机の上の離縁状と、古びたメモ
※本作は、1.5人称視点で書かれています。
※感情語を使わず、動作と間で描写しています。
お時間のあるときに、静かな気持ちで読んでいただければ幸いです。
先程の強い雨が去り、部屋の中は静寂に包まれていた。
公爵邸の応接室にある、重厚なテーブル。
その上に、そっと紙を置いた。
「ここに、サインをお願いします」
目の前に立つ夫、アルベルトは息を呑んだようだった。
彼の視線が、私の目の前にある書類に注がれる。
離縁状。今日届いたものだ。
私のサインは既に書いてある。
彼は、手を懐に入れ――。
そこで数秒の間、動かなくなった。
固く目を閉じた、その後にペンを取り出す。
私は、じっと彼を見つめる。
その視線から逃れる為か、アルベルトは私の胸元を見ていた。
そこにある、緑色のブローチ。
これは、実家から持ってきたものだった。
彼は私がこれを付けることを嫌っていたらしい。
元婚約者から貰ったものだと告げた時、つける事を禁じられた。
そのブローチは、窓からの光が差し込んで鮮やかに輝いている。
「奥様……。あの、旦那様は――。……いえ、失礼しました」
侍女のマリアが声をあげた。
私が、そちらに視線をやると、彼女は口を閉じて目を逸らす。
――トン。トン。
指で机を叩く。
その音に、彼の肩が僅かに跳ねた。
一秒。
二秒。
三秒。
私はため息をつく。
彼のペンが紙の上をゆっくりと滑る。
僅かに震える筆跡。
前かがみになりながら、サインをしている。
その時、何かがポタリ……と書類に落ちた。
――水?
しかし、私からは彼の髪の毛、そのつむじしか見えなかった。
サインは最後まで書き終わったようだった。
「これで終わりですね」
その紙を、取り上げようと手を伸ばす。
しかし、その紙は微動だにしなかった。
書類の上から、アルベルトの拳が押さえつけていた。
その拳の上にもポタリ、と何かが落ちた。
しばらくの間、彼は動かなかった。
そして、ゆっくりと頭を上げる。
目の前に座る私と視線があった。
彼の揺れる瞳が、私を射抜いた。
――季節は一巡して、二度目の春が訪れていた。
執務室の机に広げられた紙は、角がボロボロによれた紙切れだった。
見慣れた筆跡。
書かれた内容も、思い出すことが出来た。
既に陽は傾き、彼の表情は陰になってよく見えなかった。
そして、この紙も。
暗くて目を凝らさないと読めない。
「なぜ。今になってこれを?」
机に手を置き、頬杖をつく。
目の前に立つ男――アルベルトは、その紙がある方向を見て、こちらに視線を向けなかった。
「……業務の一貫だと思ってくれ。君の、サインだけが欲しい」
日が沈む。
部屋があっと言う間に暗くなっていく――。
「サインだけならいいですが。これは、私があなたに宛てたメモ――」
目を凝らして文字を追うと。
私が昔書いた文字。
『お疲れさまでした』
『今日は街に出て買い物をしてきました。あなたへのプレゼントも買いました』
そのまま、捨てられていたはずのただのメモ。
その言葉の後に、違う筆跡で書き加えられていた。
『ただいま』
『それは、君が選んだものなら、きっと素晴らしいものだっただろう』
完全に日が落ちて、部屋は暗闇に包まれた。
お互いが動けなかった。
時計の音がやけに大きく聞こえた。
彼の影が、スッと下がる。
「サインは……なくても構わない」
そう言って静かに。足音も立てずに部屋を出ていった。
残された私は、その古びたメモに手を伸ばそうとして――。
やめた。
部屋の中の、この暗がりが少しだけ心地よかった。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
この物語は、結論を描かないまま終わります。
何を選んだのか、選ばなかったのかは、読者の受け取りに委ねています。
もし何か一つ、机の上に残ったものを感じていただけたなら嬉しいです。




