破綻
日本側からする日米中立条約の提案に対し、ハル国務長官は何らの反応を示さず、むしろ日米諒解案に基づく「速やかなる交渉」を野村大使に求めてきました。このときもハル長官は、日米諒解案があたかもアメリカ政府の正式提案であるかのような口ぶりで話しました。ハル長官の田舎芝居に野村大使はまんまとだまされ続けます。ペテンにかけられているとも知らぬまま野村大使は再び外務省に請訓します。
「日米諒解案の線に沿い交渉開始方、速やかに御回訓を請う」
野村大使は、五月八日の電報においてアメリカ国内の最新情勢を報告するとともに、早急な交渉開始を要請しました。その電報告は、この時期のアメリカ国内の政治状況を伝えています。
「政治経済の実権はほとんどルーズベルトの掌中に帰し、その独裁的傾向ますます顕著なるものあり。ルーズベルト政策を批判し又はこれに反する言動を為す者は利敵行為ないしはスパイとして葬り去らるる空気にして言論の自由も急速に失われつつあるやの観あり」
アメリカ世論は統制されつつありました。ルーズベルト大統領は、欧州大戦を「トータリティアン」と「デモクラシー」の争いであると意味づけ、デモクラシーの牙城たる英国を救援せよという世論を形成していました。つまり、英独戦を理由に参戦しようというプロパガンダです。こうした情勢を見た野村大使は、だからこそ日米国交調整の好機だと主張します。
「米国として日独両国を同時に敵性国として持つことは不利なるが故に、米国側にとりて危険度少なき日本と国交を調整せんとすること一応うなずき得る所にして、いわゆる諒解案に沿って交渉を開かんとすることもまた諸般の消息を裏書きするものと信ぜらる」
野村吉三郎大使は今が好機だと考え、対米交渉の即時開始、つまり日米諒解案に対する日本側修正案の提示を急げとせっつきます。
しかし、洋右は日本側修正案の手交を許しませんでした。支那事変を抱え込んだままの対米交渉に展望を見いだせなかったからです。アメリカ有利の状況下では、たとえ日米交渉を開始しても譲歩を強要されるのは日本側です。その譲歩を国内世論や軍部が拒絶するならば、交渉のまとまる見込みはありません。まとまらなければ、戦争です。
(あんなものを信じることはでけんのじゃ)
あんなもの、とは日米諒解案のことです。洋右は日米諒解案なる文書を頭から信用していません。いざ交渉が始まればアメリカは必ず諒解案を修正し、様々な無理難題を日本に吹っかけてくるに決まっているのです。それが外交交渉というものです。たとえ交渉を開始しても、最終的に決裂となった時には日米開戦となる可能性が高く、それならば、いっそ交渉を始めない方が戦争回避になります。
(日米交渉の開始はまだ早いんじゃ)
洋右は日米諒解案に対する日本側修正案の提示を保留しつづけました。この段階で松岡外交は限界に達していたといえるでしょう。日独伊三国条約と日ソ中立条約によって目標の八合目には到達しています。ですが、頂上には登り切れていないのです。頂上とは、日米が互角の立場になることです。支那事変が続き、対蘭印交渉が進捗しない現状は、まだまだアメリカ有利です。支那事変を停戦させ、蘭印からの石油輸入を確かにできれば、互角の立場でアメリカと交渉ができます。それまで洋右は待ちたいところです。
とりあえず現状はまだ堪えられないほど悲観すべき事態ではありません。松岡外交は八合目まで到達しているのだから、この状況で好機を待てばよいはずでした。ここは軽挙妄動せず、ジッと静観するのが最上策です。
ところが、ここで静観し切れなかったのは洋右の政治力の弱さ、あるいは機敏すぎる性格の裏面だったでしょう。おのれの能力のみに頼ってきた洋右には、組織的背景や人脈がありません。閣内における発言力を維持するため、洋右は成果を出し続けねばなりませんでした。ここが洋右の弱点です。交渉が停滞すれば成果は出ないのです。内閣、統帥部、さらには外務省内から伝わってくる「すみやかに日米交渉を開始せよ」との圧力は日に日に強まり、さすがの洋右も抵抗できなくなってしまいました。
五月十二日、洋右は野村大使に対して日本側修正案の提示を訓令しました。野村大使にしてみれば待ちに待った訓令です。同日、野村大使は国務省にハル国務長官を訪ね、日本側修正案を手交しました。それを手にとったハル国務長官の態度こそ歴史に記録されるべきでしょう。ハル国務長官は、興味なさげな顔でパラパラと日本側修正案をめくると、ポンと机の上に投げ落とし、サラリと答えました。
「非公式、非正式に受け取り研究する」
洋右以外の全閣僚が絶大な期待を込めて提示した日本側修正案、これは日本政府の公式提案です。それに対するハル国務長官の返答がこれでした。見事なまでの肩すかしです。ハル国務長官の興味なさげな表情を見た野村大使は、内心、驚愕しました。
(非公式、非正式とはなんだ?)
