日米諒解案
洋右は休みません。電撃的な日ソ中立条約調印という大仕事を成し遂げても、シベリア鉄道の列車内で働き続けます。部下を叱咤して帰朝報告の文案を書かせました。この訪欧中に数多くの会談や会見が行われました。その内容を文字に起こさねばなりません。その文書量は膨大です。洋右は部下にひととおり指示を与えると、来たるべき対米交渉の方略を練りました。
(日ソ中立条約で日独伊ソの協商体制ができた。これでようやくアメリカと対等に交渉ができるはずだ。いや、アメリカ側から早々に何か言ってくるかもしれぬ)
対米交渉の前提条件は不完全ながらも整えられました。日支交渉は破れ、日蘭交渉にも見込みがありません。しかし、日独伊にソを加えた四国の同盟関係がまがりなりにも完成したのです。アメリカにとって決して軽視できない事態のはずです。洋右は、モスクワ滞在中に駐ソ米大使スタインハートと数度にわたって会談し、相互に了解事項を確認しておきました。
「日米はお互いに戦うを欲せず」
洋右は、スタインハート大使に対して和平を強調しました。日本としてはアメリカの仲介によって支那事変を解決したい希望を持っていると洋右は率直に述べ、それをスタインハート大使に依頼しました。また、ドイツに関して洋右は「ドイツに対米戦争の意志はない」と繰り返し説明しておきました。事実、ドイツは対米戦を避けたがっていたのです。駐ソ米大使のスタインハートは、アジアの赤化を懸念する親日反共論者であり、「強い日本」派でしたから、洋右の意見に同意しました。ちなみにアメリカの外交官の多くは、このスタインハート大使にせよ駐日大使グルーにせよ親日的な「強い日本」派でした。
「日米が相争えばアジアが赤化する」
これがスタインハートとグルーの共通認識です。洋右にしてみれば、ふたりのアメリカ大使の親日的言動に接することで対米交渉に希望を見出していたのです。スタインハートとグルーは、日本との協調を本国政府に提言し続けました。アジアで唯一の安定勢力である日本を支援して極東情勢の安定を図り、共産勢力を排除する。この外交方針がルーズベルト大統領に採用されていたら、日米は戦争する必要がありませんでした。しかし、ふたりの大使からの献策をルーズベルト大統領はことごとく却下し続けました。
ルーズベルト家は、もともと支那とのアヘン貿易で巨万の富を築き、その資金力で政治家を輩出するようになった家柄です。したがって、ルーズベルト大統領は親支反日主義でした。しかも容共主義者でした。
(これが本当にアメリカ大統領だったのか)
と疑いたくなるほどに共産主義を許容し、社会主義的政策を推進しました。ルーズベルトは大統領に就任するや、ソビエト連邦を国家承認し、公共事業をばらまき、労働組合を多数設立させ、その組合員を民主党の支持票とし、なんと四選を果たします。その間、連邦議会の権限を巧妙に剥奪して大統領へ権力を集中させました。
「私は、あなたがたの子供たちを戦場には絶対に送りません。このことを繰り返し、繰り返し、繰り返し誓います」
選挙演説では熱烈に戦争反対を述べておきながら、当選してしまうと懸命に戦争を惹起させようと画策しました。チェンバレン英首相の対ドイツ宥和政策に圧力をかけて断念させ、ポーランドとフランスに軍事支援を約束して対ドイツ強硬姿勢をとらせました。こうしたルーズベルト大統領の欧州干渉政策が第二次世界大戦を勃発させたといってよいでしょう。さらに、ルーズベルト大統領はアメリカそのものを戦争の渦中に投ずるため日独を盛んに挑発しました。特に対日圧力を強め、日本を経済と外交の両面から圧迫しました。そして、最終的には最後通牒を突きつけて日本を窮鼠とし、開戦へと駆り立てていきます。ルーズベルト大統領は、対日政策や対日交渉の経過について連邦議会に報告せず、マスコミにも広報しませんでした。だから、連邦議会もアメリカ国民も日米間の緊張を知らずにいました。こうして真珠湾奇襲を卑怯な騙し討ちであるとアメリカ国民に思い込ませます。実に巧妙な世論操作です。
こうしたルーズベルト大統領の真相は、戦後数十年を経てようやく判明したことです。したがって、当時、洋右もスタインハート大使もグルー大使もルーズベルトの正体を知らずにいたのです。
「反響ヨロシイ」
