第8話 後輩 其の五
ナラビカミ【後輩:其の五】
5月31日。
あれから3日が経ち、今は平穏な学校生活を送っている。
普段と違う点を挙げるなら、海未と登下校しない事と、
小泉がまだ学校に復帰していない事だ。
平穏だ、あぁ…確かに平穏なんだ。
でも、これは俺の求めた状態じゃない。
教室から雲1つない窓の外を眺め、その眩しさに目を細める。
もう5月も終わりのせいか、今日は妙に暖かい。
退屈な授業も合わさり、沼に沈むようにゆっくりと抗えぬ眠りへと…。
・・・・・
・・・
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「い…な…………だよ!…達…兄……んだか……」
なに?よく聞こえないぞ。
壊れたラジオのようにぶつぶつと音は途切れ、彼女の声は聞き取れない。
「かかかかんけかかかかかんけかかかかかんかんけかかか」
うわっ!なんだ?この男の声は…頭の中で響くような…。
本当に壊れてるんじゃないのか?
俺は声の主を探そうとするが、目に映るのは完全な闇だけだった。
右を向いても左を向いても闇、闇、闇。
だが、この闇は気持ち悪いものではなかった。
不思議と落ち着くような…何も感じなくなってゆくような…。
気がつけば不快な声は消え、静寂が俺を包む。
そのまま闇のゆりかごに身を委ね、意識は闇に溶けてゆく……。
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・・・
・
目覚めはいつも最悪だ。
寒気で身震いし、擦る事で少しでも震えを落ち着かせる。
時間は………まだ昼前か。
どうやら授業が終えるとこのようだ。
皆、早く飯を食いたいのかそわそわとし始めている。
俺は体温が戻るのをじっと待ち、黒板を眺めて勉強しているフリをする。
すぐにチャイムが鳴り皆が一斉に動き出した。
体温はもうだいたい戻ったが若干の肌寒さを感じ、
俺は自作の惣菜パンの素を手に中庭へと向かう。
ちなみに今日はたまごサンドだ、むしろそれオンリーだ!
ゆで卵にマヨネーズを加えて潰し、塩コショウで味を整える。
コショウとマヨネーズを少し多めに入れるのが俺のこだわりだ。
マヨネーズは少なめの方が卵の味が殺されないとか知るかっ!
俺はマヨと胡椒の味が好きなんだよ!
で、ある程度白身の形を残した状態まで潰したらタッパーに詰め、
後は食べる前に食パンに挟む、それだけだ、簡単だろ?
食パンは6枚持ってきているが、材料費は何と150円以下!
簡単、美味い、安いと三拍子揃っている完璧なメニューなのである。
中庭にあるベンチは埋まっており、
仕方なく日陰にある校舎裏のベンチへと向かう。
やっぱこっちは空いてるか…ちょっと肌寒いもんな。
このままウロウロとする気にもなれず、そのベンチに陣取り、
一人でせっせことたまごサンドを作っていると、突然声をかけられる。
「せ~んぱいっ」
「うわっ!ビックリした…なんだ、小泉か」
図体の割に小心者な俺はたまに自分が嫌になる。
自己嫌悪している俺に小泉はクスクスと笑い、自己嫌悪が加速する。
しかし、小泉の笑顔は今までで1番いいものだった。
「先輩可愛い、ふふふ」
「ったく、なんだよ、これならやらんぞ」
作りかけのたまごサンドを身を挺して庇うように隠す。
「あ、気になってましたけど、それ自分で作ってるんですか?」
「そうだ、悪いか」
自己嫌悪中の俺はムスッとしたまま、たまごサンド作成を再開する。
「へぇ、先輩って料理も出来るんだ」
小泉は関心するように俺のたまごサンドを覗き込む。
なんともバツが悪く、少し照れくさい気分になってくる。
「金無いからな、自炊しなきゃやってられん」
「そうなんですか…先輩も大変なんですね」
先輩"も"……か、そうだな、小泉に比べたら俺なんて…。
