1話「おやすみなさい、姉様」
夜というものは、不思議なものだ。
昼間ならば隠せることも、誰かの前では笑っていられることも、眠る前の静けさの中では、どうしても自分自身のところへ帰ってきてしまう。
三十五歳のアイリーン・フォーチュンには、誰にも見せられない弱さがある。それは、十四歳年下の従姉妹、アイラ・フォーチュンへの想い。
姉様と呼ばれるたびに嬉しくて。隣にいてくれるだけで安らいで。けれど、その幸福を感じるほど、自分の心を醜いものだと思ってしまう。
守りたい。手放したい。幸せになってほしい。
それでも、自分だけを見ていてほしい。
矛盾した願いは、絡まり合ってほどけなくなっていく。まるで赤い糸のように。
誰かを愛することの正しさとは、愛してしまった自分を、どう抱えて生きていくのか。
愛する人を閉じ込めないために、自分自身を鳥籠に閉じ込めてしまった一人の女性が、その格子の向こうから見つめるものは何か。
その始まりの夜を、どうか見届けてください。
「おやすみなさい、姉様」
そう微笑む少女に、抗えない。
「……おやすみ、アイラ」
そう返した女の声には、昼間の凛とした響きがない。
職場では、誰にも弱みを見せない。理不尽な叱責にも、陰湿な嫌がらせにも、ただ黙って耐える。
三十五歳。部下からは頼られ、上司からは都合よく使われる女。アイリーン・フォーチュン。それが、彼女の名前だった。けれど家に帰れば、十四歳も年下の少女の前でだけ、彼女はひどく脆くなる。
夜は更けて、24時。都会の空はどこまでも暗く、窓の外に影を落としている。とは言え地面に生えた街灯の星はまだ明るく。白い光を受けた少女の横顔は、年相応に幼く、それでいて妙に大人びて見えた。
この少女、アイラ・フォーチュン。アイリーンの従姉妹であり恋人である少女。
そんなアイラの「おやすみなさい」は、アイリーンにとって一日の終わりではなく、明日まで生きるための言葉であった。
どんな臆病な運命を呪ってもこの心が安らいでしまう。あたしはもうアイラのもので、愛していることが生きることの証明だった。あたしはぼんやりと目を瞑って暗闇の中でアイラの姿を描く。
同じチョコレートブラウンの髪の色、一方違うあたしの深い焦げ茶色の瞳とアイラの琥珀茶の瞳。同じ血筋でありながら、柔らかに色味の違う他人。
ずっと見てきた一人だけの子。あたしのたった一人の従姉妹。隣の小さくてやわらかな温もりが、それだけであたしを締め付ける。この血がなければ交わらず、出会わなかったであろう人。色褪せるほど鮮烈な美しい輝き、きらめく夢のような。
蝶々はあたしの指には止まらない、もっと相応しい花がある。それでも奪いたかった、奪われた拗らせた初恋。
アイリーンは目を開け、細く白いアイラの手を取った。そうしてアイラの眠りを邪魔しないよう、柔く触れるか触れないかの口づけをその指先に落とす。それは疲れた女の祈りだった。ただこの子に縋っていたいという、弱々しい祈りだった。しかし、その祈りをへし折るほどアイラは無垢にアイリーンに見えていた。
無垢な子であればあるほど、膨らむ罪悪感に押し潰されそうで。「正しく美しく強い大人」でなければならないと思えば思うほど、アイラに恋をして愛している自分が嫌になる。そうあってはいけないと思う。守るべきはずの子にそのような感情を向けて。
だから眠っていてほしかった、幸せにどこまでも。朝になれば、いつものように笑っていてほしかった。何も知らないまま「おはよう、姉様」と笑って。何も疑わないまま、あたしの隣にいてほしかった。あたしが穢れた感情を持っていることなど知らず、あたしの醜さなど何も知らず、「姉様」としてアイラの隣にいて。そうしてあたしの「妹」として微笑んで幸せになる。そのためなら、この気持ちなんていくらでも捨ててしまえばいい。
そう思うのに。
「……姉様」
眠りの中で、アイラが小さく呟いた。
「ここにいるよ」
反射的に答えてしまってから、アイリーンは自嘲するように笑った。返事をする必要などない。眠れる少女に聞こえるはずもないのだから。それでも、そこにいると伝えたかった。
「姉様」だから。
「大人」だから。
そう言い聞かせるたびに、胸の奥が痛んだ。本当は、そんな綺麗な理由だけで隣にいるわけではない。そんな自分を、何度嫌いになったかわからない。
正しい大人なら、こんな気持ちになんてならないとだろう。正しい大人なら、こんな愛し方をしないだろう。正しい大人なら、もっと相応しい誰かのもとへこの子を送り出してやれる。
あたしはきっと、正しくない。あの子の望む大人ではない。
窓の外では、夜の街が瞬いている。無数の窓。無数の暮らし。無数の人間が、それぞれの幸福を抱えて眠っている。そのどこかに、アイラがいる未来もあるのだろう。あたしではない誰かと笑って。あたしではない誰かの手を取って。あたしの知らない場所で、あたしの知らない人生を生きていく。
それでいい、それでいいはずなのに。
どうしてこんなにも呼吸が浅く胸が苦いのだろう。子供じみた感情を、三十五歳にもなって抱いている。否定してしまえば嘘になるが、否定して嘘にしたい嘘もある。あたしはこの子を閉じ込めたい。あたしだけを見ていてほしい。反してこの子を守りたい。自由にしてあげたい。願い、願い、数多の願いが、胸の中で絡まり合って、ほどけない。赤い糸がこれならばそれでもいいと思うあたしは、どうすればいいのだ。
まるで鳥籠のように。絡まって。




