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国際連盟脱退

 満洲問題は、国際連盟十九人委員会に付託され、最終報告案の作成段階に入りました。日本全権団は、最終報告案の内容が少しでも日本側に有利になるよう各国代表に働きかけました。洋右も各国要人との会談を重ねました。しかし、新年早々、ジュネーブの空気を悪化させる情報が極東から届きます。関東軍と満洲国軍の連合軍が山海関を占領したというのです。

 山海関は古来より満洲と支那とを画する関所です。その山海関には、明治三十四年の北京議定書に基づいて日本軍の小部隊が駐屯していました。その日本軍駐屯部隊に対し、満洲を追い出された張学良の軍閥が挑発的攻撃を繰り返していました。これが山海関事件です。この問題を解決するため関東軍が出動し、張学良軍を追い払い、昭和八年一月三日、山海関を占領したのです。軍事的には合理的行動です。しかし、ジュネーブの国際連盟において日支紛争問題が議されている最中の軍事行動はジュネーブの空気を緊張させ、対日国際世論を硬化させました。しかも、この報道には悪意がありました。張学良軍閥の挑発行為にはいっさい触れておらず、ただ日本軍の占領だけを報じていたのです。この種の捏造偏向報道は世界の通弊です。

 この場合、日本政府は、張学良軍による挑発行為の証拠を収集して国際連盟に提出すればよかったでしょう。あるいは一時的に山海関から駐屯軍を撤退させ、支那軍閥の悪行を国際世論に訴え出てもよかったでしょう。そうすればジュネーブの国際世論は支那批判へと傾斜し、日本への同情が集まったかもしれません。しかし、日本政府は外交と軍事の調整を怠りました。その意味で斎藤実内閣は無策だったと言うほかありません。あるいは斎藤内閣は連盟脱退をすでに決意していたため、もはや国際連盟に対して何らの配慮も必要ないと判断したのかも知れません。

 とはいえ国家全体を指導する政治機能に欠けていたとは言えるでしょう。外交や軍事など個別の行政機構がいかに優秀であっても、国家戦略の視点からする全体的調整に欠けていれば齟齬が生じるのは当然です。明治日本には元老会議という存在があり、圧倒的な指導力で国家戦略を一本化し、各省部の連携を維持していました。ですが、大正期以後、元老の死去とともに国家の調整機能が失われていたのです。

 ともかく山海関占領の情報はジュネーブの国際世論を親支反日に傾斜させてしまいました。さらに悪いことに、一月三十日、ドイツでナチス政権が成立しました。かねてよりベルサイユ条約の廃棄を唱えてきたナチス党が政権を握ったため、欧州各国は緊張しました。

「ここで日本に甘い顔をすれば、ドイツにも甘い顔をせねばならない」

 国際連盟の対日世論はさらに硬化しました。あれほどの喝采を浴びた洋右の名演説も効力を失いました。それでもなお洋右は望みを失っていません。

「要は時をして解決せしむるにあり。連盟の顔はできる限りこれを立て、しかも満洲国に関する限り、わが行わんとするところにだいたい故障を生ぜざらしむる様、落ち着かしむれば、可なり」

 これが洋右の外交目標です。決して完璧主義でも理想主義でもなく、現実的な外交方針です。水面下の交渉では希望が感じられました。なかでも日本に同情的だったのは英国です。サイモン英外相は、和協委員会の設置を日本に提案しました。

「和協委員会に米ソを招いて意見を聴取し、また日支双方もこれに参加して直接交渉してはどうか」

 この英国案は、和協委員会を構成する4ヶ国のみで満洲問題を解決させることができ、総会決議を回避できるという意味で魅力的でした。洋右は、この英国案を受け容れるよう内田康哉外務大臣に何度も請訓電を発します。しかし、内田外相はこの英国提案を拒絶しました。

「アメリカの参加は認められない」

 ワシントン条約で日本を裏切ったアメリカを内田外相は許しません。そして、アメリカの満洲介入を強く嫌悪し、列国による満洲分割の意図を警戒しました。

「満洲国を分割するなど論外である。そもそも満洲に列強を盤踞させれば日本の安全が脅かされる」

 内田外相が英国提案に反対したのにも一理あります。もし日本が英国提案を受け容れ、列国による満洲分割を許容すれば、日本は国際連盟に止まり得、欧米列強との友好を保ち得たでしょう。しかし、満洲には直線的な国境線が引かれ、列国の軍隊が駐留することになります。アフリカや中東やアジアで実施された植民地分割統治が満洲で実施されるのです。

