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共産主義の脅威

 共産主義は日本にとって不倶戴天の敵です。日本の国体と共産主義とは互いに相容れません。よって防共こそ日本にとって重要な政治課題でした。日本政府は、内政では治安維持法などを成立させ、外交ではドイツと日独防共協定を結びます。さらに日本は、中華民国との間にも日中防共協定を成立させようとしましたが、これは成立しませんでした。中国が共産化していたからです。

 支那大陸への共産主義の浸透は孫文の国共合作によってはじまり、以後、浸透が続いていました。共産主義勢力の伸張に脅威を感じた蒋介石は反共クーデターを起こしましたが、西安事件によってふたたび共産党との共闘を強制されることとなります。

 昭和十一年十二月、西安において蒋介石が拉致軟禁されるという事件が起こりました。首謀者はコミンテルンであり、手引きしたのは張学良です。かねてよりコミンテルンと通じていた張学良に裏切られ、蒋介石は籠の鳥となりました。当然ながら、この事件は世界的ニュースとなります。

「蒋介石はスターリンによって殺される」

 と世界の誰もが思いました。そんな中、ただひとり蒋介石の帰還を予言する論客がいました。

「蒋介石は容共政策とひきかえに南京へ還される」

 そう予言したのは尾崎秀実(ほつみ)という朝日新聞記者です。誰もが半信半疑でしたが、やがて蒋介石が南京にもどって実権をふたたび握ったので、世間は尾崎秀実を屈指の支那通と評価しました。しかし、尾崎はコミンテルンのスパイでしたから、知っていることをそのまま書いたに過ぎません。こうして名をあげた尾崎秀実は近衛内閣の政策スタッフとして迎えられ、日本政府の政策に影響を与えるようになります。

 生きながらえた蒋介石は、命と引き換えに第二次国共合作を強要されました。蒋介石政権の共産化が進み、蒋政権内に浸透した共産分子がしきりに北支に駐屯している日本軍部隊を挑発しつづけるようになります。

 昭和十二年七月になると盧溝橋事件、豊台事件、郎坊事件、広安門事件などが立て続けに発生し、日支間の緊張を高めます。いずれも蒋介石軍内に浸透した共産分子による策謀です。そして、通州事件においておよそ二百名以上の民間邦人が惨たらしく虐殺されるに至り、日本政府は師団の派遣を決定しました。これが支那事変勃発の経緯です。

 近衛文麿総理大臣は、師団派兵に反対する陸軍参謀本部を押し切って派兵を決定しました。陸軍が派兵に反対したという事実に注目すべきです。陸軍は暴走などしなかったのです。しかし、通州事件で二百数十名もの居留邦人が支那兵によって猟奇的に虐殺されていたため国内世論が激昂していました。「暴支膺懲」を叫ぶ世論を近衛総理は無視できなかったのです。日支を相戦わせるというコミンテルンの見事な謀略です。

 日本軍が北支へ進出すると、事変は沈静化しました。すると蒋介石は、八月、上海国際租界を十万の大軍で包囲しました。これは第一次上海事変の再現であり、第二次上海事変と呼ばれます。

 上海には日本海軍の第三艦隊が駐留していたものの、その陸戦隊は数千名に過ぎません。近衛内閣は追加派兵を検討しました。このとき参謀本部作戦部長の石原完爾少将は強く反対しました。

「支那を屈服させるには三十個師団が必要だ。しかし、いま使えるのは最大でも十五個師団でしかない。支那に手を出せば泥沼になる。むしろ居留民をすべて国内に引き揚げさせ、その損害を政府が補償してやればよい。その方が戦争するよりもはるかに安い」