シベリア鉄道上の洋右にスタインハート大使から届いた私信です。反響とは、アメリカ本国政府の反応のことです。洋右は対米交渉に大いなる希望を見出しました。
(よし、アメリカとの交渉が始まれば、まず支那事変を解決し、わし自身が渡米して日米の全面国交調整をなし、さらには日米協力して独英戦争を調停して見せよう)
洋右は昂揚しました。興奮すると気が短くなります。
(早々にもアメリカ政府から日本政府に何らかの打診があるやも知れぬ)
一刻も早く最新のアメリカ情報を知りたいと思った洋右は、外務省に向けて打電しました。
「ダレカ タトヘバ タシロノゴトキモノヲ ダイレンニ ハケンセラレタシ」
タシロとは、外務省の田代重徳参事官のことです。電報を受け取った大橋忠一次官は、洋右の指名どおり田代参事官を大連に派遣することにしました。しかし、大橋次官にも田代参事官にも洋右の意図が解りませんでした。
「大臣は何のご用件で私を呼ぶのでしょうか」
「それがよくわからぬ」
「田代君、何か心当たりはないか」
「さあ」
電報で確認すればよさそうなものですが、下手に問い合わせたりすれば、「そんなこともわからんのか、このバカ者」と松岡嵐に襲われます。そのため、大橋次官も田代参事官もあえて確認する危険を避けました。やむなく田代参事官は国内の政治状況を調べました。長らく日本を離れている松岡大臣に国内政局の近況を伝えようと思ったのです。近衛総理にも会い、「何かお伝えすることはありませんか」と尋ねましたが、「特にない」とのことでした。
田代参事官が東京を発ったのは四月十六日です。二日後の四月十八日、洋右の乗る列車はバイカル駅を通過しました。同日、ワシントンの野村吉三郎駐米大使から日米諒解案なる文書が外務省電信課に届きました。間の悪いことに、すでに田代参事官は東京を出発してしまっていました。
ワシントンにおいてハル国務長官が野村駐米大使に日米諒解案を手交したのは昭和十六年四月十六日です。その際、ハル長官は一芝居を打ちました。野村大使と旧知のルーズベルト大統領は、野村が外交の素人であることを知っており、それをハル国務長官に伝えていました。
「野村は外交を知らぬ。赤ん坊あつかいして翻弄してやれ。時間を稼ぐのだ」
ルーズベルトは旧友の野村を厚遇してくれるはずだ、と考えた日本側が甘かったわけです。ハル国務長官は大統領の指示どおり、野村の無知につけ込んでトラップを仕掛けました。
「現下のような険悪な状況下では日米のいずれかが主導権をとるのは不適当である。幸い、ここに民間の愛国者によって作成された試案がある。これを基礎として交渉を始めてはどうか」
ハル国務長官は野村大使に日米諒解案なる文書を示しつつ言いました。野村大使に異存はありません。
「よろしいでしょう」
うなずく野村にハルは言いました。
「では、なるべく早くこの試案に対する日本政府の正式意見を承りたい」
以上、何でもないような会話ですが、この一連のやりとりがハルの罠でした。日米諒解案が民間試案なのか、それともアメリカ政府案になっているのか、そこをハル長官はわざと曖昧にしました。野村大使にも落ち度がありました。外交官ならば、その確認を行うべきでした。日米諒解案なるものが民間試案に過ぎないのか、それともアメリカ政府の正式提案なのか、それをハル長官に尋ね、明確な言質をとるべきでした。その確認を怠った野村大使は素人の謗りを免れないでしょう。相手の善意を信じ切っていた野村大使は、日米諒解案なるものがアメリカ政府の正式提案であると馬鹿正直に信じてしまったのです。赤子の手をひねるように易々として一杯食わされました。
しかも、このとき野村大使を補佐し、忠告すべき外務官僚がいませんでした。野村大使の脇にいたのは岩畔豪雄大佐と井川忠雄でした。このふたりこそ日米諒解案の作成者です。さらに異常なことは、ハル国務長官と野村大使の会談は国務省ではなく、あるホテルの部屋でくりかえし行われていたのです。いかに秘密外交とはいえ、異常といってよいでしょう。野村大使は、会談のたびに、岩畔と井川に案内されてホテルの裏階段を上っていたのです。この異常さに陰謀の臭いを感じなかったとしたら、野村はあまりにも人が好すぎたと言うしかありません。
