第5話【苦い日々】
私の人生最大の失恋。
れまでの20年ちょっとの人生の中で失恋ってしたことがなかったようにさえ思えた。
この彼に対する「大好き」な気持ちをどう扱ったらよいのかわかず、ただ苦しい日々が続いていたように思う。
何をみても、何を聞いても、何を食べてもまるで色のない世界のようで無味乾燥な日々が始まった。
お互い愛し合っていた時には同じ会社にいられることがとてもうれしく、最高の会社に思えていたが、いざ、こういう状態になるともう最悪で、出勤することすら大変な重荷になった。
朝、起きての服を選ぶにしても、彼に見せたいだけに今まで選んでいた基準がなくなり、全く服装やおしゃれに興味がなくなった。ひどい時は、前日着服をまた着て行こうとして母にとがめられたりもした。
同じ会社にいるということは、階段ですれ違ったり、会議で同席したりする機会があるということ。
私は、以前と変わらず彼の姿を見れば、胸がドキドキした。なのに、彼は会議では、付き合っていた時と距離を変えることなく、私を避けることもせず、単に私とつきあった数ヶ月を記憶から抹殺したかのような仕草だった。
彼は平気で「これコピーしてきて・・」と書類を私に託す。私はもしかしたら、その書類の一番上に彼からのメッセージが隠されているのではと一瞬喜んだりしたが、ことごく裏切られ、往生際の悪い自分が情けなく、悲しさが増した。
彼とお別れして翌週土曜日の会議。
あいも変わらない彼の態度や仕草に、私は、もしかしたら彼は私に何かを気づかせようとして、一旦お別れを言い渡しただけかもしれないとか、私をまたあの腕にだきしめてくれるかもしれないと思わせた。
しかし、会議中に目と目があった瞬間に、淡い期待がいっぺんに崩れ去った。彼が私から視線をはずしたその仕草には私に嫌悪感を感じてる仕草そのものだった。私は、とてもその場にいることが耐えられず、途中退席して他の部屋に逃げ込んだ。
流れ落ちる涙を止める術もなく、誰もいない部屋でひたすら声を殺して泣いた。
彼とお別れしてから一度もこんなに大泣きしていなかったので、その時は本当に心が悲鳴をあげるかのごとく激しく泣いた。
泣きながらソファーに突っ伏しているとふっと私の髪をなでる手を感じた。
私は驚いて顔を上げた。
彼が私をおいかけてきてくれた・・と思ったから。
でも、顔を上げた先にあったのは同じ部署で真向かいに座る見慣れた同期の男性の顔だった。
「声かけたけど返事しないし・・・どうしたの?何かあったの?」とちょっと恐いようなそれでいて優しい目で問いかけてきた。
その見慣れた顔に、まるで兄に言いつけるように告げた。
「失恋したの・・・私。ふられちゃったよ・・大好きな人に・・」
その答えを聞いて、彼は少しだけ笑顔を見せながら
「そうか、失恋しちゃったのか。それは泣くしかないね。そういう理由だったら、他に誰か入ってこないように入り口で番しててやるからもっと泣いちゃえよ。それですっきりしたら飯でも食いにいこうぜ・・」と言った。
「うん・・・」
と返事をするかしないかのうちにまた、涙がどっと流れてきて結局同期の彼のワイシャツの袖をぐしゃぐしゃにしながらしばらく泣きじゃくっていた。
どれくらいの時間泣いたのか分からないが、涙も枯渇してきて自分がなぜそんなに悲しいのかを分析してる冷静な自分が現れ出した。
「落ち着いた?そろそろ飯いこうぜ。俺、腹減ってるんだ。つきあえよな。お前は失恋したからご飯が食べれない、っていう乙女タイプじゃないもんな。行こう、行こう・・」
とまるでじゃれるように私たちのデスクのある部屋へむかって歩きだした。
ぽつんと誰もいない廊下に取り残された私は、こんな姿を見られた恥ずかしさが初めて頭をよぎり、とりあえず化粧室で顔をあらってメイク無しの顔のまま彼とご飯を食べにいくことにした。別れた彼以外の男性と食事に行くのは随分久しぶりのことだったし、メイク無しの顔で社内を歩くことも初めてだった。
ただ、会社の玄関をでたら、私に当たる風がとても優しく感じ、空気がとてもすがすがしく感じた。
まだまだふっきれたとは言い難いが、下ばかり向いていたこの2週間を振り返り、今からは少し顔を上げて歩いく努力をすることにした。
「俺っていっぱい失恋してるから。なんかあれば聞いてよ。」と同期の彼は天津飯をがつがつ食べながら言った。
「何かって、何があるの?」と聞き返すと「ん〜・・何かって・・・・・何もないかな?はは・・。早く食えよ。俺がくっちまうぞお前の分も・・」と更にがつがつ食べ出した。
私はあんかけ焼きそばを少しずつ口に運び、もたもたと食べ始めた。それを見て彼は「よしよし・・」と言わんばかりに、空になったお皿を前にして水を飲みながら、つまらない社会情勢の話を勝手にしゃべり続けた。
食事が終わって会計に行くと「今日は失恋記念におごってやろうと思ったが、それをやると変な記念日をつくることになるからな・・・割り勘だ。」と言い訳をした。
失恋記念日か・・そうだ、私は失恋したんだ。もう、あの日に帰ることはないんだ。
いい加減あきらめなくちゃ。
外に連れ出してくれた同期に「ありがとう。」とつぶやいた。泣き疲れた声は枯れ果てていて、彼に聞こえたかどうか位の声だったはずだ。
彼は妹をあやすように私の頭をなでて、「おっし!仕事にもどろうぜ!」と妙な元気さで歩きだした。
その時私はふっと気が付いた。
その彼が私のことをいつも大事に思っていてくれたことを。
見栄えもさっぱりしないし、口も悪い。
それでも、会社では同期で一番のエリートで、人の良い彼は仕事をなんでも引き受けて、大変忙しかった。恋愛して、デートなんてできるはずもなかった。
仕事に一途な人。女なんかには全く興味を持たない堅物人間。これが会社での彼の評価だ。
でも、その彼のちょっとした仕草から、私への優しいいたわりを強く感じ、私はちょっとうれしかった。
人間失格の烙印がおされたような出来事の後だったからか特に嬉しかったかもしれない。