2.
その障子を開ければ、ガラス越しの庭からの自然光に迎えられた。畳が敷き詰められた一室に、わずかな風が舞う。まだ暖かくはない客間で、ほんのりと温まってきたストーブの傍に、木之本さんは座っていた。中央にあるテーブルの手前なので、そこに二人分のコーヒーを置く。歪な丸餅もそこにあり、ビニール袋にはストーブから射し込む橙色が、これまた歪な丸となり、無造作に反射していた。
「お待たせしました。どうぞ」
「いいえ。ありがとう」
「そういえば、さっきの話なんですけど」
塩浦は木之本さんがコーヒーを手に取るのを見ると、同じくストーブの傍、彼女からは少し離れて向かい側に座り、話を切り出した。
「どの話?」
「墓荒らしについてです」
「ああ。それで?」
合点がいって、木之本さんは続きを促した。
「まず、物体がそこに残る限り、それを構成する原子を結びつける電子も、そこに在り続けるということですよね。となれば、肉体が死んで自ら動くための意識を失っても、その物体の電子は動き続けているというのならば、ある種その存在は『まだ生きている』も同然。だって、人間は電子の纏まりである電気信号で動いていて、死後残った物体もその電子を引き継いでいるんですから。それも、火葬によって永く残り続けることになる。となると、それが耐えられない程にその人を恨んでいる者がいるとすれば、それすらをもこの世から消し去りたい、と思う人はいるでしょう。電子を物体から散らすには、その物体を完全に破壊し尽くさなければならない。と、考えて、そこで有効な手と考えられるのが、『塩』だと思うんです」
塩浦の推測を、木之本さんは黙って聞いていた。冷ます吐息を少々、一口、二口、と口を付けたマグカップがテーブルに置かれる。わずかに量を変え並ぶマグカップからは、まるで灯火のように緩やかな薄い湯気が立ち上っており、コーヒーのほろ苦い香りがふわりふわりと漂い続けた。
「DNAって、いくつかの研究では塩、特に海水によってダメージを受けることが示唆されているらしいじゃないですか。大量な程に深刻なダメージを受け、量が減ればダメージは修復され始めるけど、その実、どこでどんな種類のダメージが起きるのかは正確にはわかっていないそうで。本物の方の高度好塩菌であれば損傷を受けたDNAの自己修復が得意なので、DNAが完全に断片化しても数時間で完全な染色体を再構築して再び正常に動けるようになりますし、ほとんどの微生物ならば完全に破壊されるような強烈な紫外線を受けても八十%が生存して正常に生き続けられます。が、私達は人間です。ほとんどの海洋生物同様、死海に適応して生きるようなことはできません。それはDNAからしてのことなので、つまり、海水、できれば死海並の塩分濃度のものに浸しておけば、人の骨も塩が満ち侵食され、その内DNAから破壊され尽くして、電子もようやく『解放』されるんじゃないかな、と思いまして。ほら、ドレンチェリーが内部を砂糖で満たされるようなものでしょう。ああ、でもその場合は、電子はより凝り固まっていそうですよね」
じんわりと、ほのかな暖かさが身体の表面に触れていく。コーヒーのほろ苦い香りが、口の中まで満ちてきた。
「ともあれ、今回の墓荒らしの目的が母への、この世から完全に消し去りたい程の恨みを晴らすためだとすれば、あの現場も辻褄が合うでしょう。骨の処理の方法は、具体的に言えば、そうですね。粉になるまで砕いて海に流す、とか? 今では『散骨』と言って、自然に還る素材の袋に粉にした骨を入れて海に投下する埋葬方法がありますし。もちろん無許可ではできませんが、知られなければ勝手にできる範囲です。例えば、袋の口を開けたままにして、早々に骨を残らず海に散らすようなことだって。仮に海を捜索したところで、粉は見つける前にDNAから破壊され尽くしているでしょう。そして、この辺りで母とそれなりに接する人の中で、火葬された骨や塩の性質について知っている人となれば。私が知る範囲ですけど。……――――木之本さんしか、いないじゃないですか」