この段階では、日米諒解案なるものは民間人による試案に過ぎませんでした。それなのにハル長官は、あたかもそれがアメリカ政府の正式案であるかのように提示し、まんまと野村大使にそう思い込ませました。トリックとはいえ子供だましのようなものです。野村大使はコロリとだまされました。野村が外交の専門家であり、かつ英語に熟達していたら必ず再確認したに違いありません。あるいは日本の外交官が同行していたら必ず確認したでしょう。ですが、野村はそれらをすべて怠りました。通常であればありえないミスです。ハル国務長官の立場からすれば、野村ほど扱いやすい日本大使はいませんでした。
こうして野村大使は、単なる民間試案に過ぎぬ日米諒解案をアメリカ政府案として外務省に報告してしまいます。致命的な誤報です。このことが後に大混乱を招きます。
一方、松岡外交団は四月二十日に満洲入りしました。洋右は、日本向けラジオ放送と記者会見を行い、その後、ハイラル駅まで鉄道で移動し、そこから陸軍機で大連へ飛びました。大連の宿所は満鉄総裁邸です。大歓迎する満鉄関係者への挨拶もソコソコに、洋右は休みもせず仕事をつづけました。
その夜、大村卓一満鉄総裁主催の宴席が設けられました。もちろん主賓は外務大臣松岡洋右です。東京から派遣された田代重徳参事官もその宴席に顔を出しました。挨拶、乾杯、歓談と宴が進みます。
田代参事官は、機を見て合図し、廊下へと洋右を誘いました。田代は、メモしてきた国内の政治情勢を報告しはじめました。洋右はしばらく無言で聞いていましたが、突如、癇癪を爆発させます。洋右の悪い癖です。
「バカたれ!誰がそんなくだらん話しを聞きたいと言うた」
そう言い捨てると、洋右はスタスタと宴席に戻ってしまいました。要件を打電しなかったのは洋右です。その自分の過失に洋右はまったく気づいていません。唖然としたのは田代参事官です。そもそも大連に呼び出された理由も分からなければ、いま怒鳴られた意味も不明です。不愉快でした。やや遅れて宴席にもどった田代参事官は、しばらく手酌で呑んでいましたが、気分をかえるべく酒間を回りはじめました。すると永井八津次陸軍大佐に声をかけられました。
「おお田代君じゃないか、君は本省じゃなかったのか。なぜここにいる。何をしに来た」
「実は大臣がくだらんことをしゃべるから、注意しにやってきたのだ」
酒の勢いもあり、田代参事官はつい憎まれ口をたたきました。悪いことに洋右はすぐ隣にいました。
「田代、キサマ、何をぬかす」
すでに六十才を超えている洋右は白髪交じりのイガグリ頭で田代に突進します。田代も応じます。田代参事官は四十代の働き盛りで柔道五段の猛者です。ふたりの衝突を周囲が寄って集って引き離しました。洋右は、あまりに大人気ない。あるいは若々しいともいえます。ともかく当たるべからざる気概を漲らせていました。その気魄は、スターリンをして条約調印に踏み切らせもしましたが、外務省内に無用の波風を立てもします。
(田代には悪いことをした。つい怒鳴ってしもうて)
宴会後、洋右はひとりで頭を冷やしました。カッとなると自制が効きません。そのくせ後になって悔悟するのです。これが洋右の日常でした。しばらくすると電話がかかってきました。東京の近衛総理からです。
「アメリカから何か来ている」
何か、とはむろん日米諒解案のことです。洋右は驚喜します。
「総理、アメリカ政府の提案と言われましたな。わかりました。すぐ帰ります」
そういって洋右は受話器を置き、そばにいた加瀬秘書官に顔を向けました。
「君、つぎはアメリカに飛ぶぞ」
洋右は晴れ晴れとした顔になり、すっかり機嫌を直しました。
(スタインハートとの準備交渉が実を結んだのだ)
そのように早合点した洋右は、すっかり有頂天になり、随員を呼び集めて深更まで上機嫌で飲み、かつ語りました。
翌日は天候不良のため航空機が飛べませんでした。やむなく洋右は満鉄社員のために臨時の講演会を開いて時を過ごしました。その夜、日米諒解案なるものが外務省から大連に転電されてきました。
(なんじゃ、これは)
洋右は少なからず驚き、失望しました。あまりに意外な内容だったからです。モスクワでスタインハート大使と話し合った支那事変解決に関する日米間の具体的な合意事項はまったく盛り込まれておらず、実に大味な包括的内容です。
