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日独伊三国条約

 第一次近衛内閣の後、平沼、阿部、米内の三内閣は何らの成果をあげることなく短命で終わり、昭和十五年七月二十二日、第二次近衛内閣が成立しました。

 外務大臣は松岡洋右です。洋右が入閣するのは初めてのことです。特使と全権代表の経験はありましたが、大臣どころか次官も局長も経験していません。それでもまったく気後れすることなく洋右は外務大臣をひきうけました。一年数ヶ月をかけて考えに考え、練りに練り上げてきた外交政策と漫々たる抱負を胸に抱き、洋右は外務省に登庁し、訓示しました。

「世界未曾有の危局がクライマックスに達しつつあるこの際、一致結束し、真っ黒になって対処せよ」

 洋右の外交方針はおおむね次のようでした。最終目標は日米の和解です。しかし、すでにアメリカは対日経済制裁を開始しており、日本政府が交渉を呼びかけても全く応じようとしません。また、日米両国の海軍は軍拡競争に突入しています。この緊張を調整し、戦争を回避するのは簡単ではありません。平沼、阿部、米内の三内閣は幾度も日米交渉の開始をアメリカ政府に要請したのですが、そのたびにルーズベルト大統領に拒絶されました。そんなアメリカに対して平身低頭しても無駄です。

(アメリカ人を相手に頭を下げれば、次には拳骨が飛んでくる。だから譲れない)

 とはいえ日本単独では国力十倍のアメリカに敵すべくもなく、アメリカは日本を歯牙にもかけないでしょう。これが現状です。この状況を打開するためには、対米交渉を開始するための条件整備が必要になります。その条件整備こそが松岡外交でした。具体的には日本の国際的立場を強化して外交的発言力を向上させるのです。日本が強国と同盟を締結し、アメリカに匹敵するような集団的国力を構築すれば、アメリカは日本を無視できなくなります。それでこそアメリカを交渉場裡に引っ張り出すことができるのです。

 問題は、その同盟相手でした。すでに欧州ではフランスがドイツの軍門に降っています。親米主義者の英首相チャーチルはアメリカの顔色をうかがっており、日本には接近したがりません。

(日英同盟があればのう)

 洋右は慨嘆しました。日露戦争の勝利に貢献した日英同盟は、すでにワシントン条約によって廃棄されています。英国側から再同盟を促す働きかけが幾度かあったものの、それらをことごとく拒否したのは日本政府でした。

 結果的に日本が接近しうる列国はドイツ、イタリア、ソ連しかありません。ドイツ軍は破竹の進撃を続けており、欧州を席捲する勢いです。洋右は、まず日独伊三国条約を結び、これにソ連を加えてユーラシア四国協商体制を築こうと考えました。そこまでやってはじめてアメリカと対等に交渉する可能性が芽生えてくるのです。

 ちなみに、日独伊ソによる四国協商構想は必ずしも洋右独自の構想ではありません。もともと後藤新平が案出し、その可能性を模索したものでした。大正八年、欧米を視察した後藤新平はアメリカの巨大な工業力と軍国主義に脅威を感じました。

「吾輩はこんど欧米を漫遊してデモクラシーはミリタリズムの隣にあることを発見した」

 こう喝破した後藤新平は、やがてアメリカが強大化して覇権国家になることを予想し、その際、どのようにしてアメリカと対抗すべきかを考えました。後藤新平の結論は、ユーラシア大陸における日独伊ソの連合です。この連合構想を具体化すべく、後藤新平は日ソの国交回復を模索し、ソビエト連邦の要人と接触するなどしました。これが松岡外交のひな形であったようです。

 一方、ドイツにもユーラシア連合構想がありました。ドイツ外相のリッベントロップは反英主義者であり、ユーラシア大陸に四国協商を構築して英国を孤立させようと図っていました。このリッベントロップの構想にヒトラー総統が一時的に同意しました。このため三国条約成立の機運が高まりました。