野村大使は平静を装いつつ、その意味を懸命に考えました。しかし、わかりませんでした。そして、ハル長官は所用を理由に早々と退席してしまいます。野村大使は不得要領のまま日本大使館にもどり、ハル長官の言葉をそのまま本国に電報しました。外務省は大騒ぎになりました。
「非公式、非正式とはなんだ。どういうことだ」
日本政府からの正式な修正案に対する扱いとしては不穏当きわまるハル長官の返答です。
「どういうわけだ」
外務省とワシントン大使館の間に応酬が交わされましたが、よくわかりません。こうなった原因は、ハル国務長官の詐欺芝居にだまされた野村吉三郎大使の勘違いにあったのですが、野村本人にその自覚がないのです。結局、理由は解らず終いです。
とはいえ、ハル長官が「非公式、非正式」と述べた以上、日本側としても対応せねばなりません。十四日、洋右は野村大使にあて「日米諒解案は現時点では非公式のものとする旨、米国側へ申し入れ方訓令」を発しました。いかにも間の抜けた恥ずべき訓電です。
「なんたることじゃ」
洋右は激怒しました。が、いまさらどうすることもできません。この電報を傍受し、解読したルーズベルト大統領とハル長官は日本側のあわてぶりを嘲笑したに違いありません。日米諒解案は民間試案に過ぎませんでした。それを野村大使が米国政府案だと勘違いしたのです。ハル国務長官の巧妙な芝居によって勘違いさせられたのです。そこに全ての原因がありました。ハル長官の陰険さもさることながら、野村大使の間抜けぶりも指摘されねばなりません。
ルーズベルト大統領は、日本側から修正案が提出された翌日、ある命令書にサインしていました。アメリカ太平洋艦隊の大部を大西洋に移動させる命令です。戦艦三隻、空母一隻、巡洋艦四隻、駆逐艦九隻という大部隊が太平洋を離れます。これによりアメリカ太平洋艦隊は戦力を大幅に減じますが、日本政府が修正案を提出してきた直後ですから、日本が対米開戦を強行する可能性は皆無であるとみてよいのです。ルーズベルト大統領は安心してサインすることができました。この大艦隊は六月に地中海方面へ進出し、船団護衛作戦に参加しました。結果的に日本はドイツを裏切り、英国を助けたことになります。
五月十六日、ハル国務長官は野村大使に対し、日本側修正案に対するアメリカ側の再修正案を提示しました。今度は民間試案などではありません。アメリカ政府からの正式提案です。野村大使は安堵しました。
「十分に研究する」
そう答えて米国側再修正案を受けとった野村大使は、その米国側再修正案をなぜか本国の外務省に電報しませんでした。さらに五月三十日、米国側の再々修正案がバランタイン参事官から野村大使に手交されましたが、これについても野村大使は本省に報告せず、手元に留めおきました。このため洋右も外務省も、ほぼ一ヶ月、つんぼ桟敷に置かれました。
(どういうことじゃ)
この事実が判明するに至り、野村大使に対する洋右の不信は決定的になりました。これは駐米大使の異常行動といってよく、洋右ならずとも野村の真意を疑わざるを得ません。このほかにも野村大使の常識外れな行動が伝わってきています。野村大使は、ハル国務長官との会談に外務官僚を伴わず、かわりに岩畔豪雄と井川忠雄を同席させていました。岩畔と井川は日米諒解案の原案作成者でしたが、外交的にはまったくの無資格者です。さらに深刻なことに、野村大使は日本側修正案の文言を本省に無断で修正し、それをアメリカ政府に提出していたことが明らかとなりました。そして、アメリカ側の修正案を本国に電報しなかったのです。こうした野村大使の行動は外交の壟断とも言うべき非常識です。さらに、野村大使が岩畔や井川ばかりを重用するので、ワシントン大使館勤務の外務官僚たちは態度を腐らせていました。要するに大使館という組織が機能していなかったのです。
