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月はまだ、終わらない

月光を眺めてⅡ

作者: 飛 雪兎
掲載日:2026/02/25

世界が二重に見えるようになったのは、いつからだっただろうか。

例えば、放課後の教室で。窓から差し込む夕日が、机の上の消しゴムのカスを照らした瞬間、それらがすべて、かつて誰かが撒いた「灰」のように見えてしまう。あるいは、登下校の道すがら、新しく舗装されたはずのアスファルトの裂け目から、見たこともない時代の石畳が、幽霊のように透けて見える。

けれど、十七歳の女子高生、蒼野奏は、それらを決して言葉にしなかった。

 

授業中の教室。ホログラムの黒板には、現代語訳された古文が並んでいる。

「……蒼野さん、ここの解釈、わかるかな」

教師の問いかけに、奏は机の下で握っていた小型ゲーム機のボタンを離し、ゆっくりと顔を上げた。

「……この作者は、月を見ているようで、実は隣で寝ている人の寝息を数えています。三行目の『影』というのは月の光じゃなくて、その人の睫毛の影のことです」

教室内が一瞬、静まり返る。教師は目を見開き、「……正解だ。よくそんな、教科書にも載っていないような行間を読み取ったね」と感心したように呟いた。

奏は静かに座り直す。

「奏、なんでわかったの?」

「何となく?そんな感じがして」

「テレパシーじゃないんだから……」

隣にいる親友の美花には最早呆れられている。


「さっきの天才ぶりはどこにいったのやら」

次の時間は数学だった。

またもや呆れる美花の目線の先はゲームすらせず机に突っ伏している奏だった。


学校近く、再開発が進む駅ビルの一角にある、ガラス張りのカフェ。冷房が効きすぎた店内で、奏の親友である美花と陽菜は新作のフラッペを前に、タブレットの画面を覗き込みながら、夏休みの予定を話し合っていた。

「……で、このフェスなんだけどさ。チケット、もう一般枠しか残ってないんだよね。陽菜、どうする?」

美花が画面を陽菜に向ける。彼女は落ち着いた茶髪を後ろでまとめ、少し大人びたブラウスを着ている。

「うーん、一般だとかなり後ろだよね。暑い中、立ちっぱなしで豆粒みたいなステージ見るのもなあ……。2036年にもなって、もっとこう、涼しくできないのかな。ドームとかさ」

陽菜が、手入れされた指先でアイスティーのグラスを弄んだ。彼女は流行には詳しいが、無理をしてまで騒ぐタイプではない。


「てかさ、奏。また先生をビビらせてたでしょ」

陽菜がタブレットで「新作コスメの先行体験会」のページをスクロールしながら言った。

「文系科目だけは、本当に化け物だよね、奏。数学の時間はあんなに死んでるのに」

「……数学はちょっと受け付けないかなぁ。ほら、数字ってさ見た目がもう嫌じゃん」

「よくそれで生きてこれてんね…」

奏からしたらこの目線はもう慣れたものだった。

「そーいえば奏はどうするの? 夏休み、このままじゃ本とゲームだけで終わっちゃうんじゃない?」

陽菜が、少しだけ心配そうな、気遣うような視線を向けてくる。奏の膝の上にあるのは、何度も読み返して端が丸くなった『竹取物語』だった。

「……文字を追っていると、落ち着くから。自分の知らない時間の話なのに、なぜか、知っているような気がして」

「奏って、たまに不思議なこと言うよね。なんていうか……見てる場所が、私たちと違うっていうか。もっとずっと昔から、全部知ってるみたいな顔するときがある」

「私は天才優等生ですから」

「授業中ゲームばっかしてる人が優等生とは世の中不平等すぎない?」

むふー としている奏を横目に美花が苦笑いしながら、フラッペのクリームを掬い取る。


「ねえ、富士山、行かない?」

不意に、美花が思いついたように言った。

「御来光とか、一回くらい見ておいてもいいかなって。最近、SNSでもリアルな体験を大事にしようみたいな流れ、あるじゃん。頂上の神社、限定のお守りも綺麗だって有名だし」