 結果を書いてしまえば、ヒトラーは親英反ソ主義者でしたから、リッベントロップ外相の構想をやがて捨て去ります。ヒトラーの気まぐれな独裁に、スターリンも洋右もリッベントロップ外相も翻弄されるのです。しかしながら、日独双方の外相がユーラシア四国協商構想を共有していたことが日独伊三国条約の成立を容易にしました。

 日独伊三国条約は、かねてから陸軍が要望し続けてきたものです。ただし、それは、日独がソ連を挟撃するという軍事同盟構想でした。この陸軍の同盟案と洋右の条約案とは似て非なるものです。洋右にとっての三国条約は、あくまでもアメリカとの和解に至るための「道行き」です。洋右は、日独伊三国条約を単なる手段としか見ておらず、時と場合によっては独伊両国をだますことを覚悟していました。

 洋右は不本意です。なにしろ洋右はアメリカで青春時代を過ごした親米嫌独論者です。昭和十四年八月、ドイツが日独防共協定を無視して独ソ不可侵条約を締結した際、洋右は「ドイツ人ほど信用できぬ人種はない」と公言して憚りませんでした。そんな洋右がこれから条約を結ぼうとする相手はドイツ、イタリア、ソ連です。そろいもそろって共産労働政党による一党独裁体制の国々です。独裁者の胸三寸ですべてが決まる国です。条約を結ぶのも破るのも独裁者の一存であり、独裁者の気まぐれから戦争になることさえあります。条約の相手としては決して望ましくありません。というより最悪の相手です。ですが、それが世界の現実であり、洋右には他に選択肢がありません。

 ちなみに、日独伊三国条約が成立した直後に外相秘書官に就任した加瀬俊一は、洋右に次のように質しました。

「アメリカに知友が多く、日米親善を重視しておられる大臣が、なぜよりによって枢軸条約を結んだのですか」

 洋右は、待っていたと言わんばかりに返答しました。

「僕の登場がもう少し早かったら、三国条約の必要はなかった。しかし、いまとなってはこのほかに方法がない。だが、目的は日米の了解にある。僕には成算がある」

 洋右にとって日独伊三国条約は、やむを得ずに採用した次善あるいは次々善の策だったようです。


 このほかにも懸案は多くありました。日支関係は既にこじれにこじれてしまっています。それでも洋右は、蒋介石との交渉を再開することにしました。試みる価値があったからです。もし支那事変が収束すれば、支那大陸方面の憂いがなくなり、日本の対米発言力は飛躍的に高まるでしょう。

また、日本のアキレス腱たる石油を確保するための対蘭印交渉はきわめて重要です。オランダ本国はすでにドイツに占領されていましたが、日本政府は蘭印政府の主権を尊重し、蘭領インドの独立をなお認めていました。洋右としては、蘭印政府との外交交渉によって石油を輸入したいところです。この交渉が成功すれば、対日石油輸出禁止というアメリカ側の対日経済封鎖の切り札を無力化することができます。

 対仏印交渉は、支那事変と深い関連があります。北部仏印を経由して実施されている援蒋ルートの遮断が目的です。フランス本国はすでにドイツの占領下にありました。日本としては有無を言わさず軍事進攻しても不思議ではない情勢でしたが、洋右はあくまでも外交交渉によって平和的に援蒋ルートを遮断したいと考えました。要らぬ武力紛争を起こせばアメリカ政府に対日制裁の口実を与えてしまうからです。

 こうした洋右の外交戦略は世界的視野から日本の活路を模索しようとするものであって、そこに目立った欠落はありません。


 新任の外務大臣は、各国外交使節との接見を行うのが慣例です。これは形式的儀礼ですから一ヶ国に費やす時間は五分ほどです。しかし、洋右は、アメリカ大使グルーだけを例外的に強いて引き留め、三十分ほど会談しました。洋右は、日米関係の重要性を述べ、率直かつ真摯な話し合いを持ちたいとの希望を伝えました。そして、ルーズベルト大統領への私信をグルー大使に託しました。対米重視の姿勢は十分に伝わったでしょう。