こうした諸々の情報が明らかとなった以上、洋右としては叱責せざるを得ません。本来ならば「松岡嵐」が野村大使の頭上に吹き荒れるところでしたが、なにしろ太平洋をへだてているため電訓するほかはありません。洋右は「野村大使の行き過ぎた発言により米国側に誤解を生んでいるとの情報について」という電報を発しました。この電報もアメリカ側によって傍受され、解読されていました。ハル長官は、ほくそ笑みながら読んだでしょう。怒鳴りつけるべき相手が眼前にいないため、洋右は近衛総理に八つ当たりしました。
「野村大使のやり口には文句を言わずにおれぬ。野村は、日本政府の耳に痛いことは日本政府に隠し、米国政府に都合の悪いことは米国政府に隠し、中間に立って双方にゴマをすり、なんとかして日米の諒解をまとめんとしたものらしい。野村はわしの訓令を、その半分でもハル長官に伝達していないと想像して間違いあるまい。こんなことでは日米交渉のごとき重大交渉は到底できるはずがない。元来、かかる重要な交渉にあたっては、いやしくも遣外使臣たる者は、その決定案たると否とにかかわらず、先方より接受した重要文書は遅滞なく本国政府に対し、その説明とともに電報すべきことは当然である。しかるに野村大使はこれをなさず。実に言語道断の沙汰である」
まったくそのとおりです。結果から推して、野村は外交の「いろは」さえ理解していなかったようです。だからこそハル長官に翻弄され、岩畔や井川に操られ、ひとりで苦しんでいたのでしょう。しかしながら、そんな外交の素人たる野村吉三郎を駐米大使に任命したのは、ほかならぬ洋右なのです。最も重要な交渉相手国の大使に素人を任命してしまったことは、取り返しのつかない洋右の失敗でした。
こうした経緯から、日米交渉は交渉そのものが難航したというより、野村の外交的無知と米側の悪意のために交渉が始まりさえしませんでした。
閣内における洋右の立場は苦しくなりました。対米交渉が停滞すると洋右に対する陸海軍の風当たりが強まりました。日米交渉は進捗せず、支那事変が解決する見込みもなく、蘭印から石油を輸入できる見通しもありません。
対米外交の停滞をみた陸海軍は、その任務の必要性から軍事作戦を練り始めました。軍事行動によって南方油田地帯を占領し、石油を確保するのです。六月五日、海軍は「現情勢下において帝国海軍のとるべき態度」を採択し、戦争回避の方針を放棄するとともに、「対米戦を辞せざる覚悟」との文言を明記しました。そして、六月十日には「南方施策促進に関する件」という陸海軍の合意が形成されました。このなかにも「対米英戦を辞せず」との文言が盛り込まれました。
洋右は極力反対しました。戦争準備のため南部仏印へ進出すべしと主張する陸海軍に対し、洋右は頑強に反対したのです。ですが、松岡外交の停滞に伴い、洋右の発言力は従来の威力を失い始めていました。
同じ頃、欧州では独ソ間の緊張が極限に達していました。秘かに対ソ戦の決意をかためていたヒトラー総統は、すでにバルバロッサ作戦を下命しており、五月までに独ソ国境に大規模な戦力を集中させていました。軍隊の大移動は、隠そうとしても隠せるものではありません。洋右のもとには頻々と独ソ開戦の兆候が伝えられてきています。
(まずい)
洋右は焦ります。ようやく構築した日独伊ソ四国協商体制が崩壊しようとしているのです。しかし、洋右にできたことといえば、リッベントロップ外相に通報することだけでした。
