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ヒューマンドラマ

机の上の離縁状と、古びたメモ

作者: しぃ太郎
掲載日:2025/12/21

※本作は、1.5人称視点で書かれています。

※感情語を使わず、動作と間で描写しています。

お時間のあるときに、静かな気持ちで読んでいただければ幸いです。

 先程の強い雨が去り、部屋の中は静寂に包まれていた。

 公爵邸の応接室にある、重厚なテーブル。

 その上に、そっと紙を置いた。

 

「ここに、サインをお願いします」

 

 目の前に立つ夫、アルベルトは息を呑んだようだった。

 彼の視線が、私の目の前にある書類に注がれる。


 離縁状。今日届いたものだ。

 私のサインは既に書いてある。


 彼は、手を懐に入れ――。

 そこで数秒の間、動かなくなった。

 固く目を閉じた、その後にペンを取り出す。


 私は、じっと彼を見つめる。

 その視線から逃れる為か、アルベルトは私の胸元を見ていた。

 そこにある、緑色のブローチ。


 これは、実家から持ってきたものだった。

 彼は私がこれを付けることを嫌っていたらしい。

 元婚約者から貰ったものだと告げた時、つける事を禁じられた。

 そのブローチは、窓からの光が差し込んで鮮やかに輝いている。


「奥様……。あの、旦那様は――。……いえ、失礼しました」

 侍女のマリアが声をあげた。

 私が、そちらに視線をやると、彼女は口を閉じて目を逸らす。


 ――トン。トン。

 指で机を叩く。


 その音に、彼の肩が僅かに跳ねた。

 

 一秒。

 二秒。

 三秒。


 私はため息をつく。

 彼のペンが紙の上をゆっくりと滑る。

 僅かに震える筆跡。


 前かがみになりながら、サインをしている。

 その時、何かがポタリ……と書類に落ちた。

 

 ――水?


 しかし、私からは彼の髪の毛、そのつむじしか見えなかった。

 サインは最後まで書き終わったようだった。


「これで終わりですね」

 その紙を、取り上げようと手を伸ばす。


 しかし、その紙は微動だにしなかった。

 書類の上から、アルベルトの拳が押さえつけていた。


 その拳の上にもポタリ、と何かが落ちた。

 しばらくの間、彼は動かなかった。


 そして、ゆっくりと頭を上げる。

 目の前に座る私と視線があった。


 彼の揺れる瞳が、私を射抜いた。




 ――季節は一巡して、二度目の春が訪れていた。

 

 執務室の机に広げられた紙は、角がボロボロによれた紙切れだった。

 見慣れた筆跡。

 書かれた内容も、思い出すことが出来た。

 

 既に陽は傾き、彼の表情は陰になってよく見えなかった。

 そして、この紙も。

 暗くて目を凝らさないと読めない。


「なぜ。今になってこれを?」

 

 机に手を置き、頬杖をつく。

 目の前に立つ男――アルベルトは、その紙がある方向を見て、こちらに視線を向けなかった。


「……業務の一貫だと思ってくれ。君の、サインだけが欲しい」


 日が沈む。

 部屋があっと言う間に暗くなっていく――。


「サインだけならいいですが。これは、私があなたに宛てたメモ――」


 目を凝らして文字を追うと。

 私が昔書いた文字。

『お疲れさまでした』

『今日は街に出て買い物をしてきました。あなたへのプレゼントも買いました』

 

 そのまま、捨てられていたはずのただのメモ。


 その言葉の後に、違う筆跡で書き加えられていた。


『ただいま』

『それは、君が選んだものなら、きっと素晴らしいものだっただろう』


 完全に日が落ちて、部屋は暗闇に包まれた。


 お互いが動けなかった。

 

 時計の音がやけに大きく聞こえた。


 彼の影が、スッと下がる。


「サインは……なくても構わない」


 そう言って静かに。足音も立てずに部屋を出ていった。

 残された私は、その古びたメモに手を伸ばそうとして――。


 やめた。


 部屋の中の、この暗がりが少しだけ心地よかった。



最後までお読みいただき、ありがとうございました。

この物語は、結論を描かないまま終わります。

何を選んだのか、選ばなかったのかは、読者の受け取りに委ねています。

もし何か一つ、机の上に残ったものを感じていただけたなら嬉しいです。

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