欧露へ
昭和十五年九月二十七日、日独伊三国条約が締結されました。調印式はベルリンで行われ、特命全権大使の来栖三郎が署名しました。第二次近衛内閣成立からわずか二ヶ月、松岡洋右の早業です。
洋右は、十月五日、駐日アメリカ大使グルーに「三国条約に関する合衆国への声明」を手交し、二時間以上にわたって会談しました。洋右がベラベラと流暢な英語でまくし立てるのをグルー大使は注意深く聞き、ときに強い口調で洋右の弁論を阻み、鋭く反論しました。洋右が言います。
「三国条約は、特定の一国を目標にしたものではありません。共産主義という無秩序が世界に伝播するのを抑止するためのものであり、世界平和への貢献が目標なのです」
グルー大使は納得しません。
「ワシントンはそう考えていません。それに、目標はアメリカであると大橋忠一次官が述べたとの情報を私は得ています」
洋右が反論します。
「日米間の対立は満洲国と蒋介石を巡る問題です。アメリカが満洲国を承認し、蒋介石への援助をやめて下されば、支那事変はすみやかに収束に至るでしょう。アメリカ政府はしきりに門戸開放せよとおっしゃるが、日本と満洲の門戸は開かれています。対日経済制裁で門戸を閉ざしているのはむしろアメリカではありませんか。アメリカこそ門戸を開放してください。支那では支那事変が続いているのです。日本人の居留民でさえ引き揚げているというのに、そんな危険な場所にアメリ国民を行かせるのですか。今しばらくお待ち下さいと日本政府は申し上げている。戦乱が収まれば支那市場の門戸は必然的に開放されることになる。支那は混沌の大地です。条約も国際法も国内法すら遵守されない土地なのです。門戸開放を急ぐなら、蒋介石への援助を止めていただきたい」
「アメリカ政府は九ヶ国条約の遵守を日本政府に求めているだけです」
「九ヶ国条約の遵守を、日本政府に対しては、お求めになる。しかし、蒋介石政権には求めない。それは何故ですか。アメリカ政府の要求は理解しています。しかし、同意はできません。そもそもアングロ・サクソン国家というものは常に独善的であり、相手の情状を酌量するという度量がありません。自分たちのやることは何でも正しいと信じ込み、平気で非妥協的な態度をおとりになる。これでは日本経済は立つ瀬が無い」
「日本経済が難問を抱えていることをアメリカ政府は理解している。ただ、ハル国務長官が繰り返し述べているのは、秩序ある法的手段によって問題解決が図られるべきだということです」
「それができないようにしているのはアメリカ政府です。蒋介石への援助をやめてください。そして、対日輸出禁止措置を直ちに中止して下さい。日本経済が憂慮すべき事態に陥ることはないにせよ、国民感情を著しく刺激します。日本とアメリカとの間に戦争が起こるなど、考えただけでも私は身震いがするのです」
会談は率直な意見交換の場となりはしましたが、議論は平行線です。
(これでよい)
と洋右は思います。余計な譲歩をせず、毅然たる態度で交渉をつづけていればよいのです。つまり、日独伊三国条約ではまだ不充分だということです。アメリカと対等な交渉を開始するためには解決すべき課題がまだ残っているのです。
松岡洋右外相の指揮の下、外務省は対蘭印交渉、対ソ交渉、対支交渉などの諸懸案に取り組んでいます。対蘭印交渉では小林一三商工大臣が特使に任命され、九月から蘭印総督との交渉に入っています。しかし、蘭印側には熱意がなく、交渉は難航しています。対ソ交渉は、東京とモスクワで同時進行しています。東京では洋右が駐日ソ連大使スメタニンと会談し、モスクワでは駐ソ大使建川美次中将がモロトフ外相と折衝しています。が、進展はありません。対支交渉に関しては、銭永銘を仲介者とする対重慶工作が十月から始まっていました。
