自由と束縛の関係性について
自由とは選択肢の多様性のことであり、束縛とは刈り取られた枝のことだ。
束縛がなくとも自由はあるが、束縛されたほうが、より多くの自由を得られる。
それはつまり木の剪定にも似ているものだ。人の法とは、そういうものらしい。
物が欲しけりゃ金を払え。
経済社会のあまりにも基本的すぎるルール。世の中で、もっとも身近に感じられる束縛が守られなかったとき、商品棚からは商品が消える。当然のこととして。
それはつまり選択肢を失うことであり、それはつまり不自由になることだ。
政府の目指すところは最大多数の最大幸福と、ジェレミー=ベンサムは語った。
そのついでに、いかなる法律も自由への侵害であるとも語った。
どうやら彼にとって、自由と幸福はイコールで繋がるものではなかったらしい。
たしかにその通りだというところもある。
多くの人にとって、自由が完全となる状況は孤独のときに違いない。
だからといって孤独のときが幸せかと想像してみたなら、案外そうでもない。
太平洋にポッカリ浮かんだヤシの木いっぽん島に独りぼっち。
さぁ、自由だ。さぁ、幸せだ。という具合にはなかなかいかない。
それが幸せだと言う人も居るのだろうが、多くの人は寂しいと答えるだろう。
もっと簡単な例に落とし込もう。
メリークリスマスな日。独り身が良いか、二人が良いか、どちらが幸せか、ここまで平らな問題なら1+1ほどに迷いようがない。1+1の答えがドッキングになる日のことだ。
丸いケーキを独り占めにはできない不自由があるけれど、半分になったケーキをお互いのフォークで相手の口に詰め込みあうゲームも楽しめる。
さて、二人になるということは、社会になるということだ。
互いに互いの自由を侵害しあう、最小単位の社会がここにある。
だが、自由を侵害しあった結果、さらなる自由がここには生まれている。
二人でしか出来ないことが、新しい選択肢が、ここにはある。
将棋とか、オセロとか、そういう健全なもののことだ。
ゲームのルールを守らなければ友達を失う。独りぼっちに逆戻りだ。
不自由が自由を生みだし、自由が不自由を生みだすという状況がうまれる。
あらゆる法律は自由への侵害だが、あらゆる法律は自由の源泉でもある。また、あらゆる法律はそのようにあるべきだ。
ベンサムの残した言葉を引用するなら、このように語れる。
ところで、幸福の定義ほど難しいものもない。
男は女を求めるし、女は男を求めるものだ。この時点で人類の半数が意見を別にしているということになる。そのおかげで、人類は滅ばずにやってこれた。
個々の男でも好みは分かれるし、個々の女でも好みが分かれる。
多様なニーズと多様な供給。これによって人類は上手くやってこれたわけだ。
もしも幸福を一元化しようと試みるなら、男と女の好みというやつを、価値観というやつを、まず一元化しなければならないし、無理だ。
過去に多くの哲学者や経済学者が、人の幸福の数理モデル化や一元化に挑んだのだが、いまだにしっくりとした答えを得られないのは、つまり男と女のあいだに生まれる幸福という普遍的なテーマに答えを出せずに居るからだ。
できるものならやってみろ。
世の中には、高級な喜びと低級な喜びがある、と言った人が居る。
ジョン=スチュワート=ミル、ベンサムの起こした功利主義をさらに推し進めた人ではあるが、彼に言わせると先程の話はこうなるらしい。
世の中には高級な女房と、低級な女房が居る。
なんとはなしに、正解なような気もするが、認めてはならないような気もする。
さて、高級な嫁と低級な嫁を区別するリトマス試験紙はこうだ。
両方を経験した人の、より多くが高級と認めた方が高級。つまり多数決原理だ。
AKB48になぞらえれば、センターに近いほうが高級であるらしい。
わかりやすいと言えばわかりやすい。認めがたいと言えば認めがたい。
とくに端っこのほうを推してる人は絶対に認めないし、血を見ることだろう。
どうにもこの方法論は、粗雑にすぎるよう感じられる。
では、幸福になんらかの尺度を与えられないものかと考えた。
例題の1。
三つのうちで、一生飲めなくなっても構わない飲み物はどれ?
1・紅茶 2・コーヒー 3・コーラ
この不人気投票でどれが一番になったとしても、高級と低級を判断する基準には適わないことだろう。これらは個人の好みに属するものだし、あまりにも効用が似すぎている。
例題の2。
生涯を核シェルターのなかで過ごすとして、三つのうちのどれを持ち込むか?
1・シェイクスピア全集
2・ルノワールの絵画
3・理想の嫁/旦那(二次元も可とする)
高級と低級の判別に票数が役にたたないというのは先に示した通りになる。
だが、おおよその票が3に集中したことだろう。
そこで、「なぜ集中したのか?」について考えてみる。
おそらく理由は、ひとりが寂しいからとか、二人だと楽しいからとか、二次元だからとか、色々と思いつくことだろう。そしてその理由の多様性こそが多くの人に3を選ばせる動因であると、わたしは見る。
シェイクスピア全集のもつ効用は、ひどく狭い。
ルノワールではなく、ルーブル美術館を持ってきても、やはり狭い。
理想の嫁や旦那がもつ効用の幅は、ほかの二つに比べ、とても広い。
効用には広さや狭さ、つまり自由度があるのだ。
自由度とは、つまり多様性の幅に他ならない。
知ってか知らずか我々は、幅広い多様性を選択していたのだ。
こうして幸福の尺度に自由度という概念を与えることができた。
ここで話はベンサムに戻る。
政府の目指すところの最大多数の最大幸福とは、具体的になにものであるかだ。
結果から言ってしまえば、社会がもつ自由度の最大化に他ならない。
より多くの人が、それぞれが望むままの、幸福を追い求められる自由状態。
これが法律、言い換えるなら束縛に求められる原則だ。
法律は幸福自身を与えることはできない。与えられるのは追求する機会のみだ。
つまり、最大多数の最大幸福が為された社会にあっても、追い求めない者が幸福に辿り着くことは無い、という身も蓋もない話になる。
怠け者の楽園というのは、どうにも存在しないものらしい。
すこし話が逸れた。
ここでの論旨は自由と束縛の関係性についてだ。
簡潔にまとめる。
完全な自由状態、孤独にある人は自由度が低い状態にあり、法の保護下、束縛にある人こそ自由度が高い状態にある。そして、社会のもつ自由度の最大化こそが法の目指すべきところのすべてである。これが自由と束縛、人と法の関係性についてのすべてになる。
また、束縛によって享受される自由こそが、社会に対する人の道義的責任の根拠となり得る。
さてこれを、どうやって中学生に説明したものやら。