表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
2/20

アメリカの洗礼

「私は十四歳のときに今の言葉でいえばルンペン、このルンペンはちっと大きくて世界的ルンペンになってアメリカにわたった。私の家は、御一新の後、だんだんつぶれてまいりまして、とうとう私は十四才の春、アメリカにわたっていってアメリカでルンペンをやりました」

 これは、昭和十一年、大連の小学校で講演した松岡洋右(まつおかようすけ)の言葉です。このとき松岡は南満洲鉄道の総裁でした。この述懐からわかるように、松岡洋右は長州出身ではありましたが、決して長州閥のエリートではありませんでした。むしろ社会の底辺、それも人種差別の激しいアメリカ社会の下層でたたかれ、鍛えられ、ついにルンペンから成り上がった男です。

 周防灘に面した長州の室積が生地です。江戸期の室積は北前船の寄港地として栄え、下関と並び称せられるほどに殷賑(いんしん)を極めていましたが、松岡洋右の生まれた明治十三年頃には室積の繁栄も過去の記憶でしかなくなっていました。洋右の生家は今津屋という廻船問屋です。今津屋の家運は傾きはじめていましたが、それでもまだ松岡家には余徳がありました。洋右は「今津屋の坊ちゃん」として家内でも近所でも大切にあつかわれました。

 洋右はガキ大将でした。身体はとびきり小さく、腕力が強いわけでもありませんでしたが、弁舌が優れていました。

「ひとの三倍しゃべる」

 というのが室積での評判でした。洋右は理屈の応用がうまく、人を言い負かすのが得意でした。頑強な身体を自慢する漁師町の悪ガキたちも洋右の弁舌にかかると、いつしか幻惑されてしまい、洋右の子分になりました。悪ガキ集団同士で対決するときは、身体の大きな子分どもを後ろにひかえさせ、チビの洋右が三寸不乱の弁舌をふるいます。まさに軍事力を背景とした外交交渉です。

 洋右は、相手が大人でも物怖じしませんでした。小学校では、授業中、教師の話を注意深く聞いています。教師が少しでも間違えると、洋右は起ち上がって誤りを指摘し、正解を示してそれを解説し、「教師の癖にたるんでいるぞ」と説教しました。同級生はヤンヤの喝采です。教師たちは面目をつぶされて辟易し、洋右の舌鋒を「松岡嵐」と呼んでおそれました。


 明治二十五年、今津屋が倒産します。松岡家は一文無しになってしまいました。このため洋右の運命は大きく変わります。両親はやむなく洋右を学僕としてアメリカへ行かせることにしました。学僕スクールボーイとは、アメリカ人の家庭に住み込み、朝晩に三時間ほど家事や雑用をこなします。そのかわり衣食住を提供してもらい、地元の学校に通わせてもらう仕組みです。洋右は、アメリカ西海岸オレゴン州ポートランドの家庭に入りました。

「薪を割っておきな」

 洋右は薪を割るように言いつけられました。これが気位の高い洋右には耐え難いものでした。薪割りという仕事そのものが屈辱なのではありません。それを命じるアメリカ婦人の目つき、態度、言葉づかいがまるで奴隷に対するようなものだったのです。とはいえ、このアメリカ婦人に格別な悪気があったわけではありません。東洋人に対するごく自然なアメリカ白人の態度であったにすぎません。しかし、今津屋の坊ちゃんとして育った洋右には我慢ができませんでした。

(なぜ、奴隷のように扱われるのか)

 洋右は鉈を放り出して教会に駆け込みました。身元引受人は河辺という日本人牧師です。洋右は河辺牧師に「帰りたい」と泣いて訴えました。河辺牧師は洋右の訴えをていねいに聞き、やがて泣き止んだ洋右に教えさとしました。

「働かざる者、喰うべからず」

 それでも洋右は帰ろうとしません。やむなく河辺牧師は洋右をしばらく教会に住まわせて様子をみました。数週間後、洋右はダンバー家へ住み込むことになり、アトキンソン小学校に入学しました。

 ダンバー家のイザベル夫人は洋右を大切にしてくれました。仕事は仕事としてきつく言いつけるものの、あくまでも洋右を人として遇してくれました。洋右の訴えに耳を傾け、洋右の気持ちに寄り添い、洋右の泣き言までも聞いてくれました。日本の母親とは違うタイプの愛情に接したことで洋右はようやく精神の平衡を保ち得ました。