「ソ連との武力衝突を避けらるるよう希望す」
洋右は最悪の事態を想像しました。独ソ戦争が始まれば、日独伊ソの四国協商は崩壊します。日本の外交的影響力は低下し、アメリカは対日態度を硬化させるにちがいありません。よって日米交渉は、日本がアメリカに屈服しない限り、決裂します。
(外交的屈服を国内世論は受け入れるか。陸軍はおとなしく支那から撤兵できるか。それは難しい。となれば日米交渉は決裂し、決裂後に戦争となる公算が大きい。果たして日米戦争を回避する方策があるか)
独ソ間の情勢については陸軍参謀本部で盛んに情勢分析が行われていました。ドイツ視察から帰国したばかりの西郷従吾中佐は「独ソ開戦は決定的である」と報告しました。しかし、最終的に参謀本部は「独ソ、にわかに開戦せざるべし」との判断に落ち着きました。結果的に参謀本部は判断を誤ったわけですが、それも無理はありません。なにしろスターリンでさえ安心していたのです。独裁国家では総てが独裁者の胸三寸で決められます。これを予測することは不可能です。
ともあれ参謀本部の判断は、独ソ戦争が始まるとしても、しばらく先であるとの結論に落ち着きました。そのため六月に入ると大本営政府連絡会議の議題は南方問題に集中しました。課題は石油の確保です。日蘭会商はまったく好転せず、蘭印からの石油輸入は絶望的な見通しです。これに伴い陸海軍は南方作戦の研究に本腰を入れています。蘭印の油田地帯を占領するには、台湾や仏印を策源地としつつ、マレー半島、フィリピン、蘭印へと島伝いに大部隊を南下させねばなりません。この作戦上の要求として南部仏印への進出が国策上の課題となりました。
六月十一日、十二日、十六日、大本営政府連絡会議において南部仏印進駐問題が論議されました。ちなみに「進駐」という言葉は陸軍による新造語でした。そこを洋右は指摘します。
「進駐という言葉は初耳だから、今すぐには確たる返事ができぬ。しかし、先ほどの説明によれば、進駐とは事実上の軍事占領である。軍事占領となれば、仏印政府が承認するはずがなく、また松岡・アンリ協定への違反行為でもある。進駐すなわち軍事占領を強行すれば日本は国際信義を破ることになり、またアメリカ政府を刺激して日米交渉は暗礁に乗り上げるだろう」
洋右はこのように反論を展開しつつ、陸海軍との妥協の可能性をさぐりました。
「作戦基地は北仏印で可ならずや」
すでに北部仏印への駐兵は終わっています。北部仏印の飛行場でなんとか作戦を遂行せよ、というのが洋右の意見でした。しかし、マレー半島中部への上陸作戦を考えている陸軍に言わせれば、北部仏印は遠すぎます。例えばマレー半島のコタバルを上陸地点と想定した場合、北部仏印のハノイからコタバルまで直線距離で二千キロ以上あります。しかし、南部仏印のサイゴンならば距離は七百キロほどであり、航空部隊の制空権下となります。
軍事作戦上の必要性は洋右にも理解できました。しかし、南部仏印への進駐を仏印政府ならびに仏本国のビシー政権に納得させることは外交的に難題でした。かといって進駐を強行すれば、仏印政府の主権を侵害することになり、アメリカに対日制裁の格好の口実を与えることになります。対米戦争への発展を予感した洋右は、孤軍奮闘、南部仏印進駐に反対しました。対米交渉の行き詰まりが洋右の発言力を大きく減耗させてはいましたが、これまでの外交実績と雄弁とによって洋右は仏印南部進駐を抑え続けました。
昭和十六年六月二十二日は松岡外交が破綻した日です。この日、洋右は、来日中の汪兆銘とともに歌舞伎座で観劇していました。この日の演目は「与話情浮名横櫛」、「修禅寺物語」、「伊勢音頭恋寝刃」でした。舞台は修禅寺物語の最終盤にさしかかっています。