十一月に入ると、ソ連政府が反応を示しました。日ソ不可侵条約に関する日本側提案に対し、ソ連は日ソ中立条約を提案してきたのです。ソ連は、ドイツとの間でも交渉を進めていました。ヒトラー総統、リッベントロップ独外相、モロトフ露外相の三者がベルリンで会談し、日独伊ソの四国協商について論議しました。この会談後、スターリンは条件付きで四国協商に参加する用意があるとの回答をドイツ政府に送付しました。ですが、ヒトラー総統はこれに対して何らの返答を出しませんでした。
松岡外交の最初のつまずきは、蒋介石に対する和平工作の失敗です。洋右は支那事変を収束させるため、蒋介石政権との和平交渉、つまり銭永銘工作を部下に進めさせていました。ですが、陸軍がこれを妨害しました。
陸軍は、汪兆銘政権との国交樹立を焦っていました。しかし、汪兆銘がなかなか諾と言いませんでした。なぜなら外務省と蒋介石が交渉を継続しているとの情報を入手したからです。洋右の進める銭永銘工作が汪兆銘を疑心暗鬼にしていたのです。そのため陸軍は松岡外交に介入してきました。洋右に引導を渡すべく陸軍は児玉誉士夫を東京へ派遣します。
児玉誉士夫は、かつて北一輝に師事した活動家です。児玉は上海で汪兆銘の身辺警護を担当していましたが、「上京せよ」との密命を受けて帰国しました。陸軍は児玉に銭永銘工作の秘密電文の写しを持たせました。陸軍は外務省の電報を傍受し、その内容を把握していたのです。
「銭永銘工作を中止しなければ交渉経緯を世間に暴露する。そのように陸軍は言っています」
児玉の言い分を洋右は黙って聞きました。この場合、動かぬ証拠を握っている陸軍に分があります。日本政府はすでに第一次近衛内閣が「蒋介石を対手とせず」との声明を出していました。この経緯からして、蒋介石との秘密外交が暴露されれば非難に曝されるのは洋右です。洋右は苦虫をかみつぶしたような面持ちで児玉の魁偉な容貌をにらみつけました。小一時間ほどの会談は、洋右の一言で終わりました。
「よし、わかった。ありがとう。陸軍がそれまで言うなら自分の力には限度がある。しかし、ここで汪兆銘政権にこだわれば、もう二度と蒋介石は手を握ろうとせぬ。ここで糸を切れば、泥沼に落ちるぞ」
そう言って洋右は銭永銘工作の打ち切りを決めました。この直後の十一月三十日、汪兆銘政権と日本政府との間に日華基本条約が結ばれました。後に判明したことですが、汪兆銘政権との国交樹立を主張したのはコミンテルンのスパイたる尾崎秀実でした。日本政府と蒋介石政権との対立を恒常化させるのが目的でした。陸軍は、まんまとコミンテルンの謀略にはめられたのです。
終戦後のことになりますが、洋右と児玉誉士夫は巣鴨刑務所で再会します。洋右は児玉に「そーれ、こんなことになってしまっただろう」と言いました。
松岡外交の目的は対米国交調整ですが、アメリカとの交渉はまだ始まってさえいません。アメリカ政府が交渉を突っぱねているからです。駐米大使の堀内謙介は、ワシントンに赴任した昭和十三年以来、再三再四、ハル国務長官に面談して交渉開始を申し入れてきました。しかし、その都度、無視したのはハル国務長官です。そんな堀内大使に帰国命令を出したのは洋右です。いわゆる松岡人事の一環でした。
堀内大使に対する帰国命令は八月に出ました。困ったことに新任の駐米大使がなかなか決まりません。洋右には意中の人物がいたのですが、その当人の同意を得られませんでした。ようやく駐米大使に野村吉三郎海軍大将が任命されたのは十一月八日です。
野村を推薦したのは大橋忠一次官でした。野村とルーズベルト大統領とは学友です。この点を大橋次官は買いました。個人間の友情が国家間の外交に役立つと考えたわけです。このあたり、日本外交の甘さというしかありません。国益の前では友情など鼻くそでしかないのです。
「野村の吉、か」