 小学校ではいじめられました。洋右が渡米した一八九〇年代のアメリカは、白人によるインディアン征服戦争がようやく終わった頃であり、人種差別は苛烈でした。このころのアメリカをごく単純化して語るなら、欧州からの白人移民が先住インディアンを皆殺しにして土地を奪い、黒人奴隷を酷使して富を搾取するという典型的な侵略的白人移民国家の完成期でした。オレゴンの肥沃な土地には、もともと多くのインディアン部族が住んでいたのですが、一八一〇年代から白人の開拓が始まり、一八四〇年代になると白人の入植者が爆発的に増えました。カイユース戦争やローグ川戦争に敗北したインディアンは迫害され、不毛な保留地へと追い立てられていきました。

 迫害されたのはインディアンばかりではありません。一八六九年に大陸横断鉄道が完成してしまうと、大量の余剰労働者が発生しました。それまで鉄道工事に従事していた支那人苦力は、それぞれ新たな職を得て、低賃金で働くようになりました。すると、支那人に仕事を奪われたとする白人労働者がこれを怨み、支那人を虐待しました。支那人はあるいは弁髪を切られ、あるいは頭の皮を剥がされ、ひどい場合には首を斬られたり、生きたまま焼き殺されたりしました。

 この時代の進化論的常識は、猿は黒人に進化し、次いで黄色人種となり、さらに進化して白人になったと教えていました。白人にとって黒人や東洋人は猿と同じ動物だったのです。

「ジャップ」

 と罵られても洋右は反論ができませんでした。そもそも英語がわからないのです。遠い異国で身体の大きい異人に囲まれ、圧倒的な人種偏見に曝されれば、大人でも気後れするでしょう。まだ小僧にすぎなかった洋右はすっかり自信を失いました。喧嘩になれば体格に劣る洋右に勝ち目はありません。洋右は自分の不甲斐なさに涙しました。

(せめて英語さえできれば)

 英語さえ使いこなすことができれば、アメリカ人相手にでも「松岡嵐」を吹かせてみせる自信があります。それなのに片言の英語しか話せないために反論ひとつできないのです。悔し涙に泣き濡れて帰ってくる洋右をイザベル夫人は温かく迎え、洋右と一緒に涙を流してくれました。河辺牧師もまた洋右に同情し、「困難に打ち勝て」と励ましてくれました。このふたりの支えがなければ、差別と劣等感が洋右の根性をねじ曲げてしまったことでしょう。洋右は辛うじて異国の日常に耐えました。

 時日の経過とともに洋右には周辺の状況が見えてきました。あたりまえのことですが、ひとくちに白人といっても一様ではありません。

「同じ白人でも異民族を差別する者としない者がおることを知った」

 のちに洋右は語っています。クラスでは白人の悪ガキ連中にしつこく「ジャップ」とののしられ、いじめられました。ですが、そんな洋右に同情してくれる白人の女の子が現れました。周囲が敵ばかりではないとわかると、持ち前の負けん気がよみがえってきました。

(白人学生と学問で勝負してみよう)

 洋右は懸命に勉強しました。やげて英語を操れるようになると、白人の悪ガキたちに論戦を挑むようになり、ときには相手を言い負かすことができるようになりました。すると悪ガキどもは「生意気だ」と暴力に訴えてきます。室積とは勝手がちがいました。やむを得ず洋右も拳骨を握りしめて振り回しました。洋右は涙と鼻血を垂らしながらアメリカ社会のルールと精神を身につけていったのです。

 このことは松岡洋右という外交家を理解するための重要な要素であるといえます。洋右の晩年、ある新聞記者が洋右に問いました。

「アメリカ人とはどんな人間か」

 洋右は次のように答えました。

「原野に一本道があるとする。人ひとりがやっと通れる細い道だ。君がこっちから歩いていくと、アメリカ人が向こうから歩いてくる。原野の真ん中で君たちは鉢合わせだ。向こうも引かない。こっちも引かない。そうやってしばらく互いににらみ合っているうちに、しびれを切らしたアメリカ人は、拳骨を固めてボカンと君の横ツラを殴ってくる。さあ、そのときにハッと遠慮して、頭を下げて横に退いて相手を通してみたまえ、その次からその道で行き合えば、アメリカ人は必ずものも言わずに殴ってくる。それがいちばん効果的な手段だと思わせてしまったからだ。しかし、その一回目に君がへこたれないで何クソと相手を殴り返してやる。するとアメリカ人はビックリして君を見なおす。おや、こいつはちょっと骨のあるヤツだ、というわけだな。そして、それから無二の親友になれるチャンスがでてくる」