 この石原少将の慎重論を近衛総理は却下し、陸軍に派兵を命じました。二個師団が上海に上陸しましたが、支那軍の抵抗が激しく、苦戦しました。蒋介石の軍隊は、英米独ソの各国から軍事援助を得ており、兵器も戦術も陣地も近代化されていたのです。このため日本軍はさらに三個師団を増派しました。杭州湾に上陸した増援軍は、上海包囲中の蒋介石軍を背後から脅かしました。すると蒋介石軍は退却し始め、ようやく戦局が好転しました。日本軍は追撃に移り、十二月までに南京を攻略しました。蒋介石は南京から重慶へと足早に逃げました。

 以上の経過から明らかなとおり、支那事変に陸軍が深入りした原因は陸軍そのものでなく、蒋介石軍に浸透した共産勢力の策謀と、「暴支膺懲」という新聞各紙の煽動と、それに迎合した政治にあったのです。

 支那事変の進行と軌を一にして、駐支ドイツ大使トラウトマンを仲介者とする日支交渉が進められていました。惜しむらくは近衛内閣がこの和平交渉を蹴ってしまったことです。国内世論が和平に批判的だったこと、陸軍の損害が甚大だったこと、蒋介石側の交渉態度が強硬だったことなどから、和平を求める陸軍の要請があったにもかかわらず、近衛内閣は和平交渉を中止してしまいました。昭和十三年一月、トラウトマン工作の終了とともに近衛内閣は声明を発します。

「帝国政府は、爾後、蒋介石政府を対手とせず」

 こののち日本は汪兆銘を首班とする南京政府を成立させるべく工作を開始します。これは日本と蒋介石の対立を恒常化させるためのコミンテルンの謀略でしたが、それに気づいた者はいませんでした。

 支那事変の拡大に伴い、石原完爾少将をはじめとする陸軍内の慎重派は発言力を失い、閑職に回されました。代わって対支積極派が要職につき、その後の支那事変の拡大を決定づけました。

 日本は、もうひとつの十字架を背負うことになりました。満洲が第一の十字架なら、支那が第二の十字架です。


 洋右は、満鉄総裁という立場から支那事変の経過を注視し、そこにアメリカ政府の反日援蒋方針があることを察知します。

(これはもはや日米戦争の一歩手前じゃ)

 かねてより日米戦争の勃発を最大の懸念としてきた洋右は、事情さえ許せば再び特使となって外交舞台へ飛び出したいところです。しかしながら、まさか満鉄総裁が忽然と姿を消すわけにもいきません。そこで洋右はアメリカ国民に向けてメッセージを発することにしました。

 昭和十二年十月、つまり支那事変が始まって三ヶ月後、「日本の為に弁ず」と題された松岡声明が発表されました。松岡声明はアメリカの主要紙に掲載され、大きな注目を集めました。日本のいかなる政治家、いかなる外交官、いかなる新聞よりも洋右の発言がアメリカ世論に響きました。その松岡声明は、支那を「化膿せる腫物」と喩えています。洋右の時勢観によれば、極東混乱の原因は支那の混沌です。そして、この混沌は支那軍閥とコミンテルンによってもたらされているのです。この病根を絶つためにこそ日本という医師はメスを執ったのだと訴えています。

「日本なくして中国なし」

 と洋右は論じました。列強諸国は支那を国際共同管理したいと考えていました。共同管理とは、要するに分割です。分割されてしまえば中華民国そのものが存在し得ません。列強による支那分割は、支那だけでなく日本にとっても脅威です。支那大陸に直線的な国境線が走り、それぞれの分割地に列強諸国が地歩をかため、そこに大規模な軍隊が駐留したら支那は完全に植民地化するでしょう。

「日本はアジアをして第二のアフリカたらしめざらんがため、しかして特に現在においては中国をコミンテルンの死の把握より救出せんがために戦うのである」

 松岡声明は、「強い日本」派からは支持されましたが、「弱い日本」派からは信用されませんでした。「弱い日本」派のルーズベルト大統領は、隔離演説と呼ばれる演説をおこない、松岡声明に反論しました。そして、日独伊の三国を暗に「侵略国家」と非難しました。

