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満鉄総裁

 松岡洋右がアメリカから帰国したのは昭和八年四月二十七日です。洋右の乗る浅間丸が横浜港に入港すると、日の丸の小旗を振りながら歓呼の声をあげる群衆で横浜港は埋まっていました。空前の大歓迎です。横浜駅から東京駅まで特別仕様の「全権列車」が走り、沿線では長蛇の列となった人々が「万歳」を連呼しました。東京駅には斉藤実内閣の閣僚が出迎え、新聞各紙は松岡洋右の名を大書し、連盟脱退と自主外交を絶賛しました。洋右は時代の寵児となったのです。

 それにしても日本国民のこの異様なまでの熱狂と興奮は何だったのでしょう。支那における排日侮日運動による被害、軟弱外交への鬱憤、経済不況による社会不安、軍縮に対する不満、財閥などの特権階層に対する嫉妬、政党政治への失望、等々からできあがった国民感情が格好の()け口を見つけて噴出したとでも解するほかはありません。

 ですが、周囲の熱狂をよそに、洋右は浮かぬ顔で外務省通商局長室に後輩の来栖(くるす)三郎局長を訪ね、帰国の感慨を語りました。

「わしは大命を受けて出発する前から、陛下のご期待が連盟脱退ではないと知っておった。だからわしはあらゆる努力を傾注して破局回避を試みたのである。しかるに力及ばず、ついに聖旨に添い奉ることなく帰ったのである。自分は失敗して帰ってきたのであるから、この際、責を負うて故山に引退する。国民の一部は、重責を果たし得なかった敗残の自分を、あたかも凱旋将軍のように歓迎しておるが、まったく理解に苦しむ。こんなことは夢にも予期しておらなんだ。口で非常時を言いながら、わしをこんなに歓迎するとは、皆の頭がどうかしていやしないか」

 国際連盟からの脱退を推進したのは日本政府です。必ずしも全権代表たる洋右の本意ではありませんでした。洋右が望んだことは、むしろ日本が国際連盟にとどまり、洋右がジュネーブに常駐し、粘り強く国際世論を説得し、時間をかけて満洲国を立派な独立国家として育てながら、その実績で世界を納得させることでした。そのような機会と役割を日本政府が洋右に与えたなら、洋右は国際連盟という大舞台で名演技をつづき、見事に期待に応えたでしょう。しかし、日本政府は国際連盟に対して脱退通告文を送付し、日本の連盟脱退はもはや確実となりました。

 ただ、これをもって日本がいきなり国際的に孤立したとするのは早計です。連盟脱退後もなお、日本は国際連盟との外交関係を維持しましたし、海軍軍縮条約も遵守し、世界各国との国交と貿易を維持しました。支那の混沌、ソビエトの勢力拡張、アメリカの反日世論など、懸念材料こそあったものの、差し迫った安全保障上の危機はまだありません。

 そのためでしょうか、国内世論は概して楽観的であり、洋右への称賛が絶えませんでした。そんな周囲の声援をよそに、洋右自身は今後の進路に迷います。

「私はしばらく何も言わず、田舎へ帰って考えたい。私は田舎へ帰って疲れを癒さねばならぬほど弱い男ではない。ただ沈思黙考するために田舎へ帰るのだ。ゆっくり田舎に帰って考えをまとめたうえ、非常時日本の進むべき道をはっきりつかみたい」

 そう言い残し、洋右は三田尻の母の許に隠棲し、老母の面倒を見ながら釣り三昧の日々を送りました。休むことに飽きると各地で講演会を開いたり、文章を書いたりしました。


 昭和八年十二月、思索を終えた洋右は動き出します。政友会から離党し、政党解消運動を開始したのです。洋右は政党解消連盟本部を組織し、その本部を丸の内三菱仲十二号館に置きました。

 洋右が政党に失望したのは、満洲事変が勃発したときです。挙国一致のため党利をすてて若槻内閣を助けよ、という洋右の建言を政友会幹部は無視し、倒閣運動に走りました。これに加え政党政治家の汚職体質が事変後あきらかとなりました。満洲軍閥の行政書類が押収された際、その中から多額の贈収賄を証明する領収書が数多く発見され、その多くには日本の政党政治家の署名がありました。つまり、多くの政治家が満洲軍閥に買収されていたわけです。このため政党に対する洋右の信頼は瓦解しました。洋右はすべての政党を解消し、政治を刷新すべきだと考えました。