洋右は、野村とは旧知であり、その人柄を知っています。さほど乗り気ではありませんでしたが、断る理由もありません。最終的には洋右自身がワシントンへ乗り込み、大統領と直談判するつもりでしたから、極論すれば、駐米大使など露払い程度にしか考えておらず、誰でもよかったのです。洋右は大橋次官の提案を受け容れ、この人事案を承認しました。ところが野村吉三郎の方が何度も固辞しました。
「自分には自信がない」
野村は容易に承諾しませんでした。それには理由がありました。野村は阿部信行内閣の外相を務めましたが、その際に大きな失敗をしていたのです。閣議に提出された「貿易省の設置に関する件」に不用意に賛成してしまったのです。これが外務官僚の大反発を招き、問題化しました。貿易省が新設されれば外務省の通商部門がごっそり移管されることになります。省益を守るのは官僚の本能です。貿易省設置に抗議するため、外務官僚百十三名が辞職を申し出る事態となりました。このため阿部内閣は閣議決定を撤回するという大失態を演じました。ほんの一年前のことです。そんな苦い経緯があったため、野村吉三郎は外務省での仕事に自信を持てなかったのです。
しかしながら様々な要人から口説かれ、洋右から説得され、さらに伏見宮博恭王から説き伏せられるにおよび、ついに野村は腰を上げることにしました。海軍大将にまで昇った野村ではありますが、英語は必ずしも得意でなく、外交の素人でもあります。ただ、ルーズベルト大統領の旧友であることだけが拠り所でした。
野村吉三郎の駐米大使起用は、結果として数々の失態をもたらすことになります。戦後のことですが、大橋忠一は野村の大使起用を悔やみ、次のように語りました。
「野村は日本の代表というよりは日本海軍の代表だとアメリカは受け取った。その野村が平和外交だと三つ指をついて、まったくの低姿勢ではどうにもならぬ。日本政府はアメリカに対しては毅然たる態度をとることを建前としておったのだから、出先はよりいっそう毅然たる態度を堅持せねばならなかった。それが野村にはわからなかったのだ」
野村吉三郎はワシントン大使館に赴任しました。が、貿易省騒動の記憶がまだ生々しかったため、ワシントン大使館の外務官僚は必ずしも新大使を歓迎しませんでした。野村大使の方も外務官僚の反発を感じ、気安く部下を頼りにすることができず、むしろ部外者の岩畔豪雄陸軍大佐や井川忠雄(元大蔵省)をあてにするようになりました。こうした諸事情が素人丸出しの拙劣な外交を現出させる遠因となります。
駐米大使に野村吉三郎が就任した翌月、アメリカ政府は対日輸出禁止品目に銑鉄と鉄合金を加えました。すでに対日禁輸対象品目は航空機、航空機用エンジン、航空機整備品、モリブデン、アルミニウム、航空燃料生産装置、航空燃料、くず鉄と増えていましたが、さらなる圧迫が加わったのです。昭和十六年正月、アメリカはさらにコバルト、ストロンチウム、工業用ダイヤモンドを禁輸品目に追加しました。日本政府としても洋右としても、一刻も早く対米交渉を開始したいところです。しかし、アメリカ側の交渉の門戸は固く閉ざされていました。アメリカ政府にしてみれば、日本は小国です。その国力はアメリカの二十分の一でしかありません。このまま日本を経済的に圧迫し、疲弊させ、抵抗不可能な状況にまで追い落とせばよいのです。そこではじめて交渉を開始し、日本をこちらの言いなりにさせる。言いなりにならないなら、戦争してもよい。それがアメリカの外交姿勢でした。
英首相チャーチルと蒋介石は盛んに早期参戦をアメリカに促しています。ルーズベルト大統領は英支両国の要請を受け容れてはいましたが、アメリカ国民を説得するに足る参戦の口実を必要としていました。それさえあればアメリカは参戦できるのです。
これとは反対に、徹頭徹尾、日米戦争を予防しようと腐心していたのが日本政府であり、洋右でした。
(対米交渉を開始するにはまだ早い。前提条件が整っていないのじゃ。このままではアメリカは交渉の門戸を開かぬ)