 こうした日米の言論戦はありましたが、しかし、日本政府も陸海軍も、まさか日米戦争が起こるとは夢にも考えていません。それを満州の地から憂え、支那事変を抑止しようとしたのは洋右です。洋右だけは過剰と思われるほどに日米の戦争を危惧していました。

 そんな洋右の懸念をあざ笑うかのように支那事変は拡大していきます。アメリカ政府は蒋介石政権への援助を本格化させたほか、昭和十三年六月には道義的禁輸と称する対日経済制裁を開始し、通商面から日本を圧迫しはじめます。事態の深刻化をうけて、近衛総理は内閣を改造し、陸軍大将宇垣一成を外相に迎え、支那事変の解決を任せました。

「万事任せる」

 近衛総理は宇垣外相に約束しました。宇垣一成外相の対支交渉は好転するかに見えました。ところが、陸軍内部の好戦派によって宇垣外相の対支交渉は頓挫してしまいます。宇垣外相は陸軍の策謀を非難し、近衛総理に抗議しました。しかし、近衛総理は陸軍の方を支持して宇垣外相を見捨てます。これに宇垣外相は怒りました。

「事変の解決を任せると言っておきながら、今に至って外相の権限を削ぐような近衛内閣には止まり得ない」

 近衛総理の不誠実をなじって宇垣外相は辞任しました。就任からわずか三ヶ月後の辞職です。宇垣外相辞任に伴い、近衛総理は外相を兼摂しました。そして、同年十一月、近衛内閣は国際連盟に対して絶縁を通告しました。国際連盟脱退後も日本政府は国際連盟との外交を維持していたのですが、この絶縁によって日本は文字どおりの孤立状態となりました。さらに近衛内閣は大東亜新秩序の建設を宣言し、新外交理念を発表しました。その内容は、要するに英米を主体とするワシントン体制への抗議です。

 新機軸の対外政策を強気に推進した近衛文麿総理でしたが、支那事変の収束が困難になり、日独伊三国同盟に向けた国内調整も難航すると嫌気をもよおしました。

「やめたい」

 近衛総理は側近に弱音を洩らすようになり、昭和十四年一月に内閣を総辞職してしまいます。近衛内閣は、ほぼ一年半の短命内閣でしたが、この短期間に日本の運命をほぼ決定づけてしまったといえます。


 第一次近衛内閣の総辞職から二ヶ月後、洋右は満鉄総裁を辞し、東京に戻りました。近衛内閣がもたらした国際情勢の新展開、なかでもアメリカによる対日禁輸措置を洋右は危惧していました。洋右は自信家です。

(日米の関係改善は自分にしかできない)

 そう考えた洋右は近衛文麿公爵に接近しました。国民的人気の高い近衛文麿の名望をかり、日米摩擦を解消してみせようと考えたのです。近衛と洋右とは、パリ講和会議で知り合って以来の旧知です。洋右は、近衛の私邸を訪問して世界情勢を語り、日本のとるべき外交政策を論じました。さらに近衛に再出馬を促し、その際には自分を外相に起用するよう売り込みました。

(わしにしかできない)

 そういう自負があります。アポロジストぞろいの日本外交界のなかで、洋右だけがアメリカを熟知し、その腹黒さと対処法を理解しています。好むと好まざるとにかかわらず自分が引き受けるほかはないと思っています。

 近衛文麿という、高貴な血統をうけつぎ、長身長足のスマートな外貌をもつ政治家に日本人は多大な期待を寄せ、「政界のプリンス」と呼んでいました。国民から一方的に絶大な期待をかけられつづけた近衛も大変だったでしょう。ありていに言えば、大衆の期待など迷惑だったにちがいありません。いざというときに国家の切所に立たねばならないからです。とはいえ近衛にはそれなりの覚悟があったようです。