 政党解消論は、その是非はともかく、この時代にあっては決して過激思想ではありません。すでに政党に対する失望感が日本社会に満ちていました。かつて憲政の神と称された尾崎行雄は、政党の実態に失望して政党を離れていましたし、同じく憲政家だった亡き犬養毅も「現在の日本の政党は政権争奪団である」と述べていました。さらに、文人の永井荷風も日記のなかで、「つらつら思うに今日わが国の政党政治の腐敗を一掃し、社会の気運を新たにするものは蓋し武断政治をおきて他に道なし」と書いています。天皇機関説で知られる憲法学者の美濃部達吉も政党解消論の必然性を論じました。

「政党解消論の起こるは自然の現象なり。今日の政党は政権の争奪を以て、その存立の主眼点と為して居るものであるが、かかる意義においての政党は今日の時代においては、もはやその存立の目的を失ったものと言わねばならぬ」

 このほかにも久原房之助の一国一党論、山本条太郎の政党連合論、角田時雄の政党亡国論などがありました。

 こうした社会潮流を糾合し、政治の改革を断行しようと洋右は考えました。国際連盟脱退という出来事を通じて時代の寵児となった松岡洋右の名を以てすれば、たとえそれが虚名とはいえ、政党解消論は社会に対して強い影響力を持つに違いありません。

 洋右は、全国各地を巡遊して講演会を開催する計画を立て、また機関誌「昭和維新」を発行して国民の支持を集めようとしました。支持が集まれば、その民意を背景に政党解消と一国一党を達成するつもりです。

 昭和八年十二月からほぼ一年間、洋右は遊説に明け暮れます。時と所が支那の春秋戦国時代であったならば、洋右は蘇秦や張儀のように七国の諸侯を訪ね歩いたでしょう。議会制度のある国に生まれた洋右は、諸侯ではなく国民大衆に向けて政治信条を訴えました。これは政治生命を賭けた本気の運動でした。

 洋右は講演会を有料とし、聴衆ひとり当たり五十銭を徴収し、これを活動費にあてました。講演会場の演出には工夫を凝らしました。ステージの中央に日の丸を掲げ、その左右にスローガンと演題を大書しました。また、講演の直前に国歌斉唱を実施しました。洋右の人気は絶大で、講演会には収容しきれないほどの聴衆が押し寄せました。洋右の話術は冴え、政党解消運動は支持を広げていきました。

 洋右の政党解消論は、一種の危機感から出ています。日本が今後も発展しようとすれば、欧米勢力との角逐を避けられません。したがって、列強に負けぬ強力な政治体制が必要になります。洋右の観察によれば、欧米列強はすでに国家総動員に適した政治体制を構築しつつあります。独伊は左翼ファシスト体制、ソ連は共産党一党独裁体制を完成させています。アメリカでは大統領への権限集中を連邦議会が承認していました。世界で最初にブロック経済圏構想を打ち出した大英帝国でも超党派的見地からする政権運営がなされています。そんな世界激変の中にあって旧態依然たる政党間の政権奪取闘争を繰り返していたのが日本です。しかも、その政党政治は経済失政と汚職と醜聞にまみれて国民の支持を失っています。洋右は訴えました。

「政党というものは対立と抗争の政治形態である。そして、日本の政党は借り着だ。ほんの五十年前、欧米から借り着をしたのが政党である。はじめから我々の身体にピッタリしておらぬ。お互いに喧嘩をやりながら政治をする西洋の覇道的な政党政治をもってきたのだから、はじめから国情に合わぬ、国民性に合わぬ。しかもこの借り着は泥だらけのよれよれになってしまった」

 政党政治が日本の国民性に合わないというのは、例えばこういうことです。日本人は政策上の論敵をあたかも親の仇のように考えてしまいます。政敵は不倶戴天の敵であり、倒すべき敵と考えるのです。だから政党同士は政権闘争に明け暮れることになります。一方、欧米人は政治上の対立と私的感情とを峻別するという器用さを持っていて公私混同しません。

 かつて英国では自由党のグラッドストーンと保守党のディズレイリとが議場で激しい政策論を戦わせました。しかし、議場を一歩でも離れると、このふたりは実に仲の良い親友でした。こうした芸当が日本人にはできません。国民性に合わないというのは、この意味であり、だからこそ政党は「借り着」なのだと洋右は言います。

「私は覇道に基づいた西洋のデモクラシーに倣うことはしませぬが、われわれ祖先伝来、建国以来の精神に基づいて日本伝来のデモクラシーはあくまでも支持する。われわれは共同観念を持っており、一家のように考えてやってきた」