『やれ、娘。わかき女子が断末魔の面、後の手本に写しておきたい。苦痛をこらえてしばらく待て。春彦、筆と紙を』
『はっ』
『娘、顔を見せい』
『あい』
その時、加瀬俊一秘書官が洋右にメモを渡して去りました。メモは独ソ開戦を伝えていました。
(やんぬるかな)
洋右は、松岡外交の失敗を悟りました。対米和解を実現するために洋右が構想し、推進してきた日独伊ソの四国協商体制は完全に瓦解したのです。この結果、日本の対米発言力は格段に低下し、日米交渉を続けたところで日本は屈従を強いられることが確実となりました。幕が下りるのをまって、洋右はメモを汪兆銘に手渡し、席を立ちました。ロビーに出た洋右は加瀬秘書官の姿をさがして大声を出しました。
「おい、加瀬、加瀬!」
洋右は加瀬秘書官を見つけると、すぐに木戸幸一内大臣に電話させ、内奏を依頼させました。宮中に向かう車中、洋右は懸命に考えます。
(ついに来るべきものが来た)
洋右は、独ソ間に戦争が起こらぬよう願ってはいましたが、秘かに覚悟を決めてもいました。去る六月六日、大島浩駐独大使から「独ソ開戦決定」との入電があったからです。それ以来、洋右は秘かに覚悟を決め、どう対処すべきかを考えつづけていました。
(独ソ戦争が始まってしまった。日本の対米発言力はもう無きに等しい。アメリカの対日態度は強硬になる。おそらく日本の許容できぬ要求を突きつけてくるじゃろう。よって日米交渉妥結の見込みは、もはやない)
これが洋右の見通しです。
(では、どうする)
洋右としては対米交渉に対する希望を捨てるほかありません。日米和解の見込みがないとすれば、どうすべきか。洋右の考えは飛躍します。
(日本は、敢えて火中の栗を拾うべく、ドイツ軍に呼応して極東ソ連軍を攻めるべし)
ウラジオストクとハバロフスクを海陸から包囲し、シベリア鉄道を寸断して敵の補給路を断ち、沿海州の極東ソ連軍を孤立させる。あわせて関東軍を北進せしめ、可能ならばイルクーツクまで進ませる。これによってソ連軍に欧州と極東の二方面作戦を強いる。
その場合、アメリカ政府はどう出るか。アメリカの世論は参戦を否定するであろう。ソビエト連邦とナチス・ドイツ、スターリンとヒトラー、全体主義国家の独裁者同士の戦争です。アメリカとしては高みの見物を決め込めば良い。
(自由と民主主義のアメリカがまさか共産主義のスターリンと手を結ぶことはあるまい)
アメリカは共産ソビエトと手を結ばないはずだ、というのがアメリカに対する洋右の不変の信頼です。アメリカが中立を守るなら、日本は対ソ戦を戦い得る。もちろん支那事変を抱えながらの対ソ戦は、日本にとってリスクの大きい二正面作戦です。それでも、このまま対米交渉を継続するよりは国運打開の可能性が高い。
(日米交渉を継続した場合、それが決裂するとともに日米戦争になる)
洋右の頭脳は、なによりも日米戦争の回避を最優先事項として諸々の判断を下しました。
(むしろソビエトを日独で挟撃して打倒し、日独伊の三国でユーラシアの覇権を掌握するのだ。そうすれば日本の対米発言力はふたたび高まる)
この日の洋右の奏上内容については確かな記録がありません。おそらく洋右は、日独伊ソの四国協商構想が破綻した事実を告げ、松岡外交の失敗についてお詫びを言上したでしょう。そして、今後の情勢について私見を述べたでしょう。日本の立場は急転直下に悪化してしまったのです。洋右は、ありとあらゆる状況を想定し、日本政府のとるべき施策を考え、頭脳と舌を高速回転させつつ奏上しました。