 こののち洋右とグルー大使は何度も会談を重ねることになります。グルー大使の洋右に対する第一印象は悪かったようです。アメリカ人にとって英語の流暢な東洋人ほど小面憎いものはありません。ですが、会談をくりかえすうちにグルー大使は洋右を見直していきます。

「マツオカは、過去の記録を抜きにして完全なる率直さで話し合うことのできる外務大臣だ。来日して以来、初めてこのような人物に会った」

 これは九月一日付けグルー日記の記述です。ちなみにグルー大使の人間観察は鋭利かつ辛辣でした。内田康哉元外相のことを「スフィンクス」と評し、有田八郎前外相については「口を開けば慎重としか言わない」と書いています。近衛文麿総理についても鋭く芯を衝いた分析をしています。

「近衛公爵は肉体的に薄弱で、不健康で、意志も弱いが、家柄や伝統といった抵抗できぬ環境の力によって嫌々ながら現在の位置に就かせられたものと思う」


 洋右は、足元の外務省に対して改革の大ナタを振るいました。のちに松岡人事と呼ばれる大刷新です。大使四名、公使十九名、大使館参事官五名、総領事十一名を召喚し、省内多数の局長を更迭しました。根っからの実力主義者である洋右には、官僚組織の因襲性がどうしても気に入りません。洋右の改革欲求の発露です。松岡人事は世論にも受け容れられました。ながく続いた国際協調、対支宥和、対外屈従外交に世評は厳しかったのです。明治時代に鹿鳴館外交が非難を浴びたように、一見華やかな外交官生活はただでさえ快楽主義とか耽美主義とかの批判を招きやすかったのです。さらに幣原喜重郎らが推進した国際協調主義、対支宥和外交も評判がきわめて悪いものでした。「事務外交」、「道楽外交」、「怠け外交」など悪評は尽きません。さらには「陸奥の遺産のなし崩し」、「小村外交の三代息子」といった揶揄(やゆ)もありました。こうした外務省批判をくつがえして国民の支持を得、かつ省内機能を全力発揮させるため、洋右は人事刷新を断行したのです。

 松岡人事の狙いは、外務省内の刷新に加え、陸軍に対して外務省人事への介入を許さぬ姿勢を表明し、諸外国に対して新外相の決心の堅さを伝えるところにもありました。しかし、副作用も大きいものでした。外務省内に大きな波風を立ててしまい、大きな反発と抵抗を招きました。洋右は外交家として抜群の能力者ではありましたが、組織運営者としては短兵急に過ぎたようです。この松岡人事のために退官させられた外務官僚は少なくありません。いつも強気な洋右ですが、実は気弱なところもあります。

「犠牲者には金をたくさんやってもらいたい。金がなかったら自分が工面する。自分は気が弱いから宣告は気の毒だが、君が全部やってもらいたい」

 首切り役人の仕事を、洋右は大橋忠一次官に押し付けました。大橋次官は洋右よりもひとまわり若い外務官僚です。柔道の有段者で、義理人情を重んずる好漢でした。大橋次官は機密費を使って退職金を捻出し、整理対象者と面談して引導を渡していきました。

「自分は君らの屍を踏み台にして栄達するつもりはない」

 大橋次官は自らの覚悟を語って相手を説得しました。後のことになりますが、洋右が外相を更迭されると、大橋忠一に外相就任の打診がありました。しかし、大橋はこの要請を断り、整理対象者との約束を守って退官しました。