 洋右は借り着を脱いで、日本の民主主義を行うべしとしました。そこで政党解消論になります。

「私は率直に言う。政党を解消してもらいたい。それは政党人を殺そうというのではない。政党解消こそ、国家本意の立派な考えを持っておられる政治家を生かす唯一の道であると思うからである」

 政党が政権奪取に血道をあげている限り、政策通の政治家は能力を発揮する機会がない。政局に熟達した寝業師的政治家が力を持ってしまう。これでは列強諸国に伍してゆけない。そもそも大日本帝国憲法には「政党」という言葉も「憲政の常道」という言葉もない。これらは借り着なのだと洋右は訴えます。さらに洋右は政党政治の問題点として党議拘束をあげます。

「伊藤博文公爵の憲法義解には、代議士は個々の良心に従って発言をなすべきもの、と書いてある。しかし、そういうことが実際にありますか。はじめから大多数の良心は政党によって拘束されておる。右向け、左向けで個々の良心に従って発言するなどは、いわば夢物語である。果たしてしからば、政党ご自身が現に帝国憲法の目的を完全に破壊し去っておられるではないか。私は議会を否認するものではない。議会の真の目的が政党によって叩き壊されておるのだから、政党を解消して帝国議会に大改造を加え、日本人の本然に立ち返って日本人らしいひとつの議会にしたい。日本の本然に立ち返って相和する、その和するうえにおいて第一番に問題となるものは政党である。どう考えてみましても政党である。これを解消しない限りは、わが大和民族の世界的運命を決すべきこの国難、いまや峠にさしかかっているこの国難を突破することは到底できぬ」

 政党のために議会があるのではない。議会のための政党である。その政党が抗争に明け暮れて機能しないのなら、政党を解消して議会を生かすべしというのが洋右の考えです。要するに日本的な民主主義に立脚した国家総動員体制を樹立したい。それが洋右の政治目標だったのです。

「私の志すところは、向こう四ないし五年だけ非常時局に堪えるべく、国を挙げて、真にわが国三千年来の伝統すなわち一国一体、ないし一家主義に立ち返り、すべての闘争をやめて、大和民族独自の見地に立った政治形態を実現したいということにあるのです」

 洋右は、昭和九年の一年間を政党解消運動の遊説にあてました。北海道から九州まで遊説しました。演説会場は常に満員で、数千名の聴衆が押し寄せたこともあります。洋右の演説はときにラジオ放送され、レコードにもなりました。手応えはあり、政党解消連盟の組織は拡大しました。ところが、です。

「満鉄総裁になってくれ」

 洋右のもとに悩ましい依頼が届きました。依頼の主は親友の南次郎です。関東軍司令官に親補された南次郎大将は、満洲経営の主役たる満鉄総裁に松岡洋右を欲したのです。

「馬鹿を言うな」

 当初、洋右はにべもなく断りました。洋右は本気で政党解消運動に取り組んでいたのであり、しかも運動は成功して組織が拡大し、献金も集まっています。これを中途で放り出すことはできません。

 南次郎と洋右とは、無二の親友です。ふたりは若い頃に関東都督府で知り合い、以来、莫逆の仲になりました。酒を酌み交わしては徹夜で論じあい、遊び、唄いました。鋭い弁舌の洋右に対し、南は茫洋たる風貌で洋右を包み込みました。正反対の性格を持つふたりは妙にウマが合いました。そんな親友の懇請とはいえ、推進中の政党解消運動を放り投げるわけにはいきません。

 ですが、昭和十年に入ると洋右は講演会をやめました。南次郎から再三の要請があり、また満鉄の経営陣や労働者団体からも請願がありました。関東軍の内面指導、つまり軍人の経営介入に満鉄は悩んでいました。経営感覚も手腕もない質の悪い陸軍将校が満鉄経営に容喙し、役員や社員を罵倒するのです。これでは経営が停滞して当然です。関東軍に対してモノを言える強い総裁を満鉄は必要としていました。

「満蒙は日本の生命線」

 これが洋右の持論でしたから、満鉄総裁は洋右の担うべき仕事ではあります。とはいえ政党解消運動を放り出すこともできません。

(身体がふたつ欲しいものじゃ)