「すでに満洲国としてまとまっているものをわざわざ分割するなど不合理きわまる」

 これが内田外相の判断でした。確かにそのとおりです。さらに付言すれば、もし日本が欧米白人国家と完全な協同歩調をとってしまえば、白人による世界支配は果てしなく続くに違いなく、パリ講和会議において人種差別撤廃条項を提案した日本の国是と合致しません。こうした内田外相の自主外交路線が斎藤内閣の決定事項となりました。日本政府は、あくまでも日本の価値観を貫こうとしたのです。列強白人諸国の走狗になりさがって人種差別的世界構造に加担するのか、あくまで人種偏見に抗議してアジアの解放を訴えるのかという、日本にとっての大きな岐路でした。

 こうした日本政府の外交方針に洋右は必ずしも賛成ではありません。自主外交は支持するものの、あくまでも国際連盟との妥協を計る方が国益にかなうと考えました。洋右には、内田外相とは異なる独自の満洲観があります。

(かつて小村寿太郎外相がハリマンの共同経営案を蹴った明治の頃とは事情が違うのだ。すでに満洲には満鉄による経済発展の実績があり、この事実は相手が列国であろうと国際連盟であろうとビクとも揺らがぬ。いや、むしろ列国に見せてやればよい。たとえ満洲が列国によって共同管理される事態になるとしても満洲の主導権は日本が把持すればよい。それができるはずだ)

 しかし、洋右の執拗な電請も虚しく、日本政府は英国提案を拒絶しました。このため英国の対日態度も冷淡になりました。日本政府の方針がここまで強硬であってみれば、特命全権代表とはいえ、洋右にできることはもはや何もありません。


 十九人委員会起草の最終報告案は、日本側として受け容れ難いものになることが確実となりました。満洲国を承認するかしないかという一点に限ってみても、もはや妥協の余地がないのです。こうした状況の二月十六日、日本全権団は本国に悲痛な請訓電を送りました。

「最終報告案は、結局、我が方において受諾し得ざるものたるべきは想像に難からず。総会において右報告案採択せられんとする場合、我が方として単に代表部引き揚げのごとき姑息の手段は、この際、断じてとるべきに非ずと確信す」

 要するに、国際連盟からの脱退を要請したのです。これは松岡洋右、長岡春一、佐藤尚武の三名が協議したうえで発した請訓です。全権団内の議論では、洋右が最後まで連盟脱退に消極的でした。しかし、長岡、佐藤両全権の「もはや、やむなし」という意見に洋右も最後は同意しました。洋右とて、日本の価値観を世界に訴え、日本精神を世界に広めることに異存はありません。ただ、国際連盟から脱退してしまうことは日本の国益に反します。可能ならば脱退しない方がよい。しかし、日本政府、国内世論、全権団ともに脱退論に傾いてしまい、洋右も大勢には同調するほかありません。全権団は翌日にも政府に追電しました。

「事ここに至りたる以上、何ら遅疑するところなく、断然、脱退の処置をとるに非ずんば徒に外間の嘲笑を招くに過ぎずと確信す」

 国内では石井菊次郎をはじめとする外交の重鎮や、国際協調主義の幣原喜重郎までが「脱退やむなし」の意見を表明していました。このため日本政府はいよいよ連盟脱退の腹を固めます。

 二月十七日、洋右のもとへ訓電が届きました。「総会より引き揚げなどの手順に関し回訓」と題されたもので、連盟脱退時の諸手続きが指示されていました。そして二月二十日、斎藤内閣は閣議において、国際連盟へ脱退通告書を提出することを決定しました。日本政府は満洲を確保する代償として連盟脱退を選んだのです。自らすすんで十字架にのぼることを決断したといってよいでしょう。

 国内政治ではノラリクラリと見事な腹芸をやってのける日本の政治家や官僚でしたが、外交場裡においては実に真面目で潔癖でした。国家の尊厳や民族の面目に強くこだわりました。誇り高き大和民族という意識が非常に強かったのです。敗戦後の日本人がすっかり失っているこの気高さこそ、大日本帝国時代の日本人の特徴です。主張すべき意見を述べ、それが容れられないなら「もはやこれまで」と脱退する。まさにサムライであり、損得勘定は二の次です。蒋介石の薄汚いまでの往生際の悪さに比べるとあまりに美しい。ですが、現実利益を追求すべき外交に過剰な美意識を持ち込んでしまったことは自主外交路線の誤謬だったでしょう。