 洋右は小さな身体に気合を(みなぎ)らせていました。国家の命運を背負うという重大な使命感が洋右を高揚させています。その当たるべからざる自信は、周囲からは自惚れにも傲慢にも見えました。が、自惚れでもせねば一国の大外交など展開できるものではありません。外務省には「松岡嵐」が吹き荒れました。その最大の被害者は、いつも身近に仕えている大橋忠一次官でした。

「バカ者!わしはかようなバカを次官にするのではなかった」

 洋右は大橋次官を所かまわずに怒鳴りつけました。大橋次官は耐え忍んでいましたが、部下たちの面前で何度も面罵されるうち、ついに腹に据えかねるときが来ました。

「バカ者!」

 この日も洋右は些細な理由から大橋次官を罵倒しました。すると、いままで文句のひとつもいわなかった大橋次官が、懸命に激情を抑制しつつ、口答えをしました。

「大臣、人間はみなバカである。バカであることに変わりはない。しかし、自分だけ利口で他人はみなバカだと思っている奴こそ、ほんとうのバカというものだ」

 これほどバカバカ言い合う大臣と次官も珍しいでしょう。大橋次官はクビを覚悟で抗議したのです。すると、洋右は不機嫌な顔をして沈黙し、以後、大橋次官に対する態度を改めました。洋右に対して無条件にへりくだり続けていた大橋次官に対し、洋右は悪罵の雨を降らせましたが、大橋次官から反撃をくらうと、はじめて大橋次官を認めたのです。洋右のアメリカ観は、実のところ洋右自身の行動原理でもあったのです。


 松岡外交の最初の成果は、松岡・アンリ協定です。八月三十日に調印されたこの協定により、日本は仏印におけるフランス主権を認める一方、仏印は日本に対して軍事的便宜を供与することとなりました。日本軍は北部仏印へ駐兵し、北部仏印経由の援蒋ルートを平和的に遮断することができました。この協定の交渉中、洋右は事務当局の腹案を逸脱する発言をしたことがありました。

「日本が仏印に求むるものはコメだけである。英国によって日本はタイおよびビルマからのコメの供給を絶たれている。一定量のコメの供給さえ確保されれば、ほかのことはどうでもよい。ただし、コメに関する要求は日本の死活問題であるから、これだけはぜひ容れてもらわねばならぬ。フランスの現状はまことに気の毒である。われわれ日本人は、フランスの窮状に乗じて利欲をたくましくするが如きさもしい根性は持っておらぬ」

 洋右の発言は大橋次官以下をあわてさせました。事務当局としてはコメだけで満足するつもりはなかったし、第一、それでは陸海軍が承知しません。その後、幸いにも交渉は合意に達し、日本軍の駐兵が認められました。それなのに洋右は不満を口にしました。

「わしはコメだけでよいと言ったのに」

 仏印への日本軍の進出に対して洋右がいかに抑制的だったかがわかります。洋右はなによりもアメリカへの配慮を最優先していたのです。

 ときを同じくして日独伊三国条約に向けての外交交渉が加速していました。洋右は外相就任の直後から、駐独大使来栖三郎をしてリッベントロップ外相と交渉せしめる一方、外交顧問の斉藤良衛(よしえ)に資料収集と研究を命じていました。

 日独伊三国条約は、かつて平沼騏一郎内閣時代に大議論された事案です。だから、当時の資料が役所内に残っているはずでした。斎藤良衛顧問は外務省内で当時の資料を捜し、部下にも命じて捜させましたが、まともな資料がありませんでした。陸軍にも問い合わせましたが、何ら資料的価値を有するものがありません。

(あの大騒ぎは何だったのか)