 そのためかどうか、近衛は世の論客を自邸に招いて意見を聞きました。いざというときに役立つ人材を物色していたのです。そのため「近衛の聞き上手」という定評ができあがります。しかし、実際には必ずしもそうではなかったようです。こんな話があります。ある論客が近衛邸を訪れ、二時間にわたって大いに何事かを論じました。

「近衛公爵が俺の話に耳を傾けてくれた」

 その論客は大いに喜んで帰っていきました。論客を送り出した側近が近衛公に尋ねました。

「ただいまのお話はいかがでございましたか」

 すると近衛は、話の内容どころか論客の名前すら覚えていませんでした。論客とはいえ、中には愚物も混ざっていました。そんなとき近衛は、いかにも熱心に聞いているふうに見せながら、単に聞き流すという芸当を用いました。そんな近衛文麿でしたが、洋右に対しては姿勢をあらため、その外交論を真摯に聞きました。洋右は言います。

「支那事変は国際問題です。日支間ではもはや片づけられない。満洲事変のときと同じです。国際問題だからです。わたしが心配するのはアメリカとの衝突です。日米の衝突は、この松岡にとっての悲劇であるばかりでなく、大日本帝国にとって存亡の危機です。そもそも日本の大陸政策は、太平洋方面の安定を前提として成り立っておる。アメリカとの友好が必須の前提条件です。そうである以上、もし日米対立となれば、日本軍は戦力を東西に二分させねばならず、おちおち大陸政策などやっていられなくなる。かつてアメリカ軍は、第一次大戦に参戦するや、ほぼ一年数ヶ月後に二百万の大軍を欧州大陸に展開させました。これは驚異的な動員能力であります。もし、この大兵力が極東に投入されたら、いかに日本陸軍が精強であってもわが大陸政策は瓦解するでありましょう。わが日本とアメリカでは基本的な国力が隔絶しております。加えて日本経済は、アメリカとの貿易に大きく依存している。日米および満米の貿易は盛んであって、日本と満洲は石油や鉄などをアメリカからの輸入に依存している。これが途絶すれば日本は経済的に降参するしかない」

 洋右は、得意の弁舌で近衛を説きまくります。

「いかにも」

 感に堪えぬ、といった表情で近衛は洋右の話を聞いています。

「すでにアメリカ政府の対日経済制裁がはじまっており、日米関係は一触即発の事態に陥っていると考えねばなりません。とはいえ、日本がアメリカに屈従して支那や満洲から手を引けば、大陸はアッという間に赤化してしまう。日本は前門の虎と後門の狼にはさまれているのです。この事態に対処するのに幣原外交の如きアポロジスト外交では通用しません。アメリカは相手が弱いとみれば交渉などしません。日本政府が交渉を打診してもアメリカ政府に拒絶されるのは、弱いとみられているからです」

 松岡洋右の年譜は、昭和十四年三月から十五年六月まで空白になっています。この間、洋右は国際情勢の分析と外交政策の研究に没頭していました。そして、ときに近衛邸を訪ねて研究成果を報告し、時節を弁じ、国策を論じ、三寸の舌を高速回転させながら政策を練りました。


 事態が深刻化したのは昭和十四年七月です。アメリカ政府は日米通商航海条約の廃棄を一方的に通告してきたのです。すでにアメリカは昭和十三年から日本に対する一部製品の輸出禁止措置を開始していましたが、この禁輸は米政府から米民間企業への要望というかたちで実施されていました。そのため道義的禁輸と呼ばれました。日米通商航海条約が存在していたためにアメリカ政府は法律による対日禁輸を実施できなかったのです。

 そこで、ルーズベルト大統領は、邪魔な通商航海条約を容赦なく処分しようとし、昭和十四年七月、日米通商航海条約の廃棄を日本政府に通告したのです。支那事変の処理に大わらわの日本政府は、背後から不意に発砲されたように驚きました。

