1st
サアァァァ―――・・・・・・
風が気持ちいい。
カサカサと葉っぱが揺れて擦れる音さえ心地いいと感じる。
無造作に伸ばした髪がサラサラと流れ、頬を掠めた。
ゆっくりと瞼を上げる。
ぼやけた視界の先には、真っ青な空が見えた。
◇◇◇◇ 1 ◇◇◇◇
幼馴染みの奈津の買い物に付き合うため、彼女の部活が終わるのを待っていた私は、グラウンドの見える中庭の木陰に座り、暇潰しにと鞄に入れていた本を読んでいた―――のは覚えている。
ぽかぽかの陽気な天気と心地いい風が眠気を誘い、いつの間にか眠っていたようだ。
腕を天上へ伸ばし、一つ大きな欠伸をする。
4時50分。
ここへ来たのが4時前だったから、1時間ほどの記憶が飛んでいる。
「・・・ん?」
髪の毛をかき上げながらゆっくりと身体を起こした時に、見覚えのない青いジャージが胸元からズレたことに気づく。明らかに自分の体躯にそぐわない代物だ。
背中には見慣れた校名。その下に、『陸上部』の3文字。
「陸上部・・・? 誰のだ?」
どこかに名前が書いてないかと探したが見当たらない。
どうしたものか。
返さないわけにはいかないし、グラウンドへ行って陸上部の誰かに託ければいいかな。
部活終了まであと1時間。奈津が来るまで時間がある。
立ち上がって制服についた草を軽く払い、グラウンドの方へと脚を向けた。
スターターピストルの音。
スパイクで砂を蹴る音。
(懐かしいな・・・)
スターティングブロックに足をのせ、スタートする。風を切って走るのは、とても気持ちがいい。
あの頃は走ることが楽しくて仕方なかった。
「長谷部?」
不意に名前を呼ばれて視線を移すと、タオルで汗を拭きながら近づいてくる長身。
クラスメイトの日下柊壱だ。
「今帰り?」
「・・・いや、友達待ってる」
「香川? 写真部だっけ」
よくご存知で。
人懐こい笑顔で話しかけてくる。180を超える身長と、バランスのとれた四肢。栗色の髪は柔らかそうで、柔和でキレイな顔立ちとよく似合っている。
「陸上部だったんだね」
「ん。知らなかった?」
全く。
奈津が何か言ってたような気もするけど。
「見学?」
「いや、これ返しに来ただけだから」
手に持っていた青いジャージを見せた。
「そこでちょっと寝てたら、これ、かけてくれてたみたいで。名前書いてないから誰だか分からないし、陸上部って書いてあるから誰かに渡しとこうかと思って来たんだけど」
好都合だ、彼に託そう、と思って事情を話すが、彼は照れたように笑みを零した。
「それ、俺の」
「え?」
「いくら天気がよくても、そのまま寝てたら風邪ひくかな、と思ってさ。気持ちよさそうに寝てたから、いつ起きるのか分からなかったし」
彼だったのか。驚いた。でも、そうだな。この人なら、という気がする。
誰にでも分け隔てなく心優しく、誠実そうな好青年。クラスメイトが噂していたのを覚えている。
頭脳明晰で、運動神経抜群で、カッコよくて、優しくて、笑顔が可愛くて、こんな人が恋人なら・・・って。実際、告白されたって話もよく聞いていた。
確かに。その噂は本当のように思う。
「そっか。これ、ありがとう。風邪ひかずに済んだみたい」
お礼を伝え、ジャージを手渡した。
「あそこ、日陰だし風の通りもよくてよく行くんだ」
「静かだし、校舎からも見えないしね。私もよく利用してる」
こんなに言葉を交わすのは初めてかもしれない。苦手とか、そういう意識があったわけじゃないけれど、このキレイな顔がどことなく『お人形さん』のようで、敬遠していたのかもしれない。でも、話し方はとても気さくで、楽しいと思ってしまった。
「日下! タイムとるぞ!」
クラブ顧問の大声がグラウンドに響き渡る。数人の生徒がこちらを振り返った。
「すぐ行きます!」
片手を上げて大声で返事をする。
そうだ。まだ部活中だった。引き止めて話をしていたことに申し訳なく思った。
「ごめん、これ返すだけだったのに」
「いいよ。わざわざありがとう。暇ならさ、香川が来るまで見学してなよ」
手を振って駆けていく彼に、思わず手を振ってしまった。
コツンと軽く頭を叩かれながらも、彼の周りはにぎやかで楽しそうだ。
タオルと先程手渡した青いジャージをベンチに置き、スターティングブロックに足をのせた。
パンッ!!
ピストルの音と同時にスタートする。キレイなフォーム。長い脚が地面を蹴り、一直線にゴールへと向かう。
(速い・・・)
自分のベストタイムへの貪欲な姿勢。そして何より、楽しそうに走る。
―――チクッ・・・と。
ほんの小さい棘が、胸の内に。
「羨ましいって顔してる」
びくっと肩が震えた。
「違うな・・・。走りたい、かな?」
振り向けば、スレンダーな少女が一人。蜜色の髪が特徴的で、可愛らしい顔立ちとサバサバした性格とのギャップが人を惹きつけるらしい。クラスでも日下くんのとは違う意味での中心的存在だ。
「奈津・・・」
香川奈津。幼少の頃からの唯一の友人。私より私自身を理解しているようで、未だに彼女には敵わない。
「部活終わったの?」
「んにゃ。陸上部の撮影。アルバムに載せるんだって」
カメラを掲げてみせる。ファインダーを覗きながらピントを調節し、カシャッとシャッターを切る。
「走りたいんじゃないの?」
視線はそのままに、奈津は聞いてくる。
風がサアァッと吹き上げた。
心地いい風。
走りたい、か。
「どうかな・・・」
自分でも分からない。
でも、奈津にはそう見えるんだろうか?
聡い彼女のこと。
それ以上、何も聞かれなかったことに感謝した。
「日下、友達?」
靴紐を結びなおしながら、夏木部長が聞いてきた。
「長谷部ですか? クラスメイトですよ。・・・何ですか」
にやにやと意味深な笑みを浮かべる彼に、眉を寄せる。
「いーや? すっごーく嬉しそうな顔だったから〜」
「いやな先輩だな」
からかわれてる。
そんなに顔に出てただろうか。
「なに、日下の彼女? どっち?」
後ろからがしっと肩を組み、楽しげな会話に加わるべく、小野先輩が絡んできた。
「黒髪の方。片方は写真部の香川だろ」
「! なに勝手に言ってんですか!」
「ちなみに彼女じゃなくて片思いだな」
「ほぅ!」
面白がってる。絶対面白がってる!
「名前は?」
ぶすっとした不機嫌な顔を隠すつもりもなく。
「長谷部です。長谷部瑞樹」
にやけた顔の先輩方に、早口に答えた。名前を言えば解放されると思ったのだが、小野先輩は急に真顔になって「長谷部?」と聞き返した。
「知ってんのか?」
急な変化に不思議そうに夏木部長が問いかけた。
「あぁ。あの子、ジュニア大会の記録保持者だぜ」
ジュニア大会って・・・
「お前と同じ100M。印象違ってたから分かんなかったな。ケガで辞めたって聞いたけど」
「なに、そんなすげぇヤツだったの?」
「惜しいよなぁ・・・。日下、知らなかった?」
知らなかった。
というか、何も知らない。
フェンスの向こう。
彼女は、待ち人である香川と楽しそうに話していた。
なんとか!
なんとか、続きを書くよう頑張ります!
読んで下さった方、本当にありがとうございました。