翌四月二十二日は晴天となりました。洋右は、秘書官の加瀬俊一とともに周水子飛行場に向かいました。
「なんとか田代を乗せてやれんか。機長に掛け合ってみよ」
洋右は加瀬に命じます。加瀬秘書官は機長に頼んでみましたが、空席がありません。午前八時四十五分、洋右の乗る飛行機は離陸しました。
立川飛行場に着陸したのは午後二時過ぎです。これを出迎えたのは近衛文麿総理、富田健治内閣書記官長、大橋忠一外務次官などです。洋右を出迎えた近衛総理は握手しながらつぶやきました。
「直ちに協議したい」
日米諒解案のことだと察した洋右は、帰朝第一声の挨拶を短くすませました。一同は自動車に分乗して総理官邸へと向かいました。洋右は大橋忠一次官と同乗しました。車列を取り巻くように、日の丸の小旗を振る群衆が沿道に堵列しています。
「バンザーイ」
「松岡さーん」
電撃的に日ソ中立条約を成立させた洋右は国民的英雄です。洋右は手を振って応えました。やがて群衆が途切れると、大橋次官が切り出しました。
「大臣、日ソ中立条約の成立、まことに見事なお手並みで、近衛総理も非常に喜んでおられます。しかし、四国軍事同盟にはできませんでしたか」
大橋次官は熱心な四国同盟論者でしたから、その点を大臣に質してみたのです。
「そんなことを言ったって、とても独ソの空気が悪くて四国軍事同盟なんて話しにもならん」
洋右にしてみれば最善の努力の結果が日ソ中立条約だったのです。
「そんなことより、オイ、日米諒解案、あれは何だ」
洋右が話題を変えました。
「はい、これはワシントンでハル国務長官が野村大使に手交したものです。日本には十八日に届きました。その内容はご承知のとおり、何と申しますか、読みようによってはとても良いのです。支那については領土保全と日本軍の撤退と蒋介石政府の承認を要求しています。もし日本がそれを呑むなら、アメリカは日独伊三国条約を認め、満洲国を承認し、石油や鉄などの資源を日本に供給し、通商航海条約を旧に復し、日本の経済開発のために資金援助をし、さらに日本人移民を好意的に受け容れるとさえ言っているのです。そして、五月にホノルルで日米首脳会談を開こうと提案しています。あまりにうますぎる話です」
日米諒解案の内容については洋右もすでに大連で読んで知っています。まるでバラ色の日米関係が実現するかのような内容です。このような妥協ができるなら、そもそもアメリカが実施している対日経済封鎖は何なのか、なぜアメリカは今まで交渉を拒絶してきたのか、言行不一致の甚だしいものでした。大橋次官は続けます。
「この日米諒解案はハル国務長官から手交されたものですが、同案の作成にはウォルシュ司教、ドラウト神父、元大蔵省の井川忠雄、陸軍の岩畔豪雄などが関わっているようです」
「岩畔?岩畔といえば、日独伊三国条約を早くやれと触れ回って騒いでいた男だ。それが今度は日米交渉か。やかましい男だな。ウォルシュとドラウトには会ったことがある。口では平和、平和と言うておったが、信用はでけんぞ。井川というのも何かと悪評のある男じゃろう」
洋右は苦い顔をしました。四名が四名とも正規の外交筋からは遠く離れた面々です。この洋右の直観は結果的に正しいものでした。のちのことになりますが、ウォルシュは中国で逮捕されます。反中国活動の容疑でした。昭和三十三年に逮捕され、昭和四十五年に釈放されましたが、新華社はウォルシュをアメリカ諜報員と報じました。
洋右は、日米諒解案関係者の筋の悪さに失望し、怒気を発します。もう慣れている大橋次官はいちいち驚かず、報告を続けました。
「外務省内は乗り気です。アメリカ局長が『原則的に賛成』の回訓案を作って決裁を求めてきましたが、これは私が差し止めました。しかし、政府も統帥部も日米諒解案に大賛成です。日ソ中立条約成立で大喜びしていたところに日米諒解案が届いたものですから、誰もが大臣の外交が大成功したのだと思い込み、前のめりになっています。しかし、支那派遣軍の撤退となれば陸軍は大騒動になるはずなのですが、奇妙なことに陸軍までが賛成しています」
陸軍の態度は確かに矛盾してみえました。聖戦貫徹が陸軍の方針のはずでした。が、日米諒解案の作成に関与した岩畔豪雄大佐は軍務局長武藤章少将の指示で動いているはずです。とすれば、陸軍の態度に矛盾はありません。
