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プロローグ

 諸子百家とよばれる論客たちがさかんに諸国を遊説していた頃、支那大陸の中原では斉楚秦燕韓(せいそしんえんかん)魏趙(ぎちょう)という七つの王朝が覇を競っていました。七国のなかで最も強勢を誇っていた秦は、中原の西方に盤踞し、東の六国に対して領土を割譲して同盟するよう要求していました。

 その秦の恵王に拝謁し、覇業の献策をしたのは蘇秦(そしん)という論客です。しかし、恵王は蘇秦の策をしりぞけました。蘇秦は秦を去り、燕の文侯に説きました。

「趙と従親すべし」

 燕と趙とが同盟して秦にあたれば領土を割譲する必要はない、と説いたのです。燕の文候は蘇秦の策を気に入りました。そこで蘇秦に()を与え、趙におもむかせて説かしめました。

「六国が従親して秦を退くべし」

 蘇秦の策を趙の粛候は(りょう)としました。粛候は蘇秦に資を与え、命じて斉楚韓魏の諸侯を説得せしめました。蘇秦は諸国を歴訪し、

「むしろ鶏口となるも牛後となることなかれ」

 と諸侯たちの自尊心をくすぐって籠絡し、六国を合従(がっしょう)させることに成功しました。こうして蘇秦は六国の宰相となったのです。

 蘇秦の立身出世よりも一歩おくれて秦の謀臣となった張儀(ちょうぎ)は、六国の合従同盟を崩すため連衡(れんこう)策を推進します。六国の同盟を解体させ、秦と同盟を結ばせようとしたのです。


 蘇秦と張儀の故事から縦横家(しょうおうか)という言葉が生まれました。ここでいう縦横とは、合従と連衡のことです。そして、縦横家とは、いわば外交を専門とする遊説家のことです。縦横家として名を残した人物は支那史においてさえ多くありません。すぐれた外交家は同時にすぐれた内政家であったり、武将であったりするからです。日本史においても同様です。縦横家の名に値する人物を思い起こそうとしてもすぐには浮かびません。強いてあげれば戦国期の安国寺恵瓊や、幕末の坂本龍馬でしょうか。あるいは松岡洋右(ようすけ)こそ縦横家と称するにふさわしいかもしれません。

 山口県に生まれ、その青春期をアメリカで過ごした松岡洋右は、いかなる組織的背景も持ちませんでしたが、日本人ばなれした英語力と演説の妙と駆け引きの才で成り上がり、外交家としての地歩を確立しました。

 国際社会のなかで器用にふるまえない訥弁(とつべん)国家、それこそが日本の真の姿でした。そんな日本にただひとり存在したのが異能の外交家松岡洋右です。松岡に大きな期待が集まりました。松岡は、共産主義と列強に対する警戒を怠らず、権謀術数うずまく戦間期の国際情勢を読み、一時期の日本外交をリードし、日米戦争を回避するために非常の奇策を案出して日米和解を実現しようと奮闘します。


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