艷に乗せた椿の香
「おはようございます鹿沢さん。今日が何日かご存じでしょうか」
聞こえた甘やかな声にゆっくりと目を開ける。もう何日も、きちんと目を開けることが出来ていない。霞む両目に、僅かに映る着物姿の女。その顔に乗せられた表情は、依然として妖艶。
「…どうも、おはようございます」
「あら、掠れていますね。はい、お水」
口許に差し出されたストローを、疑いもせずに口に含んだ。甘い。ただの水だと分かっているが、まるで蜜のような甘味を感じる。
「…それで、今日は何日か…いえ、何の日かご存じ?」
彼女が、再度ゆったりと問い掛ける。私の耳元で声を交わしているせいか、彼女の顔が近い。すん、と鼻をすすれば少しだけ椿のような化粧品の匂いがした。
「今日、ですか」
彼女の豪勢な着物から、無骨な壁に掛けられたカレンダーへと視線を反らす。私が此処に来てから、もう一ヶ月以上が経っているようだ。日にちの上に赤いインクでバツの字がいくつも書かれている。
「そうですね…今日は二月十四日ですか。なら、俗世はバレンタインというやつですね」
「ご名答。ふふ、流石鹿沢さん」
その笑みは、言外に私の脳味噌の感覚が狂う方が間違っていると伝えているようだ。そんな笑みにすら匂いが香ってきそうだった。私は知らず、喉をごくりと鳴らす。
どうやら、渇いてきたようだ。
「でも鹿沢さん、知っていらして?」
「何をでしょう」
「聖バレンタインの由来です」
彼女はまたクスクスと笑って、私の口許にストローを差し出した。今は一体、何時だろう。
「二年ほどしか在位がなかったローマの皇帝、クラウディウス二世をご存じ?」
「ええ。ナイススの戦いで功績を残した軍人皇帝の一人、ですよね」
「そう、その方です」
私の口許からストローを離して、別の場所に容器を置いた。彼女の顔は変わらずに笑みを浮かべたままだ。
「この説はまったく根拠のないものらしいですが、市井によく出回っていますの」
「ほう。根拠はない、と」
「ええ。ですが聞いて欲しくて」
かたり、と首を傾げる。彼女はやはり花のようにたおやかな方だ。動作の一つ一つが気品に溢れ、まるで花の匂いが立ち込めるような気分になる。狭苦しく生活感など一切感じさせない室内に、その香りが充満しているようで一瞬くらっと目眩がした。
「クラウディウス二世は、愛するものと離れたくない若者を戦争に行かせるために、結婚を禁止したと言われています」
その声さえもが、小鳥が囀ずるような愛らしさを滲ませていて。彼女は一体、否、私は一体何物に…。嗚呼、今はそんなことを考えている場合じゃない。
手首に伝わる冷たい感触が、肌をヒリヒリと焼き付ける。
「しかし今で言うところのキリスト教司祭である、ウァレンティヌスはそんな若者達を見かねて皇帝に報告せず、秘密裏に結婚をさせることにしました」
「秘密裏?ということは、そのウァレンティヌスは」
「はい。当然、事態が公になり彼は投獄されました」
また、ゆったりと首を縦に振る。その動作に、固定されていない方の手で思わず足首を触った。相変わらず冷たい足首だ。
「彼は獄中で拷問を受けていたようです。どのような拷問を受けていたのかは存じませんが、とある奇跡を起こしクラウディウス二世の不興を買ったウァレンティヌスは二百六十九年二月十四日、皇帝の手によって処刑されてしまうのです。これが由来だそうですよ」
どうやら話を終えたらしい彼女が、私の方へと再び視線を向けた。
「似ていると、思いませんか」
ほんのりと冷たく柔い手が私の肌を滑る。そして彼女は、その先にあった鎖を軽く持ち上げた。じゃらり、重たそうな金属音が鳴る。
「鹿沢さん。ウァレンティヌスは貴方にとっても似ています」
この世の憎悪が詰まった物体でも見るかのように彼女の、笑んだままだった顔が歪んだ。その瞬間、私は歓喜した。
「貴方は私に軽率に何度も何度も愛を伝え、ここに入れられました」
私は一ヶ月前、恋い焦がれた彼女に会いに行った。何度も何度も何度も何度も、何度も。そしてたくさんの手紙を彼女に送った。まるでその、ウァレンティヌスが獄中からある少女に手紙を綴ったように。
「怯える私など関係もなく愛を伝え続け、逆に貴方は私の周囲を傷つけた」
何百回目かの手紙を送ったある日、彼女の家の何処かにある拷問部屋に収監された。右手には手枷を、両足には足枷を。最初は暴行を受けるだけだったそれも、私が愛を伝え続けている次第にもっと過激なものとなった。今ではもう、私の肢体全ての爪は剥がれてしまっている。
「貴方は自分のやっていることを理解していますの?」
彼女の細い首に目を向ける。こんな足枷さえなければ、白くて掴みやすそうなその首に手を置いて力を込めるのに。
「愛して、いるのです」
椿さん。そう言ってにこりと笑うと、彼女はまた、苛立たしげに艶やかな髪を揺らした。そんな姿でさえも綺麗だ。
「私を狂わせたのは貴女です。そう、貴女のその香りがいけない」
その甘やかな香りが、名前通り赤の映える貴女の身体が、私と言う存在を狂わせた。きっと貴女は椿の花のように、首だけを落としてしまえばもっと魅力的なのでしょう。潤したはずの喉が餓えた獣のように唸る。
「貴女が、貴女がいけないんだ!惹き付けて止まない!その、その首を折らせろぉっ」
「…まぁ。話にならないわ」
一体、何が私を狂わせたのか。私はなぜこんなにも彼女に夢中になってしまったのか。何度も何度も何度も何度も、許しを乞うように愛を唱え続けるのは。
私には分からない。分かるのはこの、椿の艷だけ。
「愛してる!愛してる椿さん、椿さん椿さん椿さん」
「誰か、鹿沢さんの首を跳ねて差し上げて」
獄中の彼はどのような気持ちで少女に手紙を書いたのであろうか。ただ、きっと。私のように狂気染みたものではなかったのだろう。
「さようなら鹿沢さん。わたくし、椿の花に狂う男は大嫌いですの」
きっとこの艷の乗った椿の存在を認めてしまった時から、私は椿になったのだった。
「いいえ、椿さん。貴女の艷こそが、」
────グシャリ。
貴女の艷こそが、狂気なのですよ。
『艷に乗せた椿の香』【end】
鹿沢さん「いいえ、椿の花を見に来ただけです(シレッ」
:椿の花に狂わされた男。元々は普通の人。現在は心身ともに頑丈なストーカー。監禁されて拷問受けてる途中から変態になった。多分結構いい身分の人。
椿さん「いいえ、椿という名では御座いません」
:多分裏社会のご令嬢。実名は椿ではない。周囲が花狂いになる為花は嫌い。多分鹿沢さんがまともだったら手紙くらい普通に返事した。何か不憫。まともな恋愛は出来ない(自分で確信)。