をぶち、欧米列強を相手に堂々たる大外交を展開して歴史に名を刻んだのです。まさに痛快です。蘇秦、張儀に比肩しうる日本の縦横家は松岡洋右のほかにないといえるでしょう。