 斎藤顧問は驚き呆れつつ、ほとんどゼロから対独条約の意義と効能について研究を開始せねばなりませんでした。

 八月に入ると洋右は駐日ドイツ大使オットと会談を重ねました。また、ドイツ事情に詳しい大島浩中将を招いて意見を繰り返し聴取しました。

 日独交渉は進捗し、九月六日、ドイツ特使スターマーが東京入りしました。洋右は、九日と十日、スターマー特使と会談しました。この間、洋右はほとんど独力で条約案をつくりあげました。顧問の斉藤良衛からはまだ充分な研究結果が報告されていませんでしたが、洋右は果断です。機密保持の観点からも迅速であることが望ましい。洋右とスターマー特使は松岡私邸で深夜に密談しました。そのため外務官僚でさえ、ごく一部を除いて誰も知りませんでした。おかげで陸軍からも右翼からも諸外国のスパイからも干渉されることがありませんでした。

 洋右は、近衛総理にスターマー特使との会談結果を報告し、十四日の大本営政府連絡会議において条約案を説明しました。

「いまは日独伊と結ぶか、これを蹴って英米側に立つか、日本としてハッキリした態度を決めなければならぬ時期に来ている。三国条約に対して曖昧な態度をとり続けた場合、最悪の事態を想定すれば、ドイツは英国を降して欧州連邦のごとき大圏域を確立し、アメリカと妥協して、英仏蘭等のアジア植民地をことごとく我が物とし、日本には一指をも触れさせぬであろう。そうなれば大東亜新秩序は画餅に帰す」

 結果として、洋右はドイツ軍の力を過大評価していたことになります。しかし、この時期、軍事専門家でさえドイツ軍が英国に上陸すると予想していましたから、ひとつの想定としては妥当なものでした。ドイツが英国を降服させてしまえば、アメリカは欧州に介入する理由を失い、米独間に妥協が成立するかもしれません。さらに洋右は言います。

「独伊と結びつつ英米とも提携することは、まったく不可能とは言えぬ。だが、その場合、アメリカの要求どおり支那から撤退せねばならず、東亜新秩序はやはり諦めねばならぬ。英米と提携すれば、一時的に経済封鎖が解かれ、一息つくことはできよう。しかし、まさにそれ故にこそ、向こう五十年ほどは米英に従属することになる。さすれば支那における排日侮日運動はますます活発化する。果たして国民は納得するか、百万の英霊は満足するか。いまは決断の時である。英米との提携は考えられぬ。英米の経済封鎖に耐え、支那事変を断行することは可能である。残された道は独伊との条約のみ」

 満洲と支那、第一次近衛内閣が背負ってしまったふたつの十字架を洋右はあくまでも背負い抜こうとしました。

「どうしてそこまで」

 と、後世から見れば不思議にも感じられますが、この時代の日本人が何よりもこだわっていたのは、アジアへの責任です。同時に、国家の独立と民族の面目です。洋右は、英米への経済的服従より、独伊との対等条約を選んだのです。まさに鶏口牛後です。そして、これは外交の「道行き」であり、最終目標はあくまでもアメリカとの和解であると説明しました。独伊との条約によって日本の立場を強めることは、アメリカを交渉のテーブルに招き寄せるための第一歩であると繰り返し表明しました。

 洋右の説明に対し、かねてより対独同盟を望んでいた陸軍は賛成しました。問題は海軍です。海軍はドイツとの条約に難色を示しました。海軍の最大の懸念は対米戦争です。ドイツがアメリカと開戦した場合、日独伊三国条約によって対米参戦の義務を日本が負うことになるのではないか。それを海軍は心配しました。なにしろ日本海軍の戦力はアメリカ海軍の六割でしかないのです。勝ち味は薄いと言わざるを得ませんでした。

「いや、日本には自動参戦の義務はない。参戦するもせぬも、これは日本独自の判断である」

 洋右は日独間の秘密書簡の内容を説明しました。これで海軍も安心しました。松岡外交における日独伊三国条約は、軍事同盟というよりも多分に政治的結合でした。だからこそ海軍も賛成することができたのです。むろん、三国条約は英米との緊張を高めはします。しかし、すでに日本はアメリカから経済制裁を受けており、すでに緊張は高まっているのです。そしてまた、日米の緊張は海軍にとって建艦予算獲得の格好の口実にもなっていました。さらに、石油に関して洋右が次のように説明したことも海軍が賛成した一因だったようです。