 国際法や条約は国家間の合意で成り立っています。世界政府が存在しない以上、国際法や条約を破っても必ずしも制裁されるとは限りません。現に中華民国政府は国際法違反や条約違反を数限りなく冒していますが、列国の制裁を受けない場合の方が多いのです。日本政府もまた懲罰を与えませんでした。つまり、国家の名誉の問題を別とすれば、国際法や条約を破ったところで実害は小さいのです。それが外交の現実です。

 だとすれば、日本は国際連盟総会の決議に背きつつ、国際連盟に居すわっていても何ら不都合ではありません。総会決議に違反したからといって制裁を受けると決まっているわけではないからです。当時の日本外交にふてぶてしいまでの厚顔無恥さがあれば、脱退という決断を回避し得たでしょう。ですが、結局、当時の日本人の国民性がそれを許しませんでした。

 日本政府や新聞各紙の勇ましさとは裏腹に、洋右は私信の中でその本音を吐露しています。三田尻の母に宛てた手紙です。

「こちらのおしごとはよくゆかず、まことに天子様へも国民へもすまぬと存じますが、あるひはこんなことになるのはうんめいで、またお国のためにけっくよいことになるのかもしれませぬ。こんなになります以上、これから私どももますますお国のためにはたらかねばなりませぬ」

 洋右の本意に反し、日本政府は国際連盟からの脱退を決定しました。しかし、国際連盟からの脱退が国民の団結を強めるのならば、禍を転じて福となすことができるかもしれない、洋右はそう考えました。


 二月二十一日、ジュネーブで国際連盟総会が再開されました。その二日後、満洲国軍と関東軍は熱河省へ進撃を開始しました。国際連盟総会においてリットン調査団最終報告案の議決が行われる前日です。もはや大勢が決していたとはいえ、国際連盟総会に対する日本政府の配慮の無さ、外交と軍事を調整できない無策ぶりは弁護のしようもありません。ほんの一年前には軍事と外交の見事な連携で第一次上海事件を収束させてみせた同じ日本が、どうしたことでしょう。この熱河作戦はけっして関東軍の暴走などではありません。閣議決定を経て実施された正式作戦です。日本政府の態度がこのようであってみれば、ジュネーブの洋右はもはや「外交の小使い役」でしかありません。

 二月二十四日、リットン最終報告案が国際連盟総会の議題となりました。まず中華民国代表の顔慶恵が演説し、次いで洋右が演壇に立ちました。洋右は最終報告案の瑕疵(かし)を指摘し、日本は賛成できないことを表明し、その理由を述べ、各国代表に対して最終報告案の不採択を訴えました。そして、演説の最後を次のように締めくくりました。

「もし諸君が極東の平和に関心をお持ちならば、すでに私が指摘したとおり、真の問題は支那の無政府状態であるとお気づきになるでしょう。しかし、諸君は支那の無政府状態について何の対策も持っていない。満洲問題とは、要するに支那の無政府状態の帰結です。諸君は満洲問題に対する熱意を持ちながら、極東問題の根本的大問題、つまり支那の無政府状態を看過しているのです。諸君は支那の無政府状態をどうするというのですか。

 日本を取り巻く環境からすれば、最終報告案に反対する以外、日本には選択肢がありません。反対するほかないのです。

 我々は可能な限り支那を助けたいと思っています。我々は真剣です。我々の好むと好まざるとにかかわらず、これは我々の義務なのです。逆説的に聞こえるかも知れませんが、真実です。満洲を独り立ちさせようとする日本の努力が、いつかは諸君に理解されるものと信じます。日本の希望と義務、それは支那を助け、東アジアに平和を確立することなのです。諸君は日本にその機会を与えますか、それとも与えませんか。どうぞ信じて下さい。過去六十年間の日本の歴史が証拠です。争乱と破滅ばかりをもたらしてきた満洲に、日本が秩序を築いてきた歴史は無価値なのでしょうか。我々の主張を否定するのは誤りです。極東の平和のために、そして世界平和のために、最終報告案を採択しないで下さい」

 この後、リットン調査団最終報告案は圧倒的賛成多数で採択されました。洋右は演壇に立って宣言文を朗読し、降壇すると着席せぬまま日本全権団員を促して議場を去りました。


挿絵(By みてみん)


挿絵(By みてみん)


 国際連盟における感動的な演説と劇的な退場によって松岡洋右の名は国際的に高まり、洋右は時の人となりました。世界中の新聞記者が洋右を追い回します。

 洋右はジュネーブからパリに移動し、しばらくマジェスティック・ホテルに滞在した後、渡米するためアメリカの豪華客船リバイアサン号に乗船しました。その目的は、日本の立場をアメリカ世論に訴えるとともに、主要人物と会見してアメリカの情勢を見定めることでした。