「そう言えば小泉………お袋さん、大丈夫だったか?」
「あ、はい、もう大丈夫ですよ。ご心配おかけしました」
そう言って小泉は丁寧に頭を下げる。
「そうか、良かったな」
「はいっ」
顔を上げた彼女はさっきよりもまたいい笑顔になっていた。
変われば変わるもんだな…俺はそう感じていた。
それから小泉は俺の隣に座り、あれからの事を語りだした。
警察が来て俊夫さんが逮捕され、
小泉は母親と弟と共に救急車で病院へ行った。
その後、母親の手術が行われたらしい。
どうやら頭を割られていたらしく、10針近く縫ったそうだ。
とりあえず命に別状は無いようでよかった…と言っていいのかな。
俊夫さんは精神鑑定されたようだが異常はなく、刑務所に入るそうだ。
アレが異常じゃないなら何が異常なんだ?とも思うが、
小泉達の安全が確保される訳だから文句は言えない。
接近禁止令とやらも出るようだ。
で、小泉親子だが、DV(家庭内暴力)被害者という事で、
一時的に国の機関に保護され、引越し先や仕事も与えられるそうだ。
「って事は…小泉は引っ越すのか?」
「…はい。あ、でも近くなので会えない距離じゃありませんよ」
寂しそうな笑顔ではにかむ小泉に俺の胸は少し痛む。
「学校は移らないといけないみたいで…先輩には言っておきたくて……」
「そうか…寂しくなるな」
たまごサンドを作る手を止め、ベンチに背を預ける。
日陰の涼しさがやけに肌寒く感じた。
「寂しいですか?…わたしがいなくなるの」
「まぁな」
「へ、へぇ~…」
なんだ?と彼女の顔を見ると真っ赤に染まっており、
もじもじと俯いている……こ、これは…まさか?
いや、待て、早まるな尾野空よ、小泉はあざとい子だ。
騙されてはいけない!小泉に何度ドキドキさせられた!
いつもの演技だ、落ち着け自分。
でも、こないだの俺は結構頑張ったし、もしかして…なんて思ってしまう。
いやいや、まさかな…小泉は学校一の美少女だぞ?
海未も負けてないと思うけどな?って、今はそれはいい。
そんな事よりも……
「先輩」
「は、はいっ」
突然呼ばれ俺の声は裏返る、明らかに動揺している、マズい。
チラッと小泉を見ると、俺の動揺が感染したのか顔を背けていた。
沈黙………気まずいなんてもんじゃない。
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ダッーー!長いっ!
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「先輩」
「は、はい?」
また声が裏返ってしまった…我ながら情けないほどチキンハートの持ち主だ。
この独特な重い空気から逃げ出したくなるが、
小泉が言わんとしている内容が激しく気になり、唾を飲み込む。
そして、彼女は口を開く……。
「先輩、わたし…わたし…先輩のことが…」
来た、マジで来た、来ちゃったでしょ。
鼓動は急速に早くなり、耳まで熱くなっていく。
「その………なんでもありません」
「は?」
思わず言ってしまった「は?」…だってそうだろう?
普通あそこで止めるか?すっげぇ身構えてたのに!!
「もぉ~、気にしないでくださいよぉ~、あはは」
いつものぶりっ子全開の小泉が出てくる。
だが、彼女の手は震えている。
「お前が言いたくないならいいけどな、それで後悔しないならな」
俺は何を言っているんだ?本当にその先を言われたいのか?
俺は…俺は……。
「………わかりました、言いますよ」
小泉は覚悟したように手をギュッと握り締め、
俺の目を真っ直ぐ見つめてくる。
「先輩!」
「おう」
「だ………あぁー!」
小泉はボリュームのある髪をわしゃわしゃと掻きむしり、
芋虫が暴れるように身体をくねくねとさせている。
「なんだよ、早く言えよ」
「ま、待ってください、乙女には色々とあるんです!
