第三話
翌日は休日。友達からの誘いを初めて断った。気分が乗らなかったのだ。自室でゴロゴロしていると、あっという間に夜になっていた。
「はあ……」
ベッドに仰向けになりながら、天井に向かって大きなため息をつく。私は何をしているのだろう。いや、何もしていないか。そんな空虚な気持ちを紛らわすために、スマホで動画を見ることにした。
アイドル ライブ
自然と指が動いていた。検索結果の一番上を再生してみる。
「いいなあ……」
とあるアイドルグループのドームライブの映像。動画中の彼女らは皆、楽しそうだった。うらやましい。私もこんな風に大きな感動を創りたい。アイドルをやってみたい。そうだ、試しにちょっとだけ、ちょっとだけやってみよう。自室で隠れてやれば、お母さんにも怒られないはずだ。
「~♪」
見よう見まねで歌ってみる、踊ってみる。やっぱり楽しい。心にまとわりついていた劣等感や空虚感がスッと消える。今、この瞬間に没頭する、久しぶりの感覚。
それ以来、私は隠れてアイドル活動をするようになった。平日は自室で、休日はカラオケボックスで独り練習。練習とは言っても既存曲の猿真似なのだが、時折、歌詞や振り付けを自分好みにアレンジもしてみた。「ああでもない」「こうでもない」とウンウン悩み、結果、上手くいったり、いかなかったりすることが、自分の好きを表現できているようで楽しかったのだ。
反面、大学生活での違和感は日に日に膨らんでいった。講義中も頭の中はアイドルのことばかり。この時間を練習に使えたらと何度思ったことか。もちろん、友達を誘ってグループを結成してみることも考えた。しかし、もしかしたら友達もお母さんのように凶変するのではと、怖くて何も打ち明けられなかった。
抑圧と孤独、そして違和感は、確実に私の心を限界に近づけていったのである。
「ただいま!」
今日は大学から早く帰れた。私は、たくさん練習できるとワクワクしながら、素早く部屋着に着替えると、すぐに自室に駆け込んだ。今は振り付けをアレンジしている途中。自分で考えながらステップを何度も踏み直す。
「♪♪♪♪」
お気に入りのステップが見つかった。いや、もっと良くできるかもしれない。そうやって試行錯誤を繰り返す内に部屋が暗くなるが、いつも電気をつけ忘れる。それぐらい没頭していた。とにかく夢中だった。そう、背後の存在にも気づかないほどに。
「バレていないと、思っていたの?」
ビクッと、体が一瞬で凍り付く。次いで背筋を冷や汗が滴り落ちる。あの日と同じ、低く冷たい声。恐る恐る振り返ると、そこには険しい表情のお母さんが、こちらをジッとにらみながら立っていた。
「何でノック……」
「私がノックしたら、すぐにやめて、嘘をつくつもりだったの?」
すべてを見透かされている気がした。言いよどむ私に、お母さんが畳みかける。
「今すぐやめなさい」
その言葉の圧に押しつぶされそうになる。何が彼女をここまで駆り立てるのだろうか。わからない。わからないが、もう逃げ場はない。
「い、嫌だ……やめたくない」
隠れて練習していることがバレた今、厳しいとはわかっていても、正面から戦っていく他ないのだ。
「お母さん……私、アイドルになりたい。東京に行って、アイドルとして生きていきたい。もう自分に嘘はつきたくない……!」
「ダメよ」
本心のままに懇願するが、あっさりと一刀両断される。
「アイドルは幸せになれないって言ったでしょう? お母さんは、あなたに普通に幸せになって欲しいの。大学に行って、会社に行って、いい人を見つけて……安定した道を歩んで欲しいのよ。これは、あなたのために言っているの。日葵、わかって頂戴?」
「お母さんの方こそわかってないよ……! 私は、その普通の道じゃ幸せになれないの。毎日苦しくて仕方がないの。……他人の幸せを勝手に決めないでよ!」
反抗心が高まっていく。こんなに親に真正面から歯向かったのは、人生で初めてかもしれない。
「お母さんは……私が好きなことをやるのが嫌いなの?」
私が知っているお母さんは、そんなはずはないと信じつつ、問う。
「ええ、それがアイドルなら嫌いよ。全力であなたを止めるわ」
そのバッサリとした答えは、目の前の人物が、もはや自分の知るその人ではないことを実感させた。だめだ、このままではいくら話し合っても、分かり合う未来はやって来ないだろう。攻撃に出るしかない。反論をぶつけてみる。
「そもそも何でアイドルは幸せになれないって決めつけるの? 何も知らないくせに……!」