 このアメリカ政府の措置は、外交儀礼上、驚くべき不作法です。条約の廃棄を一方的に通告された場合、それを理由に宣戦布告しても国際法的には適法です。これを思えば、アメリカは戦争を覚悟していたともいえます。これほどの強手を差してくる以上、アメリカ政府は本気で日本をつぶしにきていると考えねばなりませんでした。このアメリカの対日強硬措置は当然ながら世界的ニュースとなりました。

「影響は僅少、対支方針は不変」

 日本の新聞各紙はいずれも強気の報道をしました。外務省も「対策はある」との談話を発表しました。「米、ついに敵性を暴露」という挑発的な見出しも現れました。一方、支那の各紙は日米の対立を喜び、「日本の対米懐柔策行き詰まる」などと書き立てました。英蘭濠加ソの各紙は概してアメリカに好意的であり、「米、極東権益擁護の実力示す」などと論評しました。肝腎の米紙は強硬論と慎重論にわかれました。「姑息的手段より徹底的手段を」という記事もあれば、「外交評論家、条約廃棄を酷評」とルーズベルト政権を批判する記事もありました。

 日本政府は当然のこととしてアメリカ政府に抗議し、直ちに交渉を開始するよう提案しました。しかし、アメリカ政府はいっさい応じようとしません。このアメリカ政府の対日強硬態度を見た各国は、日本への接近を避けはじめます。たとえばイギリスです。

 この時期、日本とイギリスは支那租界問題などについて東京で協議中でした。が、アメリカが日米通商航海条約廃棄を発表すると、イギリスは態度を変えて交渉に消極的となり、やがて交渉を打ち切りました。ここにおいてこそ日本の国際的孤立が本格的に始まったといってよいのです。

 日本国内では当然なことに反米世論が高まりました。そもそも幕末の日本に砲艦外交で開国と通商を強いたのはアメリカです。そのアメリカが今度は一方的に通商条約の廃棄を通告してきたのです。理不尽としか言いようがありません。アメリカ政府のあまりの高圧的な外交態度に直面し、日本国内の親米論者は誰もが沈黙してしまいました。かわって親独論者が声高にアメリカを非難しはじめます。

 洋右は極度に緊張しました。憂慮すべき事態、つまり日米の戦争へと発展するかもしれぬ形勢です。洋右は近衛邸を訪れて熱弁をふるいました。

「米国政府による通商条約廃棄通告のごとき重大なる不祥事をみるに、米国は戦争という事態を惹起せんとしているかのごときふるまいである。これは日本にとってほとんど耐え難い。自尊心を有する国ならばどんな国であれ侮辱であるといえる。国際法の常識に照らして論ずるならば、この不祥事を理由にしてわが日本が米国に宣戦を布告しても適法である」

 洋右は国際法の常識に照らしてアメリカ政府の無法を責めました。親米論者がことごとく沈黙するなかにあって、洋右の言論は非常に目立ち、あたかも反米論者のように見えました。

「それは暴論ではないか」

 さすがに近衛文麿が口をはさみます。

「もちろん戦争などやってはいけません。あくまでも外交で解決せねばなりません。私が言いたいのは、米国の対日態度からみて日本は軽んぜられておる。これでは交渉さえ始まらない。よって日本は、対米交渉力を強むる必要があります」

 近衛は怪訝な顔をして質します。

「その具体的な方法はなにか」

「それは列強との同盟です。現在の国際情勢ではソ連、ドイツ、イタリアと同盟することで対米外交力を高めることです」

 近衛は驚きます。

「そんなことをすれば、アメリカはますます態度を硬化させるのではないか」

「そうではありません。わが国の外交力を高めてこそアメリカを交渉のテーブルにつかせることができます。アポロジスト外交こそ事態を悪化させます。一旦は強気に出て日米の交渉を開始する。これが第一関門です。むろん、ご心配はよくわかります。ですが、アメリカは自由と民主主義を国是としています。なにがどうあれアメリカがスターリンやヒトラーと結ぶことはあり得ないのです。そこだけはアメリカを信頼してよろしい。吾輩はアメリカで苦学した人間ですからわかります。民主国家たるアメリカは、なにがあってもヒトラーやスターリンと手を結ぶことはない。わが国は、アメリカとの交渉を開始するため、そのためだけにスターリンやヒトラーに接近するのです。戦争をするためではありません」