「ご明察」
落ち着いた様子を崩さずに、木之本さんは世間話の延長のような調子で言った。
「それで? 警察に連絡するの?」
「まさか。面倒な。私はこれを聞かなかった可能性もありますし、聞いても忘れる可能性もあります。それで木之本さんがシラを切り通そうとも出頭しようとも、私の関与するところではありませんよ」
塩浦はあくまで他人事として、素知らぬ声色で話を流した。単なる興味本位で真相を知りたかっただけで、その事実から犯人をどうこうしようとは最初から思ってもいなかったのである。
「でも、そうですね。強いて言うなら、犯行の動機の、一番のきっかけを訊いても?」
「いいわよ」
「良かった。私はそういうの、注意したいですから」
「貴女なら大丈夫よ。……そうね、これは貴女の知らない範囲かしら。貴女が本格的に戻ってくるよりも少し前の話よ」
そう前置きして、木之本さんは話し始めた。
「私ね。ここに引っ越してくる時、植木を持ってきてたのよ。陶器の鉢植えに入った、ちょっと大きな木をね。綺麗な花が咲くの。それ、恩師からの贈り物であり形見だったのよ。『師範代の免許皆伝の記念に』って、『お祝いに』って、株分けしてくれて、でももうお年だったから、その後少ししたら亡くなられて。それが最後の会話で贈り物だった。だから、とても大事なものだった。……それを、私があの人の言葉を信じたせいで、私は、自分の手で、――――――殺してしまったのよ」
その目線の先には塩浦は映らず、当時の過ちが色濃く浮かんで見えているようだった。
それは、木之本が今の地に引っ越してきてすぐの頃。
持ってきた植木は既に大きく成長しており、鉢植えでは窮屈に見えていた。だから、と広い庭の一角に植え替えると、より活き活きして見えた。
ただ、一つ気になったのが、雑草の問題だった。抜いても抜いてもすぐに生えてくるそれらは面倒で、大きく育つものもあり、木に十分な栄養が回るかも心配な程である。
そこで、近所に長年住み、庭の手入れにも詳しいだろう塩浦の母に、雑草の対処法を訊いてみたのである。
塩浦の母はいつものように、にこやかに愛想良く応えた。
「ああ、雑草を生えないようにするなら、塩を撒けば良いわよぉ。それで生えてこなくなるから!」
それを、木之本は信じてしまった。言われるままに、鵜呑みにしてしまった。そして――――――大事な木まで、枯らしてしまうこととなったのである。
日に日に枯れていく木に、木之本が内心焦って当人にそのことを報告すると、心底愉快そうな大笑いが返ってきた。
「っはっはっはっは。いやぁねぇ、これだから外の人は」
「え?」
「本当にやっちゃったのぉ? ほんと、外の人はものを知らないんだから。私ならやらないけどねぇ」
「……え?」
困惑して言葉が出ない木之本を見て、にたり、と歪んだ笑みが深くなった。
「『塩害』っていうのがあるのよ。地面に塩を撒くなんて、その土地が死ぬようなものじゃない。植物なんて、枯れて当然よぉ」
悪びれるどころか『教えてあげる』とばかりに上から目線で、嘲笑を浴びせられた。
木之本は怒りよりも先に、疑問符ばかりが脳内を占めていた。事実を飲み込むのもままならない。それでも、呼吸と共に言葉を喉に詰まらせながら、なんとか口に出す。
「……大事な木だ、って、言いましたよね。なのに、なんで、そんな嘘を……」
「ほんの、ちょっとした冗談だったのよ。冗談。それを真に受けちゃうなんてぇ~――――」
悪辣な戯れ言は続く。それ以降の話は、木之本の耳には入ってこなかった。
――――そんな、一時のくだらない娯楽のために、あの木は殺されたのか。自分は、あの木を殺したのか。
――――何故、この生き物は容易く悪意で人を傷付けて悦べるのか。
理解したくもないことばかりだった。