 リバイアサン号にはアメリカ人記者が四十名ほども乗り込み、昼夜を問わず洋右を追いかけました。その執拗さには、話し好きの洋右でさえ辟易せざるを得ません。アメリカ人記者たちは南洋諸島問題をしつこく質問します。日本は国際連盟から委任されて南洋諸島を統治しています。もし日本が国際連盟を脱退するなら、南洋諸島の統治はどうなるのか。口にこそ出しませんが、アメリカは南洋諸島を欲しているのです。洋右は、特命全権大使という立場上、軽々しいことを言えません。日本政府はまだ公式の脱退通告を国際連盟に提出してはいないのです。やむなく洋右は曖昧な言葉で質問をはぐらかしつづけました。しかし、アメリカの記者連中は無理にでも洋右の口を割らせようと食らい付いてきます。長く不毛なやりとりの末、洋右はついに反撃に出ました。

「諸君、そもそもアメリカは南洋諸島を欲しがっているのかね。だからこそ、しつこく訊くのだろう。アメリカが南洋諸島を欲しがっていると日本人に悟られたら、むしろ逆効果ではないのかね。そこの君、どうかね、君は南洋諸島が欲しいのかね」

 指さされたアメリカ人記者は「ノー、ノー」と言って顔をそむけ、逃げ出しました。以後、記者団は沈黙しました。

 ニューヨークに上陸した夜、洋右に来客がありました。満鉄ニューヨーク事務所の郷敏(ごうさとし)です。郷は、満洲事変勃発以来、アメリカ世論をリサーチして満鉄本社に報告し、また日本の立場を米国内で広報宣伝しつづけてきました。その経緯と近況を郷は報告します。

「申すまでもなく我が政府の見解は、支那のごとき無秩序状態国家に九ヶ国条約の適用は困難であるというにあります。しかし、スチムソン国務長官はわが日本の見解を一蹴し、支那の現状が混沌たればこそ支那の宗主権の不可侵を九ヶ国条約により協定したのであると断じています。日米の見解は全く相反しております」

 スチムソン国務長官の見解は、内政統治能力のない中華民国政府の主権を侵すなということであり、事実上、支那大陸を無政府状態にしておけという無茶な論理です。これでは日本人居留民はなぶり殺しにされてしまいます。日本政府は繰り返し事情を説明し、アメリカ政府に理解を請いました。しかし、アメリカ政府は頑なでした。郷敏の説明は続きます。

「新聞の論調ですが、ハワード系は猛然と日本を非難しておりますが、ハースト系などの保守陣営は比較的に慎重な論調です。わが日本としては、この際、米国世論を刺激しないよう留意することこそ有利であると思います」

 郷の言葉が終わらぬうちに洋右は声を押しかぶせました。

「馬鹿者!」

 郷は洋右の逆鱗に触れてしまいました。

「キサマにはまだアメリカが解らんのか。日本人は生まれながらのアポロジストだ。しかし、アメリカ人相手に弁解は通らぬ。日本の外に一歩でも出たら、日本人はアポロジストをやめねばならぬ。頭を下げてはならぬ。意味もなく譲るから痛くもない腹をさぐられ、底意を勘ぐられるのだ。この呼吸がわからぬ限り、外交などできぬ」

 こののち洋右は、ほぼ二ヶ月をかけて北米大陸を横断します。このとき、大統領に就任したばかりのフランクリン・ルーズベルト大統領との会談が予定されていましたが、国務省極東部長によってキャンセルされました。とはいえ、洋右は北米大陸を横断しつつ多くのアメリカ要人と会見し、在米邦人と意見交換し、講演し、記者会見し、ラジオに出演しました。

「極東に浸透する共産主義を日本はアメリカと共に防衛して資本主義を守りたい」

 洋右は明確に訴えました。概して口の重い日本要人のなかにあって洋右だけは饒舌です。このためアメリカ人記者の評判は概して好評でした。評判のよさは洋右の率直さによります。アメリカ仕込みの洋右は、日本的な遠慮をいっさい封印し、アメリカ人のように言いたいことをズバズバ言いました。例えば、アメリカの新聞王ロイ・ハワード主催の会見において洋右は歯に衣着せず挑発的な発言を繰り返しました。