 煮え切らぬ洋右のもとに牧野伸顕伯爵が天皇の御意を伝えに来ました。

「お上の御意とあらば、この松岡、粉骨砕身せねばなりますまい」


 洋右が第十三代満鉄総裁に就任したのは八ヶ月後です。この八ヶ月間は、洋右が進路に迷い、かつ、政党解消運動の整理に要した期間です。洋右は、関東軍最高顧問を兼ねるという条件で満鉄総裁就任を承諾しました。南次郎と満鉄の双方を助けるためでした。本来ならば、南次郎が軍司令官として威令をとどろかせ、部下将校による満鉄への介入を抑制すればよいのですが、南次郎という人物は何事も部下に任せる大風呂敷を持ち味とする人物で、細かい指示命令を出して部下を指導監督する性質ではありませんでした。

「アイツの柄ではない」

 親友だけに洋右にはそれがよくわかりました。そこで洋右は関東軍最高顧問を兼務し、顧問の立場から関東軍の満鉄への介入を抑え、満鉄を発展させ、ひいては日本の生命線たる満蒙を守ろうと考えたのです。昭和十年八月、洋右は満鉄総裁として渡満しました。

 このように洋右の人生には大きな変転があります。外務官僚、満鉄理事、理事を退任した翌年に再び満鉄副総裁、衆議院議員、総理兼外相特使、国際連盟全権団代表、政党解消運動、そして満鉄総裁です。百才に恵まれた洋右は、それ故に一事を貫くことからは遠ざかりました。それでも、この後、ほぼ四年のあいだ洋右は満鉄経営に精力を注ぎます。


挿絵(By みてみん)


 しかしながら、満鉄経営は必ずしも洋右の思いどおりには進みませんでした。昭和十二年に東京で二・二六事件が起こると、南次郎大将は責任を問われて予備役に編入され、関東軍を去ってしまいました。洋右の意に反して満鉄から重工業部門が分離され、満洲重工業株式会社に統合されました。また、満鉄による北支直轄経営も断念させられました。

 それでも目出度いことに、洋右の在任中、満鉄は設立三十周年を迎えました。設立当時、満鉄には破壊された鉄路しかありませんでしたが、いまでは複線広軌道鉄道が整備され、その上を超特急アジア号が時速百三十キロで疾走するまでになっています。


挿絵(By みてみん)


挿絵(By みてみん)


 満鉄設立時には一千百キロほどだった鉄道延長は、満洲国委託線と社線とをあわせて八千五百キロにまで延びており、数年後には一万キロに達する見込みです。かつて三万人だった鉄道付属地内の人口は五十四万人に増え、社員数は一万三千人から五万四千人に増えました。資本金は二億円から八億円に増資され、収入は一千万円から四億円になりました。

 満鉄の事業は、鉄道、運輸、通信、倉庫、製造、鉱山、建設、電気、ガス、商事、調査、研究の各分野に及んでおり、満鉄本社だけでも四十余種の業種を抱えています。むろん中心は鉄道事業です。鉄路、鉄橋、駅舎、車輌などを完備し、世界水準の列車を走らせて数多くの旅客を運び、大豆をはじめとする農産物を輸送しました。また、鞍山製鉄所、撫順炭田、煙台炭田などから産出される鉱物資源を日本に供給しました。

 満鉄の関連会社は八十一社にのぼります。主なものには昭和製鋼所、撫順セメント、日本精蝋、大連窯業、東亜勧業、大連農事、満鮮抗木、大連汽船、日満倉庫、大連都市交通、国際運輸、福昌華工、哈爾浜土地建物、興中公司、満洲日日新聞などがあります。

 大連、蓋平、営口、遼陽、奉天、鉄嶺、四平街、公主嶺、新京、撫順など鉄道沿線の諸都市は計画的に開発され、電気、ガス、水道、道路などの基盤施設はもちろん、大学、専門学校、中学校、初等学校、図書館、娯楽施設、公会所、体育施設、医院、衛生所、市場、屠獣所、消防所、農事試験場までが整備されました。

 かつて張作霖の軍閥が満洲を統治していた時代、鉄道敷設工事は命がけでした。満鉄の鉄道敷設作業員は身体に防弾装備を装着し、武装して鉄道建設に従事していました。それほどに治安が悪かったのです。しかし、満州国の建国以後は治安が改善しました。満鉄は満洲国から満州国国有鉄道の建設を受託し、鉄道網を満洲の隅々にまで拡げつつあります。

 満州国の人口は爆発的に増えました。満鉄の成長は、そのまま満洲国の発展といってよく、混沌の大地は見違えるような近代国家に変貌しました。日本が国力を傾注して建設した満洲国は、洋右の持論どおり「日本の生命線」だったにちがいありません。自由貿易の恩恵を受けて満洲国は発展し、十八ヶ国から国家承認されるまでになります。