御来光。リアルな体験。お守り。

その現代的な単語が耳を通り過ぎようとした瞬間。

どくん、と。

奏の左胸の奥が、鋭く疼いた。

そこには、生まれつき小さな痣がある。細い針で突かれたような、淡い色の痕跡。

「……富士山」

「そう、富士山。陽菜もどうかな。私の親戚が五合目の近くで山小屋やってるから、予約とか、少しは融通きくと思うし」

「登山かあ、大変そうだけど。でも、一度は登っておかないと後悔するかな。奏も行かない?」

陽菜が静かに奏を促す。

奏の視界が、微かに揺れた。カフェの冷房の吹き出し口の音が、一瞬だけ、ざあざあと波打つ「海」の音に重なって聞こえた気がした。

相模の国の、遠い波打ち際。

そこで誰かと語り合っていたような、そんな、あり得ないはずの記憶の断片。

「……うん、行く」

奏の口から出たのは、自分でも驚くほど迷いのない、確信に満ちた声だった。


それからの数週間、三人の日常は少しずつ、しかし確実に変質していった。

放課後、三人で大型のスポーツ専門店へ足を運ぶ。陽菜は「機能性重視だけど、写真に撮っても浮かない色」のウェアを真剣に選び、美花は初心者向けのパッキング動画をタブレットで見ている。

「奏、これとかどう? シンプルだし、奏に似合うと思うよ」

陽菜が差し出してきたのは、深い紺色の、飾り気のないゴアテックスのパーカーだった。

店員が「これは岩場でも滑りませんよ」と、最新のソールについて丁寧に説明してくれた。奏はその説明を聞きながら、ふと自分の足元を見た。白いタイルの床が、一瞬だけ、赤茶けた溶岩の肌に見えた。