天皇陛下の御前です。洋右は背筋を伸ばし、膝をそろえて椅子に座り、その両膝に左右の手を置き、身体を微動だにさせず、奏上を続けました。口だけがしきりに動きます。洋右の一念は対米戦争の回避にあります。だからこそアメリカを刺激せぬように軍部の南仏印進駐を抑制してきたのです。しかし、独ソ開戦によってユーラシア四国協商が瓦解した今、アメリカは対日態度を硬化させるに違いなく、対米交渉に望みを繋げば繋ぐほどズルズルと日本の立場は悪化していくのです。
「むしろ対ソ開戦して北進することが対米戦回避の唯一の方法であると愚考いたします」
洋右は奏上しました。ドイツがソ連に侵攻したということは、イギリスが安全になったことを意味します。アメリカが参戦する理由は何もないのです。従来からアメリカの国内世論は参戦反対ですから、ルーズベルト大統領は世論に逆らえないでしょう。この機に日本が対ソ開戦してもアメリカ世論はアメリカ政府に静観を求めるに違いないのです。日本は対ソ開戦し、ドイツとともにソ連を撃ち、日独伊でユーラシアの覇権を握る。そうして対米交渉力を回復させるしか方法がありません。
洋右の対ソ開戦論をお聴きになった昭和天皇は少なからず驚かれました。これは日ソ中立条約の一方的な破棄であって、国際信義を重んずる日本の国是に合いません。それは洋右にも解っています。そもそもモスクワで日ソ中立条約を調印したのは洋右だったのです。しかし、洋右は非常時における非常の決断を申し上げました。
「日米交渉にはもはや希望がありません。独ソ戦争が始まり、日独伊ソの四国協商構想が崩れた今、日本の対米交渉力は皆無に近いのでございます。日本側として許容しがたい要求をアメリカ政府は出してくるでしょう。見込みのないままに対米交渉を続け、ついにアメリカが対日石油輸出禁止に踏み切った場合、日本は死命を制せられてしまいます。石油を断たれれば戦争の遂行は愚か、国内産業そのものが滞り、日本は石油文明から石炭文明へと退化してしまいます。そうなってから対米英蘭戦争に踏み切るとして、勝てる見込みは薄いと申し上げるほかございません。この事態を抑止するためには、いまこそ対ソ開戦に踏み切り、欧州のドイツ軍に勝利を与えてやり、ユーラシアを日独伊三国で握らねばなりません」
南方の蘭印に進んで石油を確保しようとすれば、英領マレーから、英領シンガポール、米領フィリピン、そして蘭領インドへと島伝いに進まねばなりません。必然的に英米との戦争になります。それでアメリカに勝てるか、といえば難しい。日本には軍事力でアメリカ本国を征服する方策がないのです。そうであれば、今こそ死中に活を求めて対ソ戦に踏み切るべきであると、洋右は奏上しました。
洋右の奏上を聞こし召された昭和天皇は御不興を催されました。洋右の非常の提案は、秦の恵王にならば採用されたでしょう。ヒトラーやスターリンのような独裁者ならば耳を傾けたでしょう。しかし、大日本帝国の国柄はそのようなものとはまったく異なっていました。天皇の名において条約を締結した以上、それを守るためには腹さえ斬るのが日本でした。この美しき国柄によって、洋右の非常の献策は拒絶されました。洋右にとって、日独伊三国条約も日ソ中立条約も日米宥和という最終目的に至るまでの単なる「道行き」に過ぎませんでした。しかし、国際法と条約を厳格に守るというのが維新以来の日本の国是です。条約が単なる「道行き」だなどということは、こと日本においてはあり得なかったのです。洋右は、松岡外交の本質的な誤謬に今さらながら気づきました。
(迂闊であった。わしは失敗したのかも知れぬ)