 洋右の青春は白人社会との格闘でした。ハイスクール時代、洋右は学費を稼ぐために様々なアルバイトをしました。各家庭の糞尿を回収して付近の谷間に捨てにいくようなこともしました。南部の農園で黒人労働者とともに肉体労働に従事したこともあります。アメリカ社会の最底辺を味わったのです。

 やがて縁あって法律事務所で働くようになり、法律に関心を持ちました。洋右はオレゴン州立大学に進んで法律学を修めました。洋右は刻苦勉励し、オレゴン大学では首席の成績をとりました。しかし、卒業席次は二番とされました。要するに、日本人であるがゆえに二番とされたのです。この事実は洋右にむしろ自信を与えました。以下は晩年の述懐です。

「ワシはハイスクールでも大学でも二番だった。本当はワシが最優等であったが、ケツの穴のこまい毛唐は白人以外には首席の栄冠を与えなかったのだ。ともあれ日本民族は、ナリこそこまいが頭ではアングロサクソンより優れていることをワシは実証した。ワシは大きな自信を得た。以後、ワシは機会ある毎に恐白病を克服せよ、日本民族は優秀なのだ、自信を持てと唱道した。この確信を授けてくれたのはアメリカのパイオニア精神であった」

 激しい愛憎の錯綜する洋右の対米感情は、余人には理解しがたいものです。たしかにアメリカ社会は洋右を差別しましたが、洋右に学業の機会を与え、その努力をある程度までは公正に評価し、自信を与えてくれもしたのです。差別、暴力、自由、機会、公平、平等など様々な悪と善の入り交じったアメリカ社会が洋右を鍛えて成長させました。そして、学校行事のたびに星条旗を眺め、アメリカ国歌を口ずさむうち、洋右はアメリカ流の世界観と処世術を体得していきました。


 洋右が帰国したのは明治三十五年です。いわゆる「洋行帰り」となったのですが、適当な仕事が見つかりませんでした。日本の古典を学んだりしながら故郷でブラブラしました。洋右は政治家志望です。すでに帝国議会が開かれ、選挙も始まっていましたが、いきなり帝国議会議員になるのは無理でした。上京して仕事をさがすと、たまたま目にした新聞に外交官試験のことが載っていました。

(外交官ならば英語が役に立つ。それに国費で留学ができる)

 洋右は独学で受験準備をし、明治三十七年十月の外交官試験を受けました。面接試験のときに試験官と激論を戦わせたのは、いかにも洋右らしい逸話です。洋右は首席で合格しました。

 翌月、洋右は上海領事館に赴任します。ちょうど日露戦争の最中です。このころ日本軍はきびしい戦局に直面していました。八月の黄海海戦は連合艦隊の完全勝利とはならず、ロシア太平洋艦隊は旅順港へ遁走してしまいました。このため乃木大将の率いる第三軍が旅順要塞を陸上から攻撃することになりました。しかし、旅順要塞を陥落させることができないばかりか、損害が累増しました。他方、優勢なバルチック艦隊が欧州から極東へと回航しつつあります。もしバルチック艦隊とロシア太平洋艦隊が合同すれば、ロシア海軍の海上勢力は日本の連合艦隊をはるかにしのぐ大戦力となります。また、陸軍の主力たる満洲総軍は沙河戦線で優勢なロシア極東軍と対峙しており、身動きできない状況でした。

 明治三十八年に入るとようやく戦況が好転しはじめます。正月、第三軍は大きな犠牲を払いつつも旅順要塞を陥落させ、港内のロシア太平洋艦隊を砲撃によって全滅させました。三月には奉天で日露の大会戦が生起し、満洲総軍が勝利しました。つぎなる敵はバルチック艦隊です。

 明治三十七年十月五日にリバウ港を発したバルチック艦隊は、まさに万里の波頭を越えて極東をめざして航海していました。ノビコフ・プリボイ著「ツシマ」によれば、バルチック艦隊が仏印カムラン湾に入泊したのは明治三十八年三月三十一日です。

 日本海軍は東シナ海に哨戒線を張って索敵し、外務省も情報収集に努めていました。上海領事館勤務の洋右も諜報活動に従事しました。

 上海では、民間の日本人も諜報活動に協力しました。なかでも三井物産上海支店長の山本条太郎は、日露開戦を知ると自社の営業網を活用して情報を集めました。サイゴン、シンガポール、香港などの支店を結ぶ情報網を活用し、入手した情報を上海領事館に通報しました。この山本条太郎の目に止まったのが、新米外交官の洋右です。山本条太郎は諜報の重要性と具体的方法を洋右に教えました。洋右は大いに感心し、以後、山本に師事します。