その前提条件とは、日独伊ソによるユーラシア四国協商体制の構築です。この前提条件が整ってはじめてアメリカは日本を見直し、対日交渉の必要性を感じるでしょう。
(それまでは隠忍自重してアメリカを刺激しないようにする)
そう考えていた洋右が陸軍の責任者を大喝したのは昭和十六年一月三十日の大本営政府連絡会議においてです。この日の議題は、タイ王国と仏印との国境紛争問題でした。タイは、かつてインドシナ半島の大国でしたが、ベトナムを植民地にしたフランスに圧迫され、広大な領土を割譲させられていました。割譲された範囲は、今日のラオスとカンボジアに相当します。
欧州で第二次大戦が始まると情勢が変わります。フランス本国がドイツに占領され、さらに仏印北部に日本軍が進出してきました。タイ政府は、仏印政府の弱体化を見てとると、かつて割譲させられた領土のうちメコン川右岸地域などを返還するよう仏印に要求を突きつけました。
欧米列強に比べればタイは憐れなほどの小国です。インド及びビルマを支配する大英帝国と、ベトナムを支配するフランスとの緩衝国としてかろうじて独立を許されていたに過ぎません。そんな悲劇的な状況下にあっても、タイ政府は官僚機構を近代化させ、鉄道網を整備して生き残りを計っていました。小国ながらも大国同士を相互に牽制させ、領土を半ばまで失いながら巧妙な外交的駆け引きで国家の独立を保っていました。
そのタイ政府は、仏印の弱体化を見すかすと、すかさず領土の返還を仏印政府に要求しました。仏印はこれを拒絶しました。このためタイ軍と仏印軍の間に武力紛争が生じました。陸戦ではタイ軍が勝ち、海戦では仏印軍が勝ちました。
この両国に日本政府が調停を申し入れたところ、タイと仏印が受諾しました。一月二十九日から東京で両国の停戦交渉が始まりました。洋右はタイ側の要求を仏印に呑ませようとしましたが、仏印は容易に承諾しません。これに業を煮やした陸軍が武力で仏印を威圧しようとしたのです。これが洋右の癇癪を破裂させました。
「仏印とタイの紛争はぜひ平和的に解決したい。それがわしの念願なのだ。武力を用いたりするなんて、そんな馬鹿なことはしたくない。貴公らはたいそう我々を微温的だと責めよるが、陸軍はどうだ。支那事変が始まった頃に何と申した。二、三ヶ月で片付けると申されたはずだ。それがどうだ。あれから三年半もかかりよって、まだ解決せんが、これはどうしたことかっ!」
洋右が怒鳴りつけたのは杉山元参謀総長と東條英機陸相です。洋右がいかに武力発動に慎重だったかが分かります。陸軍内では「カミソリ」と恐れられている東條陸相も、洋右の舌鋒の前では下を向くのみで一言も反論できません。この「松岡嵐」の後、タイと仏印は東京条約に調印し、紛争は外交的に解決されました。
松岡外交は、電撃的な日独伊三国条約締結ののち停滞しました。日ソ交渉が一向に進展せず、日独伊ソ四国協商成立の見込みが立ちません。ソ連は、日本からの不可侵条約の提案に容易には応じませんでしたが、まったくの無関心でもない様子です。洋右はドイツの仲介に期待しました。独ソ間にはすでに不可侵条約があります。しかし、独ソの交渉も進捗しませんでした。
そのころソビエト軍はフィンランドとの戦争に大苦戦していました。その様子を見たヒトラー総統は、ソ連軍に対する評価を下げていました。そして、ソ連軍のバルカン半島進出に神経を尖らせ、抗議の姿勢を強めていました。対するスターリンも、ドイツ軍がフィンランド国内に駐留したことを脅威と受け取り、態度を硬化させていたのです。
(このまま静観していては日米交渉の開始にたどり着けない)
洋右は勝負に出ることにしました。日ソ交渉に決着をつけるべく、ソ連、ドイツ、イタリア歴訪の外交日程を立案し、政府と統帥部の承諾を得ました。表面上は独伊両国への表敬訪問ですが、真の狙いはソ連との交渉です。