「これにします」

店員の声を遮るように、奏は言った。

夜、自室で届いたばかりの登山靴を履いてみる。

厚手の靴下。

予備のバッテリー。

酸素缶。

一つ一つ、道具を自室の床に並べていく。その所作は、まるで何かの儀式のようだった。

ザックを背負ってみると、中身は数キロしかないはずなのに、肩にかかる重みがどうしようもなく重厚に感じられた。

目に見えない砂利を、大量に詰め込まれたような。

奏は、部屋の灯りを消し、暗闇の中でザックを背負ったまま立ち尽くした。

窓から見える東京の夜景。ホログラムの看板が明滅し、空飛ぶドローンが規則的な光を引いて飛んでいく。

その光の洪水の下で、奏は一人、この場所ではないどこかへ向かおうとする自分の心臓の音を聞いていた。

胸の痣が、熱を持っていた。


八月、登山当日。

五合目へ向かうバスの車内は、多国籍な言語と、最新の登山デバイスを静かに操作する人々の気配で満ちていた。

陽菜は隣で、「高地でも乾燥しないミスト」を静かに肌に吹き付けている。美花はこれからの旅の記録を残そうと、カメラのチェックをしていた。

「……奏、大丈夫? 緊張してる?」

美花が声をかけてくる。奏は窓の外を流れる緑を見つめたまま、静かに首を振った。

「……ううん。ただ、空気が変わるのを待ってるだけ」

「奏って、時々かっこいいこと言うよね」

美花が少し笑う。その笑顔は、奏にとって数少ない落ち着くものの一つだ。

五合目のバス停に降り立った瞬間、奏は強烈な目眩に襲われた。


2036年の夏、アスファルトは熱く、排気ガスの匂いが鼻を突く。けれど、奏の鼻腔を掠めたのは、それとは全く違う匂いだった。

古い木が燃える匂い。

そして、何かが焼き払われたあとのような、絶望的なまでに清冽な空気の匂い。

「奏、顔色悪いよ。やっぱり無理かな」

陽菜が、心配そうに奏の顔を覗き込んだ。

「……大丈夫。行かなきゃ」

奏はそう言って、登山靴の紐を締め直した。その手つきは、自分でも驚くほど迷いがなく、確実なものだった。

歩き始めると、陽菜と美花は最初のうちこそ「景色すごいね」「あの雲、綺麗」と控えめに喜び合っていたが、標高が上がるにつれ、次第に口数が減っていった。


六合目。

砂利を踏む音だけが、ザッ、ザッ、と等間隔に響く。

周囲の景色は次第に樹木を失い、赤黒い溶岩の肌が剥き出しになっていく。

一歩、足を踏み出す。

地面を蹴るたびに、胸の痣が熱を持つ。

それは不快な痛みではない。むしろ、止まっていた古い時計の針が、一秒ずつ、重々しく刻み始めたような「再始動」の気配だった。

陽菜が足を止め、肩で息をする。

「ねえ……なんか、奏だけ歩き方、慣れてない? ずっと同じペースだし、全然息切れてないじゃん」

陽菜の指摘に、奏は足を止めた。

自分でも気づかなかった。自分はただ、この感覚を知っている気がしたのだ。

一歩を繰り出すときの体重の移動。

砂利が滑る寸前の、絶妙なバランス。

薄くなっていく空気の、肺に沁みるような冷たさ。

「……そうかな。ただ、必死なだけだよ」

奏は短く答え、再び前を向いた。

七合目の山小屋に辿り着いた頃、空は深い群青色に沈んでいた。

夕食に出されたカレーを、三人は無言で食べた。陽菜は完全に疲れ切り、美花も少しだけ足を摩っている。

周囲では、他の登山客が静かに明日の準備を整えている。

奏は、プラスチックのスプーンを見つめながら、ふと思った。

いつか、これと同じように、冷めていく器を見つめていた誰かがいた。

湯呑の縁に残った、茶の染み。

拭っても落ちない、過去の痕跡。

今はもう、湯が冷める速さすら忘れてしまった、遠い誰か。

(私は、知っている)

視界が、また二重になる。

山小屋のLED電球が、一瞬だけ、揺れる蝋燭の灯火のように透けて見えた。

古びた庵。

茶の香り。

そして、自分の隣にいたはずの、誰かの横顔。

「……奏? 寝るよ。午前二時には出発だって」

美花の声に、奏は意識を引き戻された。

胸の痣が、今度は、微かに脈打った。

それは、呼んでいるようだった。

この山の頂にある、「何か」を。

寝袋の中に身を沈め、目を閉じる。

外では強風が鳴っている。

奏の意識は、眠りに落ちる寸前、深い闇の中へと沈んでいった。

そこには、一人の青年がいた。

白い直衣を纏い、富士の山頂で、月を見上げながら薬を飲み干そうとしている。

自分は、その傍らにいた。

彼を見守るために遣わされた、名もなき記憶の断片として。

彼が死ねないことを、誰よりも悲しみながら、けれど彼が生き続けることを、誰よりも強く願っていた。

「待たせたな」

誰かの声が、風の中に混じって聞こえた気がした。


午前二時、登山再開。

周囲の登山客のヘッドライトの列が、暗闇の中で光の蛇のように蛇行している。

陽菜は酸素缶を片手に、必死に足を進めている。

「奏……もう、無理……。なんで、こんな……」

陽菜の弱々しい声に、奏は言葉を返せなかった。

なぜ。

それは、この現代に生きる彼女たちにとって、最も正当な疑問だった。

けれど奏にとっては、一歩ごとに、自分の名前が自分の中に染み込んでいくような感覚があった。

九合目を過ぎ、空が白み始めた。

岩肌はさらに険しくなり、もはや「日常」の面影はどこにもなかった。

陽菜が足を滑らせ、膝をつく。

「大丈夫?」

奏が手を差し出した。

陽菜がその手を握った瞬間、彼女は目を見開いた。

「……奏の手、熱い。どうしたの、これ」

奏は答えず、ただ彼女を引き上げた。

熱いのではない。自分の内側で、何かが燃えているのだ。

頂上の鳥居に着いたとき、世界から音が消えた。

美花とはぐれ、陽菜とも距離が空いた。

ただ、自分だけが、光の淵に立っていた。

東の地平線が黄金色に染まり、巨大な太陽が雲海を切り裂く。


その光を浴びた瞬間、奏の中の「ダム」が決壊した。

私は、蒼野奏ではない。

いや、蒼野奏でもある。

けれど私は、あの時、彼の胸を貫いた。

私は、姫の愛であり、姫の後悔だ。

私は、彼を終わらせるために、この時代を選んで、ここに立っている?