「スターマー特使によればドイツには豊富な石油がある。ソ連、ルーマニアから入手できるのだ。ドイツの仲介があればソ連から北樺太油田を買収することも可能だろう」

 以後、日独伊三国条約の是非は閣議でも議論され、その様子は天聴に達しました。昭和天皇は「今日の場合、やむを得ないと思う」と仰せられました。天皇はさらに御言葉を継がれます。

「自分はこの時局が誠に心配であるが、万一、日本が敗戦国となった時に一体どうだろうか。かくのごとき場合が到来した時には、総理も自分と労苦をともにしてくれるだろうか」

 この陛下の御諚(ごじょう)を木戸幸一内大臣が閣議で報告したとき、洋右は人前もはばからずに声をあげ涕泣(ていきゅう)しました。日独伊三国条約のきわどさを本当に理解していたのは天皇と洋右だけだったかもしれません。

 日独伊三国条約案は、九月十九日の御前会議においても議されました。説明に立った洋右は、「毅然」という言葉を何度も使いました。

「日米国交は、もはや礼譲または親善希求の態度を以てしては改善する余地はほとんどないと思われます。のみならず、かえって悪化させるだけのことではあるまいかと懸念せられる有り様になってまいりました。もし幾分にても、これを改善し、またはこの上の悪化を防ぐ手段ありとすれば、ただ毅然たる態度をとるということしか、この際の措置としては残っていないと存じます。しかりとすれば、その毅然たる態度を強むるために一国にても多くの国と堅く提携し、かつ、その事実を一日にても速やかに中外に鮮明周知せしむることによって、米国に対抗することが外交上の喫緊事であると信ずるのであります。なお、米国との国交を転換する機会は、これを見逃さない用意を常に怠らない覚悟でございます。ただ、それにしても一応は非常な堅い決心を以て毅然対抗の態度を中外に向かって一点の疑いを入れる余地ないまでに明確に示さなければなりませぬ」

 洋右の言う「毅然たる態度」とは、反射的に頭を下げて譲ってしまう日本の政治家や外交官への訓戒だったことは言うまでもありません。

 続いて二十六日には枢密院において三国条約案が議論されました。枢密顧問官石井菊次郎の次の発言は、この条約の危険性と不可避性を端的に説明しています。

「本案に賛成するが、近代の条約は古代と異なり、利害関係の結合に過ぎない。歴史の教うるところによれば条約関係はすこぶる弱いものである。ことにドイツは最も悪しき相手国である。ドイツと条約を結んだ国はすべて不慮の災難を被っている。ビスマルクの言葉に『同盟には常に騎馬武者と騾馬とあり』というのがある。事実、ドイツは同盟国たるトルコやオーストリアを、まるで騎馬武者が騾馬を操するがごとくに遇したのである。そのためトルコとオーストリアの独立は完全に失われた。ナチス政権は帝政ドイツと異なるとの議論もあるが、ヒトラーが国際条約を一片の紙片としか見ておらぬことは、昨年八月、日独防共協定があるにもかかわらず独ソ不可侵条約を結んだことからみて明らかである。またイタリアはマキヤベリを生んだ国であり、ドイツ以上の猛者である。このたび、この三国条約を結ぶ以上は、その運用について十分に心しなければならない。しかしながら、今日、この三国ほど利害関係のまったく一致する国は古今東西を通じて希であり、この三国が結合することは、けだし自然の勢いと言うべく、この見地より本条約の締結は国策として当を得たるものと思考する。ただ、運用には十分注意を要する」

 外交の本質を衝いた石井の発言です。石井菊次郎は日独伊三国条約の危険性を多分に認識しつつ、ほかに選択肢がないという現状認識に立ち、洋右の外交方針に賛同しました。


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