 松岡洋右ほどアメリカを信頼し、その民主主義を信奉していた日本人はいません。洋右のアメリカ観によれば、民主国家アメリカが独裁国家ドイツや共産国家ソ連と結ぶことはあり得なかったのです。この「見切り」こそが、後に実施される松岡外交の基底でした。


 アメリカが日米通商航海条約の廃棄を通告してきた二ヶ月後、欧州で英仏が対独宣戦布告をし、第二次大戦が始まりました。洋右はいよいよ本腰を入れて国際情勢分析と政策研究に取り組み、近衛文麿公爵にそれを語りました。

「欧州の戦争に巻き込まれてはなりません。日本はあくまでも仲介する第三者の立場を保ち、アメリカとともに外交で欧州戦争を終結させるべきです。支那事変は欧州戦争の一環です。日本と蒋介石政権の戦争ではありますが、蒋介石の背後には米英独ソがついておる。列国は、それぞれの思惑から、つまり、ある国は極東権益を守るため、ある国は武器商売で儲けるため、ある国は漁夫の利を得るために蒋介石を支援しております。したがって、支那事変の処理は日支二国では片づけられない。これは、満洲事変のときと同じです。満洲事変のとき、日本は国際連盟脱退という大きな代償を支払うことで満洲を守りました。果たして支那事変の処理はどうなるか。まったく予断を許しません」

 洋右は、自身の危機感をそのまま近衛公に語ります。アメリカによる一連の対日経済制裁措置と、西太平洋における大規模な米海軍の演習を洋右は「傍若無人の振る舞い」であるとして非難しました。

「日本は暴力や脅迫に屈してはならず、威信と面目を保ち、正々堂々の国交調整をなすべきであります。それにしてもアメリカには他国に対して察しやりというものがない」

 近衛公爵は「察しやり」という言葉に反応し、大きく肯きました。「察しやり」を持ってくれという日本側の願望は、いかにも日本人らしい感覚です。日本外交には、いつでも相手国への「察しやり」があります。ときにこれが過剰となり、いらざる侮蔑や不信を招いていました。これがアポロジスト外交の弊害です。一方、アメリカには日本に対する察しやりがまったくありません。

「アメリカは、日本が支那事変を戦う理由についてあまりに無理解です。そもそもの支那事情について無知でさえある。支那大陸の混沌や赤化の脅威をアメリカは決して認めようとしない」

 洋右は満腔の不満を込めて述べました。しかし、そう言いながらも洋右にはアメリカの対応が理解できました。それこそがアメリカ流の力の論理だからです。アメリカ人には日本人的な「察しやり」などはないのです。結局、日本としても権力外交を展開するほかありません。

「アメリカと交渉し、提携するためには、その途中、アメリカといがみ合い、戦うことさえないとは言えません。しかし、それは究極するところ提携の道行きであります。これとは反対に、どうしても敵として倒さねばならぬソビエト連邦とも、時と場合によっては一時的に媚態を呈しなければならないこともある。相携えることもある。しかし、これは矛盾ではありません。いずれ敵を敵として倒すための道行きであります」

 洋右が悲痛な表情で言うと、近衛も目を細め、眉根を寄せました。

「日本が独伊ソと結んでも、それはソ連という敵を撃つための道行きであります。日本がアメリカと対立したとしても、それは提携するための道行きであるのです」

 これこそ松岡洋右が達成しようとした外交的アクロバットでした。終始聞き役に徹していた近衛文麿は難しい顔をして返事をしませんでした。

「この二、三年で世界全人類の運命が決せられるのではあるまいか」

 洋右は予言めいたことを言い残して近衛邸を辞しました。この予言は結果的にまことに正確だったといえます。


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