山頂に響き渡るのは、登山客たちの歓声ではない。

千年の孤独に終止符を打った瞬間の、あの静かな、あまりにも温かい「痛み」の余韻だった。

奏は、崩れ落ちるように膝をついた。

十七歳の少女の、しかし千二百年の重みを持った涙が、赤茶けた土の上に落ち、一瞬で蒸発した。


「……奏! 奏、大丈夫!?」

美花の声が聞こえる。彼女の温かい手が肩に触れたが、その感触さえ、何層もの薄い幕を隔てた向こう側の出来事のように思えた。

奏は震える手で、自分の左胸を強く押さえた。

痣が、燃えている。

それはかつて、彼女が自らの意志で実体化させた「短刀」が、帝の胸を貫いた瞬間に刻まれた因果の証だった。

(私は、彼を見ていた。ずっと、ずっと見ていた)

溢れ出す記憶は、奏を飲み込んでいく。

かぐや姫が月へ帰る際、天の羽衣を着せられて強制的に消し去られた「地上への愛」。月の法廷は、その剥ぎ取られた感情をひとつの実体として縫い合わせ、帝を監視する「看守」という残酷な役割を与えた。

つまり奏は、かぐや姫本人が月へ持っていくことを許されなかった「人間としての欠片」そのものだった。


千二百年の間、奏――看守の魂は、実体を持たぬ「姫の影」として、帝の傍らにいた。

帝が「なぎ」の死を悼むときも。

利休と茶を飲み、その茶の染みを千年も見つめ続ける姿も。

明治の焦土で、誰もいない空に「姫」の名を呼ぶ掠れた声も。

すべてを、自分の痛みとして受信し続けてきた。月の法廷の狙いは、帝への罰だけではなかった。彼を愛した「感情」そのものに、愛する男の絶望を永久に見せ続けるという、二重の刑罰。

(……だから、私はあの日、彼を貫いたんだ。看守としてではなく、私自身の心を取り戻すために)

あの日、千年の監視の果てに、彼女は指示を破った。監視者であることを辞め、一瞬だけ「短刀」という形ある愛に姿を変え、彼の絶望に終わりを与えた。

その瞬間、刺された帝の記憶と、刺した彼女の感情が混じり合い、昇華された。

 

「……あ」

奏が、短く声を上げた。

立っていた場所のすぐそば、岩の隙間に、一輪の花が咲いていた。

標高3,700メートルを超えるこの死の世界に、本来なら存在し得ないはずの花。

薄紫色の、凛とした花弁。

瞬間、頭の中に声が響いた。それは奏自身の深い層から溢れ出した、姫としての、そして看守としての叫びだった。

『――引き継ぎは、終わっていますよ』

あの日、彼を刺したとき。

彼の千年の記憶と、この世界を愛おしむ想いのすべてが、短刀を通じて彼女の中へと流れ込んできた。

彼は死に、彼女は「姫の記憶」と「帝の記憶」を併せ持つ、たった一人の「人間」として“私”を生きている。

 

「……奏、しっかりして! 酸素、吸って!」

陽菜が酸素缶を渡した。奏は、必死に現実の空気を吸い込んだ。

不思議な感覚だった。

これまで「ノイズ」だと思っていた二重の景色が、今は一つの美しい風景として重なり合っている。

2036年の電子的な光も、平安の月明かりも、すべては同じこの地上の営みなのだと、今の奏には理解できた。

「……陽菜。美花。……ごめん、もう大丈夫。もう、どこにも行かないから」

奏は、震える脚で立ち上がった。

その立ち姿には、どこか近寄りがたいほどの気品と、それでいて胸が締め付けられるような人間らしい脆さが共存していた。

それはまるで、月のようだった。


奏は、背後の空をもう一度だけ見上げた。

太陽は昇り、世界を容赦なく照らし出している。

そこには、月の都も、不死の呪いも、もう見えなかった。

「奏、ほんとに大丈夫? 酸素足りてる?さっきからちょっと変だし……急に綺麗になったっていうか……変なこと言ってごめん」

美花が少し顔を赤らめて首を傾げる。

奏は、胸にある痣をそっと手で覆った。

そこにあるのは、もう痛みではない。

かつて愛した男が、その最期に託してくれた「生きる」という光の感触だ。

「……うん。すごく、すっきりした。……お腹空いちゃったね。下りたら、何か食べに行こう」

彼女は、帝が見たかった「明日」を生きる。

看守でも、月の住人でもなく、かぐや姫がかつて願って止まなかった「ただの蒼野奏」として。



私立高校の文化祭は、冬の予感を含んだ冷たい風の中で、どこか浮き足立った熱気に包まれていた。

「……奏。このカメラ、もう俺の手を離れたがってるみたいだ」

御門漣が、首から下げたライカの革を撫でながら呟いた。舞台袖の薄暗がり。出し物の演劇『竹取物語』の出番を待つ奏の隣で、漣は困ったように、しかしどこか諦めたような目をしていた。