「うまくいきそうもない昨今の雲行きに鑑み、僕自身で欧州の実情を視察し、調整に幾分でも望みがあるとみたら、直接にヒトラーやスターリンと話し合い、問題を一日も早く解決する。もし調整が不可能で、三国条約がアメリカの参戦防止に役立たないとみたら、外交政策の修正を考えねばならない」
そのように大橋次官に言い残し、洋右は東京を発ちました。松岡外交団は、昭和十六年三月十三日に伊勢神宮を参拝し、十五日に大阪から飛行機に乗りました。釜山、新京、満洲里と航空機で飛び、満洲里から列車に乗りました。往路、モスクワには二日間滞在し、スターリン書記長やモロトフ外相と会見しました。そのほか駐ソ米大使スタインハートにも接触しました。
ベルリンに入ったのは二十六日です。洋右は五日間滞在し、ヒトラー総統やリッベントロップ外相との会談に臨み、午餐会、晩餐会、茶会、歓迎会、演説会、記者会見などのスケジュールをこなしました。
ドイツ政府の歓迎ぶりは実に盛大です。ヒトラーの狙いは、スターリンに対する目眩ましだったようです。ヒトラーは、すでにバルバロッサ作戦(ソ連奇襲攻撃作戦)を下命していましたが、洋右とスターリンにこれを察知させないよう万全の配慮をしていました。
「松岡外相にバルバロッサ作戦を覚られてはならぬ」
ヒトラーの秘密訓令は三月五日に出されていました。条約国の思惑を容赦なく踏みにじり、条約国からの招待客を政治利用する。その非道ぶりはまさに独裁者の行為であり、洋右は騾馬のように扱われたことになります。とはいえ洋右の方も内心では「ドイツとの条約は一時の道行きに過ぎぬ」と考えていたわけですから、狐と狸の化かし合いでした。
三月三十一日から四月二日まではローマに滞在しました。洋右はムッソリーニ総統やチアノ外相と会談し、イタリア皇帝やローマ教皇に拝謁しました。そして、四月四日から翌日までは再びベルリンに滞在し、ヒトラー総統、リッベントロップ外相と再会談したほか、石炭液化工場などを視察しました。この独伊訪問は、外見こそ華やかでしたが、洋右にとってはむしろ苦い時間でした。
「四国協商構想の実現可能性は極めて低い」
ヒトラー総統とリッベントロップ外相は繰り返し述べました。駐独大使の大島浩中将も四国協商構想に否定的な見解を洋右に具申しました。
「日独伊ソ四国協商は無理です。それどころか独ソ開戦の可能性が高いのです。大臣、日ソ中立条約などやめるべきです。独ソ開戦となれば日本軍は北進し、ドイツとともにソ連を挟撃せねばなりません」
大島浩大使は陸軍出身だけに軍人的発想をしました。しかし、洋右にとって戦争は慮外です。あくまで外交にこだわる洋右は、日ソ中立条約をあきらめるわけにはいきません。日独伊三国条約に日ソ中立条約を加えてこそ、日本に対米交渉力が生まれてきます。日米交渉開始のためには、どうしてもこれをやらねばなりません。
(独ソが戦争をおっぱじめよったら四国協商構想は終わりじゃ。日米交渉は始まりもせぬ。外交は一からやり直しじゃ。しかし、今すぐにいくさが始まるわけでもない。まだ間に合う)
洋右は思い切ります。独ソ間の暗雲には目をつぶり、松岡外交の既定方針を堅持することにしました。
独伊での日程を終えた松岡外交団は帰途につきます。四月六日、洋右ら一行をのせた特別列車が独ソ国境のマルキニア駅に停車しました。車窓外ではドイツ軍の儀仗兵が列立し、日本外交団を送別するため栄誉礼を行っています。このマルキニアはもともとポーランドでした。それが今や独ソの国境駅となっています。ポーランドという国家そのものが消滅したのです。情け容赦のない帝国主義の現実に洋右は感慨を新たにせざるを得ませんでした。この日、ラジオ放送はドイツ軍のユーゴ進撃を伝えていました。それを聞きつつ儀仗兵に目礼を送っていた洋右は、加瀬俊一秘書官を顧みて言いました。
「君、日ソ中立条約はできたよ」