「知っているわよ。あなたが何も知らないだけ」
揺るぎのない断言。相手の、まるで経験してきたかのような自信に困惑する。もしかしたら本当に経験してきたのかもしれない。いや、そんなはずはないが、だとしたら相手が悪すぎる。
「それじゃあ逆に訊くけど……日葵、あなたは本気でアイドルをやりたいの? たった一回のライブと数回の練習で、私は本気なんですって心の底から胸を張って言える?」
「……い、言える」
「口だけなら何とでも言えるわ。その根拠は何?」
カウンターのごとく鮮やかな質問。何も言い返すことができない。
「黙るのね。まあいいわ。もう一つ、東京に行くって言ってたけど、大学はどうするの? まさか簡単にやめるなんて言わないでしょうね?」
やめたい、なんてこの場で言えるわけがなかった。そんなことを言えば、それこそ相手を爆発させてしまうだろう。
「もし上手くいかなかったら、それから先はどうするの? 大学を辞めたら高卒扱いになるのよ? それがどれだけ厳しいことかわかってる?」
「生活費はどうするつもり? まさかアイドルだけで生計が立てれると思っているの?」
「曲はどうやって準備するつもり? 衣装は? 私服のまま踊るの?」
質問攻めにあう。どれも現実的で、正論で、私は口をつぐんだまま、ジッと耐えるしかなかった。いかに自分が何もできないか、何も考えていないか、痛いほど理解させられる。
「日葵、あなたは本当に本気なの?」
悔しかった。一つぐらい言い返してやりたかった。そんな不貞腐れて黙り込む私に嫌気が差したのだろう、ついにお母さんが声を荒げる。
「……黙っていないで、何か答えてみなさい!」
それと同時に私の感情も溢れた。
「うるさい!」
「!?」
あまりに力任せな声に、のどが引き裂かれる。頭が破裂しそうだ。目の前が涙でにじむ。
「うるさい、うるさい、うるさい! わかんないよっ……そんなこと!」
感情に任せて出てきたのは幼稚園生のような言い返しだった。
「もういい! 出ていく!」
「日葵!? 待ちなさい!」
相手の脇をすり抜け、自室を出ていこうとしたが、腕を捕まえられる。その腕を必死に引っ張るが、なかなか振りほどくことができない。
「ここにいると、私が私じゃなくなっちゃう! 離してよ!」
「だ、ダメよ……!」
「そうやってダメダメダメダメばっかり! 私、何にもできないじゃん!」
「これまで好きにさせてきたじゃない……!」
「じゃあ、アイドルも好きにやらせてよ! 何でそこだけダメなの!? 意味わかんないよ!」
「アイドルはダメなのよ…… 幸せになれないの」
「だから何でそうやって決めつけるのさ! アイドルのことも、私の生き方のことも!」
私はお母さんをにらみながら、こう言い放った。
「お母さんなんて大っ嫌い!」
心にもないことを言ってしまったと一瞬後悔する。しかし、高まりすぎた怒りがそれを飲み込んだ。力の緩んだ手を振りほどき、そのまま逃げるように家を飛び出した。
「バカッ……バカッ……みんな大っ嫌いっ……」
とにかく走った。完全に自暴自棄だった。道行く人の視線なんて気にせずに、夜道を全力で駆け抜ける。逃げて、逃げて、逃げ続ける。そうやってどれぐらい走ったのだろうか。
「うわあっ!」
思いっきり転ぶ。右ひざにズキッとした痛み。見ると、擦りむいて血が出ていた。
「いたあい……」
その場でうずくまった時、自分が裸足だと気づく。我に返り、辺りを見渡す。
「ここどこ……」
アスファルトを照らす街灯と犬の遠吠え。そこは知らない住宅街だった。慌ててポケットを探るが、スマホがない。ついでに財布もない。
「これからどうしよう……」
行く当てなどない。しかし、帰れる場所もない。そもそもがむしゃらに走ってきたせいで、帰る道筋すら分からない。
「ひぐっ……」
誰も助けてはくれないし、守ってもくれない。今、自分は本当に独りなのだ。そう孤独を実感した瞬間、未来に対する不安が次々と押し寄せてきた。これからどこに寝泊まりしよう。どうやって食事を得よう。自分では何一つできないことに気づき、絶望した。
「ひぐっ……おかあさあん……」
今まで自分がいかに周りの人に温かく見守られてきたか、その人たちが用意してくれたレールをただのうのうと歩いてきたか、こんな状況になって初めて理解できた。
足の痛みに耐えながらフラフラとさまよう夜。日葵十八歳、生まれて初めての家出である。