「……変なんだ。ファインダーを覗くと、奏の顔だけが銀色の砂嵐で見えない。シャッターを切るのが、怖いんだ」

奏の心臓が、冷たい泥を流し込まれたように重くなった。

彼女の胸元、痣が肌を焼く。奏はどこかで自惚れていた。自分は「看守」の末裔だ。この安っぽい演劇の書き割りの中でなら、月の干渉さえもコントロールできるはずだ。

「大丈夫だよ、漣くん。私が、ずっと隣にいるから」

奏は彼の指先を握った。だが、その手はすでに氷のように冷たく、奏の熱を奪っていく。

演劇がクライマックスを迎えた瞬間、世界から音が消えた。

教室の天井が液状化し、その向こう側に、太陽さえも凍りつかせる巨大な月の白銀が現れた。

「観測の完了。……残像の消去を開始する」

白銀の仮面を纏った使者・サクヤが、静かに降り立つ。奏は短刀を抜き、看守の力を振るった。サクヤはそれを避けることなく、悲しげに首を振った。

「看守の娘よ。この少年は、このまま地上に居続ければ、膨れ上がる神話に耐えきれず、精神を摩滅させる。月の都へ還すことこそが、彼を守る唯一の慈悲なのだ」

「……違う。そんなの、ただのアーカイブじゃない!」

奏の叫びは、サクヤが放った「銀の静寂」によって遮られた。それは圧倒的な重圧だった。奏は初めて、情けなくなるほどに「怖い」と思った。

「……かな、……、たすけ、て……」

漣の身体が宙に浮く。

彼の瞳から、焦げ茶色の色彩が消えていく。サクヤの指先が漣の胸に触れる。それは壊れやすい器を保管庫へ移すような、丁寧で残酷な手つきだった。

「いやあああ!」

奏は這いつくばり、彼の手を掴もうとした。指先が、彼の服の裾を掠め、引き裂かれた布切れだけが残った。

漣は光の中に溶け、月の円盤へと吸い上げられていった。


翌日。

文化祭の喧騒は嘘のように消え、学校には「演出上の事故」という乾いた説明だけが残された。奏は自室のベッドで、レンズの砕け散った漣のライカを握りしめていた。

助けに行きたい。けれど、自分には何もない。

空を見上げても、そこにあるのは冷たい天体だけ。指先一つ運命に届かない無力さが、心臓を毒のように侵食していた。


奏は学校へ向かった。世界は驚くほど平然と回っていた。

「ねえ、昨日のドラマ見た?」

美花の声が響く。彼女の目はまだ赤いが、それでも日常のレールに戻ろうと必死だった。

だが、教室には明確な「穴」があった。

そこには彼が忘れた消しゴムのカスと、誰かが間違えて置いたプリントが載っている。誰もその空席を直視しようとはしなかった。


放課後、駅前の喫茶店へ向かった。四人で座ったボックス席。

注文もしていないのに、店員が機械的に「お冷や」を二つ置いていく。習慣の恐ろしさ。

時計の針は残酷に刻まれる。一分、一秒。時間が経つごとに、彼との記憶が「現在」から「過去」へとスライドしていく。もしこのまま一ヶ月が過ぎれば、あの空席すら風景に馴染み、彼は「いなかったこと」にされてしまうだろう。

時間は、静かに彼を削っていく。

窓の外、帰宅ラッシュの光を見つめながら、奏の手が震え始める。

それは、悲しみではなかった。

(――嫌だ)

「このままで終わるのは、絶対に嫌……!」

それは祈りではない。運命という巨大な流れに対する、たった一人の少女の「意志」だった。


その刹那。

左胸の痣が、爆発的な熱を帯びた。

「……っ!」

痣から溢れた銀色が喫茶店の風景をひび割れさせ、コップの水が重力を無視して宙に浮く。

奏は立ち上がった。

背後でコップが割れる音を聞きながら、夜空に浮かぶ月を見る

「…どこにいても、必ず迎えに行くから。待ってなよ、漣くん」

世界の音が遠のく。

秒針が止まる。

少女は一歩を踏み出した。


感情を排した静寂。サクヤが言った通り、ここには痛みも、老いも、別れもない。けれど、奏は足音を立てるのさえ恐ろしかった。一歩進むごとに、皆の笑い声やパンケーキの匂い、漣の呼ぶ声が、薄い膜のように剥がれていくのを感じる。