わかってください、そういう空気読めないとこが先輩の悪いところですよ」
なんで唐突に俺ディスられてんの。
「分かった、待ってるから好きな時に言え、俺はたまごサンドを食う」
『はぁっ!?』
小泉の大声が校舎裏に響く。
「いや、早く食わねぇと昼休み終わっちゃうだろ?」
「そうですけど…そうですけど……先輩ってバカなんですか?」
「は?なんでそうなる」
「わたしが言おうとしてること分かってますよね?」
「…まぁ、だいたいはな」
「じゃあ、なんでたまごサンド食べるって選択肢が出てくるんですか!」
小泉さんは随分興奮してらっしゃる。
そうか、分かったぞ。
「悪かった悪かった、お前にも食わせてやろう」
『はぁっ!?』
再び小泉の大声が響く。
耳が少しキーンってなったぞ。
小泉はがっくりと肩を落とし、頭を抱えてぶつぶつと何かを呟いている。
「ありえない…こんな美少女からの告白中にたまごサンドって……
ってか、なんでたまごサンド?おかしいでしょ……
なんでわたしこんな人の事……あああああああ~~~~っ!」
また小泉は頭を掻きむしり、
唯でさえボリュームのある髪は更にボリュームを増す。
「…おまえ…ふっげぇ髪になっへんぞ」
たまごサンドを頬張りながら俺は言う。
「最悪です、ホント最悪です…人生初の告白がこんなのなんて…」
俯く小泉の顔から水滴が2つ落ち、土の色を変える。
「んぐっ…小泉、お前泣いて…」
「ませんよ!」
ジャージの裾でぐしぐしと目を擦り、小泉は立ち上がる。
どこから取り出したのか手鏡と櫛で手早く髪を整え、
それをしまってから軽い咳払いをし、俺を目を見つめて言った。
「先輩、わたしは………先輩が大好きです」
「あぁ」
「これは嘘とか冗談じゃないですよ、わたしの本心です」
「あぁ」
「あんな事があったからとじゃないですよ、多少はありますけど」
「あぁ」
「あの…いちいち相槌するのやめてくれません?ウザいですから」
「あぁ…あ、ごめ」
俺が頭を掻いていると、小泉は自然な笑顔で笑う。
「ふふ、そんなところも先輩なんだって思います」
「そうかな」
「はい、わたしはそんな先輩も大好きです」
手が震えてるぞ、小泉。
本当にいい笑顔をするようになったな、小泉。
いつも身だしなみに気をつけ、笑顔を絶やさず、愛想よく振る舞う。
そんなお前を俺はすごいと思ってたよ。
「わたしは…わたしは……ずっと好きでした。
面倒なこと押し付けても嫌な顔一つしないで手伝ってくれて、
わたしの本性を知っててもそれは変わらなくて…、
いつでもわたしを心配してくれて、味方でいてくれて、
いつでも……わたしを助けてくれて…先輩はわたしのヒーローなんです」
過大評価ってやつだ、それは。
俺はビビリで情けなくて……まともな人間じゃない。
そんな俺をここまで想ってくれる子がいるんだな……。
「先輩」
「ん」
「わたしと…付き合ってください」
小泉は深く頭を下げる。
手も膝も肩もぷるぷると震えて、俺の答えを待っている。
いい加減な答えじゃ…ダメだよな。
俺は立ち上がり、小泉の肩に手を置いた。
「ごめん…好きな子がいるんだ」
置いた手から小泉の震えが伝わってくる。
ポタポタと涙は地面に染み込んでゆく……。
しばらくしてから彼女はハンカチで顔を拭き、顔を上げた。
「わかりました…何となくわかってました……」
目や鼻が赤く染まったその笑顔は無理をしていて、
俺の胸に太い針が刺さったように痛みが走る。
「小泉……」
俺が手を伸ばそうとした時、視界の隅に人影を捉える。
チラリとそちらを見ると、そこには海未が友達と思わしき女の子と立っていた。
おそらく中庭で昼飯を食べた後だろう…俺を見つけて首を傾げていた。
「…海未」
ぼそっと呟くように名前を呼ぶ。
その声は目の前にいる小泉にしか届いてないだろう。
その瞬間小泉は後ろを向いて走り出し、盛大に転ぶ。
「お、おい、大丈夫か」
『来ないでください!』
俺は前に出した足を即座に止め、その場で石像のように固まる。
彼女の声はそれほどの拒絶を含んでいた。
「来られたら…もう、耐えられないから…」
その声は震えていた。
よろつきながら立ち上がり、振り向いた彼女は、
涙と鼻血を流し………笑っていた。
「先輩っ……さよならっ」
彼女は走り去る。
俺は追うことも出来ず、ただその場に立ち竦む。
食べなかったたまごサンドは食パンが水気を吸い、
俺の心のようにグズグズになっていた。