このあたりが外交家の外交家たる所以でしょう。ドイツ軍がユーゴに進攻すると、なぜ日ソ中立条約ができるのか。その謎解きはスラブ民族の習性にあります。ロシアは歴史的に同時多方面作戦をやりません。ロシアには、極東、中央アジア、欧州という三正面があります。極東で緊張が高まれば、中央アジアや欧州では動かない。中央アジアで戦争が始まれば、極東と欧州は平和になります。この習性を知っていれば、洋右のつぶやきの意味がわかるでしょう。バルカン半島のユーゴに緊張が生じたとなれば、ソ連は極東方面の紛争を避けようとするにちがいないのです。
洋右は希望を抱きます。松岡外交団が再びモスクワ入りしたのは四月七日でした。この日から十一日まで洋右は各種の歓迎式典に臨みつつ、頻繁にモロトフ外相と会談しました。しかし、交渉は難航しました。洋右が日ソ不可侵条約を提案したのに対し、モロトフ外相は日ソ中立条約を提案してきました。洋右がこれに同意すると、モロトフ外相は北樺太の石油採掘権を放棄する議定書に調印せよと洋右に迫ってきました。洋右は拒絶せざるを得ません。この北樺太利権は、かつて尼港事件で多くの犠牲者を出した日本に対するソ連からの補償です。これを洋右の独断で即時放棄するのは無理でした。モロトフ外相の強硬姿勢に直面し、さすがの洋右も半ば日ソ交渉をあきらめました。
(外交はやり直しじゃ。しかし、どう建て直す。こうなると強気一辺倒の外交はできぬ。何らかの譲歩をせざるを得ぬ。満洲は譲れぬが、支那からの撤兵を条件にしてアメリカと駆け引きするほかはない。だが陸軍は納得するだろうか)
松岡外交をいかにして修正するか、それを考えていた四月十二日の午後、スターリンから電話連絡が入りました。
「クレムリンへ来るように」
スターリンと洋右の会見は午後五時から始まりました。冒頭、洋右は述べます。
「電撃外交のかたちで日ソ中立条約を調印しようと思ったが、これに成功しなかったのは残念である。しかし、ソビエト指導部の人々と個人的に知り合いになれたことは将来の日ソ関係の発展に役立つと思う」
洋右は、外交辞令からはじめ、日ソ間の将来展望へと話題を展開させ、日ソ両国が友好してともに繁栄する壮大な極東の未来像をスターリンに聴かせました。そうしておいて、現実的問題に話題を急展開させます。
「スターリン書記長、樺太のような細かい問題にこだわったりせず、世界やアジア全体を考えるところから解決を図るべきではありませんか」
これにスターリンは応じました。
「よろしい。議定書のかわりに松岡書簡を認めよう」
松岡書簡には、北樺太の石油採掘権放棄を数ヶ月のあいだに実施すると書かれています。放棄は放棄でも、数ヶ月の猶予があります。数ヶ月あれば政府要人を説得し、国民に説明することもできます。モロトフ外相が即時放棄を迫ってきたのに比べれば、幾分の条件緩和です。外交的な交渉というものは実に芸が細かいものです。
「よろしいでしょう」
日ソ交渉は急転し、十三日午後、日ソ中立条約の調印式がクレムリンで行われました。まさに電撃的な条約成立です。その日の夜、スターリンに見送られて洋右はあわただしくモスクワを発ちました。日ソ中立条約成立の報は直ちに日本政府に伝えられ、政府要人を安堵させました。
「これでやっと安心した。昨夜は心配で眠れなかった。松岡という人は有能の人だ」
こう述べたのは近衛文麿総理です。日独伊三国条約に賛成しながらも、その運用を心配していた枢密院顧問の石井菊次郎は、日ソ中立条約の成立を聞き、洋右を称賛しました。
「この条約はビスマルクの二重保障条約に比すべきものだ。自分は、三国条約は片輪だと思っていたがソ連との間にこの条約が結ばれて、はじめて完成されたことになる。このラインで、今後、日英、日米の外交政策を上手にやっていけば双方の条約がいずれも生きるだろう」
松岡外交は成功したかに見えました。