都の中心、記憶の深淵と呼ばれる広間に、彼はいた。

「……また、来たのか。愚かな、小さな命よ」

漣の顔。漣の身体。

だが、その瞳に宿る銀色の光は、千年の孤独を耐え抜いた深淵だった。

「……漣くん、なんでしょう?」

奏の声が震える。

帝は、ゆっくりと立ち上がった。その所作は優雅だが、奏は見逃さなかった。彼が立ち上がる際、指先が不規則に跳ね、その瞳に一瞬だけ、浅ましいほどの執着が宿ったのを。

「御門漣という個体は、まもなく消失する。吾は、この肉体を使って、月の都に蓄積された不浄な記録を……吾ごと、消去するつもりだ。それが、地上にノイズを撒き散らさない、唯一の責任だ」

「……自分だけが責任を負えばいいなんて、思わないで」

奏は、震える足で帝の目の前まで歩み寄った。

「その震え、帝様のものでしょう? あんたは自分を消したいんじゃない。本当は……私の隣で、迷いたかったんじゃないの?」

「黙れ。私は、この都の秩序を……」

帝の言葉が途切れた。彼は自分の胸元を強く掴み、苦しげに顔を歪めた。

「……そうか、そうだったのか……。そこにいたのか……姫」

その時、帝の口から漏れたのは、高潔な賢者の言葉ではなかった。

「……嫌だ。まだ、……この手に、残っているんだ。薬を飲んだ、あの重みが。吾の愛した、世界の記憶が。……消えたくない。本当は、……死にたくないのだ。愚かなものだ、自ら死を望みながら……生きたいと、思ってしまうとは……」

その剥き出しの未練。1200年を賢者として生きた男が、少年・漣の肉体を通して初めて吐露した、泥臭い「生」への渇望だった。


サクヤが静かに傍らに現れた。刃は抜かず、ただその瞳には深い憐憫が湛えられていた。

「娘よ。彼の者の消去を止めれば、月の理は崩壊し、地上に神話の濁流が流れ込む。貴女一人の望みのために、世界を歪めるのか」

サクヤの問いは、刃よりも深く奏を刺した。

奏は、初めて心の底から願った。正義でも、使命でもない。

たとえ世界を少しだけ歪めても、たとえ自分が「悪い」ことになっても、この男の体温を、もう一度だけ感じたいという願い。

「……ええ、そうよ。私が全部、引き受けるから。漣くんを、返して!」


かぐや姫の“本物”が、光の粒子を纏って現れた。彼女は永遠そのもの。けれど、その瞳は、奏の不合理な執着に晒されて、激しく揺らいでいた。

「……仮称奏。貴女の行為は、不合理です。消去こそが、彼の情報を守る手段なのに」

「守るって、何? 変わらないことは、死んでるのと同じよ。傷ついても、汚れても、いつか忘れられても……今、ここで息をしてる方がいいに決まってる!」

かぐやは、奏の叫びに、初めて自分の胸を強く押さえた。

「不快……です。この胸の揺らぎ……定義、できません。ですが……」

彼女の瞳から、一筋の銀色の液体がこぼれた。それは涙ではなく、月の管理者が初めて「失うことの恐怖」に触れた証だった。

「……私は……。この熱を、消したくありません」

かぐやが帝の肩に触れた瞬間、地球の空で、血のような赤色を帯びた月食が始まった。

サクヤは静かに、自らの仮面を外した。その顔は、漣にどこか似て、ひどく疲れ切っていた。「……制御不能。ならば、私は最後まで、秩序の残影としてここに立とう」

奏は、帝とかぐやの手を、骨が軋むほど強く握りしめた。「私が……全部引き受ける。代償なんて、いくらでも払ってやるわ!」

「奏! お前、死ぬ気か!」

帝の、いや、漣の声が響いた。

「死なない! でも、普通の人間には戻れないかもしれない! ……それでも、いい。独りで終わらせるより、ずっといい!」

奏の視界が、一気に銀色に染まる。膨大な情報の奔流が、彼女の脳を、神経を、魂を焼き尽くしていく。


その時、奏の手を握っていた帝の力が、突如として反転した。

「……奏。もういい、十分だ」

掠れた、けれど芯のある声。

帝は、砕け散る寸前の奏の身体を、その細い腕で強引に引き寄せた。

「生きたかった。姫よ……お前と、……お前と同じ地上の泥を啜ってでも、生きたかった」

帝の瞳から、銀色の涙が溢れる。それは「賢者」を捨て、「一人の男」として生に執着した証だった。しかし、彼は同時に理解していた。奏がこのまま代償を負えば、彼女という存在はこの宇宙から完全に消滅する。