 明治三十八年四月、上海領事館に宮治民三郎海軍大尉が派遣されました。上海で収集した情報を吟味し、海軍軍令部に伝達するのが任務です。その電報記録が残っています。

「三井物産会社に着電。香港政府よりの情報。二十八日、二十七隻ペナン通過せりという」

「三十日夜、三井物産会社へ着電。露国第三艦隊二十九日シンガポール通過す」


 バルチック艦隊はカムラン湾で後続艦隊と合流し、五月九日に出航した後、消息が途絶えます。ほぼ十日間、バルチック艦隊の消息が不明となりました。上海の山本条太郎は船舶をチャーターして上海沖の海上を走り回らせましたが、バルチック艦隊の行方は杳として知れません。上海領事館にも確たる情報が入りません。このため日本全体が焦慮に包まれました。

「バルチック艦隊はどこへ行ったのか」

 バルチック艦隊が十ノットで航行しているとすれば、十日で四千キロほど進むことになります。とっくに日本近海に現れてよいはずでした。

「バルチック艦隊は太平洋を北上しているのではないか。だとしたら対馬海峡で待ち伏せている場合ではない。連合艦隊は速やかに北上せねばならない」

「いや、このまま鎮海湾で待つべきだ」

 海軍軍令部でも連合艦隊司令部でも議論が噴出しました。日本全体が神経質に気を揉んでいましたが、事実は単純でした。バルチック艦隊は、バシー海峡のバタン諸島付近にあって艦隊行動や射撃の訓練をし、石炭や水などの補給を実施していたのです。その後、北上を開始しましたが、故障のたびに停泊しました。そのため航行がきわめて緩慢だったのです。

 日本中が待ちに待っていた情報が上海領事館から海軍軍令部にもたらされたのは五月二十五日の夕刻です。

「露国義勇艦隊三隻、輸送船五隻、本日夕、呉淞(ウースン)入港」

 呉淞とは上海にある港です。

「露国義勇艦隊を呉淞に案内せる水先案内者の報告によれば露国艦五隻は対馬海峡を経由、ウラジオ港に向け航進。残り三隻は当地に滞在の目論見なり」

「バルチック艦隊、対馬海峡へ向かう公算大」

 五月二十七日、東郷平八郎中将の率いる連合艦隊は、対馬海峡でバルチック艦隊を迎撃しました。翌日、ロジェストベンスキー提督は白旗を掲げて降服しました。


 日本海海戦が連合艦隊の勝利に終わると、山本条太郎は洋右を上海倶楽部へ連れ出し、酒を酌み交わすようになりました。上海には日本人の親睦組織が複数あり、それぞれに会員制のパブを所有していました。上海倶楽部もそのひとつです。日英の交流促進を目的として運営されており、日本人の参加資格は「英語を解し、相当の位置にある者」でした。

 洋右が初めて上海倶楽部へ来たときのことです。洋右は山本条太郎のあとについてパブに入っていきました。山本は顔見知りの英国人を見つけると、無造作に呼びかけます。

「ヘイ、ジョン」

 それを見た洋右は反射的に緊張しました。

(殴られるぞ)

 ですが、山本は平気な顔をしてジョンという英国人と談笑しています。洋右は自分自身に唖然としました。かつてオレゴン州で人種差別にさらされ、劣等感にさいなまれた洋右です。若い心身に刻み込まれた苦い屈辱の記憶はなお消えておらず、ときにフラッシュバックするのです。

(やられる)

 という恐怖心が自動的に湧きあがり、全身が硬直します。わかっていても、どうしようもありません。ところが、山本条太郎はリラックスして英国人と対等に、というよりむしろ横柄に付き合っています。

「驚きもし、また同時に愉快でもあった。いま思えば、山本翁は私を教育してくれたのだ」

 洋右は後に述懐しています。


 上海領事館勤務時代の洋右の働きぶりは目覚ましいものでした。永滝久吉領事はこれを評価し、洋右の進級を政府に具申しました。その具申書は次のように洋右を評しています。

「明晰なる頭脳と敏活なる事務的才能を有するは幾多領事官補中、実に稀にみるところと確信致し候」

 翌年四月、洋右は勲六等旭日章と金三百円と四給俸を賜りました。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