「日本はアメリカの利害関係に脅威を与えるほどに強くもなければ金持ちでもない。われわれ日本人は、世界で最も豊かで地歩の安定したアメリカと戦っても勝ち味のないことを知っている。だからこそアメリカが日本を危険視する理由がわからない」

 これは洋右の本音です。洋右にはアメリカと戦う意思などはなく、また日本の実力もよくわかっていました。

「日本はアメリカの近くに艦隊を置いてはいない。しかしアメリカは極東に艦隊を持っている。すでにアメリカの方が日本に対して有利な地位にあるのに、もっと有利にしたいのはなぜか」

「日本はアメリカに害を加えることはできないが、アメリカは日本に害を加えることができる。アメリカは実際に日本に危害を加えたいのか」

 軍事的にみればアメリカは日本を凌駕する実力を有しています。その点を洋右は強調し、アメリカ世論を安心させようとしました。次は支那論です。

「支那には四億五千万の人民がいて、その購買力は莫大であるという話、こんなデタラメはない。支那人の大部分は、その日の衣食に窮している。一日に十銭も収入があれば大喜びなのだ。こんな貧乏で、そして無秩序な人民が、どうして米国製品を買うことができるか。反対に、日本は多額の原料品や製品をアメリカから輸入している。世界中で大英帝国を除き、日本ほど大きく広い門戸を開いてアメリカ製品を買っている国はない。それにもかかわらずアメリカは、日本が支那の門戸を閉鎖しようとしていると論じている」

 アメリカ人が支那大陸に対して有している根拠のない妄想を洋右は容赦なく打ち砕きます。日本は貿易の門戸を開放していたし、貿易相手として日本ほどアメリカに貢献している国はありません。洋右は、その事実を訴え、さらに歴史を語ります。

「なぜ万里の長城が建設されたのか。それは支那人が長城外の民族、すなわち支那人のいう野蛮人を支那に入れぬためである。三百年ばかりの昔、満洲人が支那を征服したとき、支那と満洲はともに清朝領となった。しかし、清朝は満洲を私有財産と見なし、二十世紀の初めまでは支那人に長城を越して満洲に移住することを許さなかった」

 アメリカ人には支那人と満洲人の相違などわかりませんし、わかろうともしません。たとえ面倒でも根本から説明してやらねばなりませんでした。

「支那人はかつて露国をして日本と戦わしめ、今また米国をして日本と戦わしめんと策動しつつある。アメリカ人諸君、支那人の煽動に軽挙妄動して乗ぜられてはならない。強国と強国とを相互に戦わしめんとするのが支那の政策だ。極東の平和は日本に待たずして招来することは不可能である」

 アメリカ政界には、日本支持派と支那支持派とがあります。これを意識した洋右の発言です。さらに洋右はアメリカ人の独善性と論理矛盾を突きます。

「理解できないのは、アメリカが日本に対してのみ条約に忠実なれと要求することである。同じことをなぜ中華民国や欧州各国に要求しないのか。日本人に判らないのは、アメリカがシカゴの道徳性を問題にせず、満洲国の道徳性ばかりを問題にすることである」

 痛烈な皮肉です。外交家の立場でこういう意見を口にするあたり、洋右の性格が露骨に表れています。

「西洋人は、我々が本を尻の方から読むと言って笑う。東洋人よりもはるかに遅れて文字を読むことを覚えた西洋人が、こういって東洋人を笑うんだ」

 アメリカの聴衆は苦笑せざるを得ません。アメリカ本国においてアメリカ人を相手に、これほどあからさまにモノを言った日本人外交家が存在したことは記憶されてよいでしょう。こうした洋右の発言は、一見、アメリカ人を挑発し、友好を阻害しているかのようです。だから同行の日本人はハラハラし、ヒヤヒヤしました。しかし、そうではなかったのです。率直と公平、アイロニーとユーモア、このアメリカ的な価値観とセンスを洋右は忠実に体現して見せたのです。それでこそアメリカ人は納得します。アメリカにおいては洋右流のやり方こそむしろ穏当だったのです。アメリカでは、日本的な謙譲こそ誤解の原因となり、危険です。荒野の一本道で道を譲ったらどうなるか。相手が日本人ならば感謝されるが、アメリカ人なら拳骨が飛んでくる。この文化の違いを誰よりも熟知していたのは洋右でした。

 こうした洋右の言動を苦々しい思いで眺めていたのはフランクリン・ルーズベルト大統領だったでしょう。洋右は、新大統領を民主主義者だと信じて疑いませんでした。アメリカ国民もそうでした。しかし、フランクリン・ルーズベルト大統領はおどろくべき容共主義者だったのです。


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