「ただ……其方がいない世界で生きるほど、吾は強くないんだ」

帝は、奏の胸にある「看守の痣」に、自らの掌を押し当てた。

その瞬間、奏の身体を焼いていた銀色の激流が、凄まじい逆流を起こし、すべて帝の身体へと流れ込んでいく。

「な、……に、をして……っ!」

奏の視界に、わずかに色が戻る。

見えたのは、自分に代わって「消去」の光をその身に浴びる帝の姿だった。

彼は、奏が背負おうとした代償のすべてを、自らの魂という器で強引に堰き止めたのだ。

「帝! やめて、それじゃあんたが……!」

「……これが、吾の最後の手向けだ」

帝の身体が、足元から透けていく。

その存在の輪郭が薄れ、銀色の霧へと変わっていく。

千年の記憶。生への未練。かぐや姫への、言葉にできなかった想い。

そのすべてが、奏という「橋」を補強するための礎として捧げられていく。

「……バカ、な……。生きたいって、……言ったじゃない!」

奏が泣き叫び、消えゆく彼の身体を抱きしめる。

帝は、消え入りそうな指先で、奏とかぐやの頬にそっと触れた。

「……ああ。お前を、かぐや姫を生かすために、……吾は今、初めて自分の意志で『生きたい』と願ったのだ」

帝の顔から、銀色のノイズが剥がれ落ちる。

最後に現れたのは、賢者でも帝でもない、一人の青年の、ひどく泣き出しそうで、けれど満足げな微笑みだった。

「……ただ、……もう一度、見たかったな」

帝が、消え入るような声で呟いた。「お前の……あの、バカみたいに笑った顔を」

帝の存在が、漣の身体から剥がれ落ちていく。

「……愛してる。そして……ありがとう」

剥がれ落ちた光は、もう散ってしまった。

「……こちらこそ、でしたよ」

かぐやは俯いたままだった。


月食が、終わった。


目が覚めると、冬の朝の冷気が頬を刺した。学校の屋上。手の中には、ひび割れたカメラの破片。そして隣には、御門漣が、生身の人間として倒れていた。

「……かな、……?」

漣が身体を起こす。彼は、何も覚えていなかった。

奏が泣きながら彼を抱きしめたとき、彼は戸惑いながらも、その温かさに安堵したように微笑んだ。


一ヶ月後。駅前の喫茶店には、三人の姿があった。

奏と、漣と。そして、厚いニット帽を被った「彩月姫」。

「……奏。この、ホイップクリームという物質は。……甘すぎて、少し、吐き気がします」

彩月は、眉をひそめながらパンケーキを見つめていた。彼女はもう感情の制御に戸惑う、不器用な一人の少女として地上に堕ちたのだ。

「それが生きるってことだよ、彩月姫」

奏は笑おうとした。

だが、その瞬間、彼女の視界に銀色の粒子が走る。

月の理を引き受けた「橋」の呪いは、奏の視覚を永遠に変えてしまった。時折、目の前の風景がデータの断片として透けて見える。漣が笑うとき、彼の周囲にだけ、光の数式が舞うのが見える。

奏には、他の誰にも見えない「漣という生命の輝き」が、光として見えていた。


漣は、新しく買ったライカを構えた。「……奏。こっち向いて」

奏は、銀色のノイズが混じる視界の中で、必死に彼の姿を探した。データの嵐の向こう側に、確かに存在する、あの焦げ茶色の温かな色。

「……撮るよ」

シャッター音が響く。漣の撮った写真には、必ずどこかに、不思議な光の歪みが入り込むようになった。専門家はそれをレンズの不備と呼ぶが、奏だけは知っている。

奏は、漣の温かい掌を握りしめた。その掌が時折、銀色の幾何学模様に透けて見える。けれど、その不完全な視覚こそが、全ての証だった。

「……綺麗に撮れた?」

「ああ。……少し、ブレたけど。それが最高に、いいんだ」

漣は笑い、また次のフィルムを巻き上げる。

ファインダーの先で、彼女は笑った。

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