挿絵(By みてみん)


挿絵(By みてみん)


挿絵(By みてみん)


挿絵(By みてみん)


挿絵(By みてみん)


挿絵(By みてみん)


挿絵(By みてみん)


挿絵(By みてみん)


 そんな満洲の発展、ひいては日本の膨張を警戒し、敵視したのはアメリカです。アメリカが日本侵略の意志を固めた時期がいつだったのかは特定できません。しかし、ひとつの契機は、明治三十一年の米布併合に日本が抗議したことだったでしょう。ハワイ王国がアメリカに併合されたのは、洋右がオレゴン大学に入学した年です。以後、アメリカはパナマ運河を開通させ、太平洋艦隊を整備し、支那の懐柔工作を着々と進めました。

 第一次大戦後、パリ講和会議において日本が人種差別撤廃条項を提案しましたが、この日本の提議がアメリカの逆鱗に触れました。なにしろアメリカの国内秩序は人種差別を基礎として成り立っていました。したがって、日本の提案はアメリカにとってこの上なく迷惑だったのです。アメリカは、民族自決や機会均等や門戸開放といった理想を盛んに吹聴しましたが、人種平等という価値観にだけは強烈に反発しました。しかも、ことがアメリカの国家的恥部に触れる問題だったので、アメリカは大仰な議論を避け、秘かに日本を憎悪しました。このため日本はアメリカの怒りを必ずしも充分に察知できませんでした。

 旧ドイツ帝国領の南洋諸島が日本の委任統治領になったこともアメリカの不満の種でした。太平洋の覇権を半ば日本に握られたことは、アメリカのマニフェスト・デスティニー(膨張の天命)に反したのです。

 アメリカは迅速に手を打ちます。まずワシントン会議において日英同盟を解消させました。日本に南洋諸島を与えたのは英国だったからです。そして、日本が南洋諸島の委任統治を始めると、アメリカ軍は珊瑚礁島嶼攻略のガイドラインを早急に完成させました。アメリカ軍の周到な動きに比べると、日本軍は吞気でした。帝国陸海軍は南洋諸島の戦略的価値にさほどの関心を示しませんでした。アメリカに対する警戒心の薄さは、今にして思えば憐れなほどです。結局、日本軍は南洋諸島に要塞のひとつも構築せぬまま対米戦争に突入することになります。それほどにアメリカとの戦争は日本にとって現実味の薄いものだったし、日本の関心は大陸方面に集中していたのです。

 日本の勢力拡張を警戒していたもうひとつの強国はソビエト連邦です。スターリンは、かつて帝政ロシアを打ち破った日本軍を恐れつつも復讐戦の機会を狙っていました。スターリンは共産スパイを支那大陸に浸透させ、蒋介石の国民党と日本とを相争わせようとし、見事、これに成功します。これが支那事変です。

 国民党内部に浸透した共産スパイによって惹起された日本軍への執拗な軍事的挑発と、通州における在留邦人大量虐殺は、ついに日本政府に師団派兵を決断させました。日本軍は日本内地と満洲から三個師団を北支へ派遣しました。この北支派遣軍は迅速に北支を平定し、秩序を回復させました。

 この形勢に脅威を感じたのはアメリカです。支那までが満洲国のようになれば、日本の勢力圏は大幅に拡張します。そうなってしまえばアメリカといえども支那大陸に地歩を築けなくなります。それどころか米領フィリピンの安全を心配せねばなりません。そこでアメリカは蒋介石に対する支援を本格化させました。

 日本にとっての不幸は、フランクリン・ルーズベルトという容共政治家がアメリカ大統領でありつづけたことです。この頃、アメリカの対日政策は大別して二派に別れていました。ひとつは「強い日本」派です。日本をアジアの安定勢力と見なし、日本を支援することでアジアを安定化させ共産主義の拡散を防ぐという政策です。他のひとつは「弱い日本」派です。日本こそがアジアの平和を乱していると見なし、日本を弱体化させることでアジアの安定を図るという政策でした。日本の不幸は、「強い日本」派のフーバー大統領が経済失政のために失脚し、これにかわって「弱い日本」派のルーズベルト大統領が就任したことです。日米戦争勃発の原因は、その九割九分までをフランクリン・ルーズベルトという人物に帰すことさえ可能です。ルーズベルト大統領は、「弱い日本」派の政策を露骨に推進していきます。


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