(陸軍は、本音では支那事変をやめたがっているのかも知れぬ)
そんなことを洋右は考えました。陸軍が支那からの撤退に同意するなら、それを土産にしてアメリカと交渉する余地が生まれます。大橋次官の報告は続きます。
「近衛総理も積極的です。さっそくワシントンに機密費三万ドルを送金し、野村大使に対して『主義上、賛成す』の回訓電を発しようとなさいました。ですが、私がお止めしました。それはあまりに早計ですから松岡大臣の帰朝をお待ち下さい、と申し上げておきました。そのとき大臣はバイカルあたりにおられたはずです」
日米諒解案を一読した大橋次官は、あまりにも総花的な内容に疑念を抱いたのです。外交官としての勘といってよいでしょう。それに加え、独断で回訓してしまうと、あとで「松岡嵐」に襲われることもわかりきっていました。洋右の訪欧中、近衛総理が外相を兼任していましたから、近衛総理には回訓電を発する権限がありました。しかし、大橋次官の忠告を聞き、近衛総理も思いとどまりました。近衛も「松岡嵐」を恐れたのかもしれません。
小一時間ほどかけて大橋次官は一部始終を報告しました。その報告と判断に洋右は満足しました。しかし、洋右はいちいち誉めたりしません。同意や賛成のときには無言で応じるのが洋右の癖です。
(また仕事が増えよるなあ)
と洋右は思いました。なんとも総花的で怪しげな内容ではあるものの、とにもかくにもアメリカ政府から日米諒解案なるものが届いたのです。念願だった日米の交渉がやっと始まるのです。松岡外交は成功しつつあるのです。この日米諒解案を詳しく検討し、分析し、対策を練り、日米交渉を進捗させねばなりません。そして、この日米諒解案を逆利用して日本側に有利な交渉へとアメリカを誘導せねばなりません。
自動車が都心に近づくと、洋右は運転手に命じて皇居前で止めさせ、二重橋を拝遙し、その後、総理官邸へと向かいました。総理大臣への帰朝挨拶、宮中での上奏、そして大本営政府連絡会議となりました。
「直ちに同意の回訓を」
近衛総理以下の多数意見は、日米諒解案に基づく対米交渉の即時開始です。これに対して洋右は、日米諒解案への賛否を明らかにしませんでした。なにしろ一ヶ月にわたる訪欧から帰ったばかりなのです。しかも日ソ中立条約という大仕事を達成したばかりです。山のような残務も片づけねばなりません。帰国した途端に日米諒解案なる文書を見せられ、ろくに検討もせぬまま黙って賛成したら、そのほうが外務大臣として無責任です。通常の責任感があれば、誰でも洋右のように発言するでしょう。
「日米諒解案を一見したところ自分の考えとはだいぶ違うゆえ、慎重に考える要ありと思考する。回訓の是非を判断するまでに二週間、さらに二ヶ月ほどの熟考期間を与えられたし」
そう言うと、洋右は退出してしまいました。ただでさえ自信家の洋右は自負心にあふれ、尊大になっていました。また、疲れてもいました。近衛総理以下の閣僚と統帥部は、この洋右の態度に不満を感じました。ですが、主務大臣の洋右が帰ってしまった以上どうしようもありません。
長い訪欧の旅で洋右は疲れていました。しかしながら、洋右は、この場を借りてひと踏ん張りすべきだったでしょう。外交の素人たちに外交のなんたるかを言葉を尽くして説明すべきでした。なにしろ政府と統帥部が前のめりになったのも無理はないのです。日独伊三国条約に日ソ中立条約が加わり、松岡外交が進捗した直後に、実にタイミング良くアメリカ政府から好意的な内容の日米諒解案が届いたのです。だれもが成功したと思います。洋右でさえ、そう思ったのです。
「この調子で一気に日米和解を」
というのが政府および統帥部の気分です。それなのに主役たる外務大臣が躊躇しています。その理由が外交の素人たちにはよく解りませんでした。素人たちは日米諒解案を深く吟味することもなく、半知半解のまま何となく賛成していました。そこを洋右がわかりやすく説明しておけば、一定の理解と納得が得られたでしょう。しかし、洋右はその一手間を省略して席を立ってしまいました。自信家の洋右には、政治的な配慮がありません。さらに、身内に対する気安さもありました。近衛総理以下の閣僚は、洋右の能力を認めつつも、そのスタンドプレイに強い不満を抱きました。