そして、後日。このことはご近所付き合いの話のタネとして、周囲の家々に面白おかしく吹聴して回られたようだった。他に件の話をした人はいなかったのに、数日もすれば会う人皆が知っていた。塩浦の母のように、当然の権利とばかりに貶してくる者さえいた。
――――こちらにとっては重大なことだったのに。大事なものだったのに。
――――だから、知っている人に、自分の知らないことを、教えを請うたはずだったのに。
返ってきたものは、悪意だった。
得たものは、喪失だった。
「――――だから、同じようにしてあげようと思ったの。ただし、本人そのものが存在した証の欠片も遺さないように、徹底的にね。大事なものはもう戻らないのに、それを奪った側がいつまでもこの世界に存在し続けるなんて、おぞましい話でしょう?」
目を細めてうすらと笑みを浮かべる木之本さんは、鬱蒼とした陰を瞳に宿らせているようにも見えた。
「私はあの人が憎いの。あの人が死んでも尚、あの人の骨の一片すらこの世に遺したくない程に。高度好塩菌君。貴女は確かに私達の問題には関係無い。けどね。私は、あの人が憎いの。その一部で、遺伝子で作られた貴女まで、存在するだけで忌々しいと思ってしまうくらいに。毎日、体の内側から騒がしいのよ。ずっと、全身がざわざわする違和感があってね、緊張して、心から休めないの。ああ、勘違いしないでね。貴女自身の人格は好きなのよ。ええ、とても。でも、貴女の肉体が、肉体を構成する物質が、それで耐えられるようなものでもないの。ああ、別々だったら良かったのに」
木之本さんは、困ったように笑った。そうしておもむろに手を床に突いて膝を進め、塩浦の目の前に来た。
「……ねぇ、高度好塩菌君。ごめんね、高度好塩菌君。私の心の平穏のために、安らぎのために――――――」
死んでね。最後のその言葉は、声に鳴らずに紡がれた。
「あなたも、解放されたいでしょう?」
何から、とは訊かずともわかっていた。
ゆるゆると首に回された細い手に、徐々に力を込められる。乾燥して少し荒れた肌が、ゆっくりと薄皮の喉に食い込んでくる。
それは、容易く逃げられるような緩慢な動作だった。むしろ、やり返すことすらできるだろう。木之本さんもそれを承知の上で、逃げ道を残してくれているのか。言ってみれば、『猶予』である。
しかし――――塩浦はもう疲れていた。やっと一番厄介な血縁関係から解放されたと言っても、これで自由になれるとわかっていても、それを望む気力すら無くなっていたのである。
自殺をする、というデメリットしか無いという愚行をする気は無いが、他人に殺されるのならばまだ抵抗無く受け入れられる。それに、今回は相手の気も済んで一石二鳥ですらある。否、自分の存在が相手を苦しめるのならば、これは図々しい想いと言えようか。ともあれ、木之本さんのおかげで、助かってばかりである。せめてお礼を言いたかったが、せっかく乗ってきた興を邪魔するのも申し訳無い。
走馬灯を見るには早過ぎるとは思うが、塩浦の脳裏には、今までの人生が嫌でも思い起こされてきた。人は学習能力から嫌な思い出程強く記憶に残る、とは言うが、自ら進んで死にゆく今でさえもその作用が働くとは、むしろ死なせる後押しなのではないかとすら思えてきた。
塩浦も自身の家族に関しては、まるで嫌な記憶で他を埋め尽くされたかのように、あまり良い記憶が残っていなかったのである。
塩浦は昔から、親には成果を求められたが、自分の意見は認められない人生だった。
普段から何かにつけて「だからお前はダメなんだ」と人格から否定され、反発は論外、親の関心が無ければ無視、必要最低限の事務的な報告すら他の家族の雑談で阻害され、それを指摘すれば全員から避難される程に、『意見』は徹底的に排除されてきた。いくら「好きに選べ」と言われたところで、親が気に食わなければすべて却下されていた部類である。親の見栄に関わり金で解決できるものならば意見が通る可能性はあったが、本当に必要なものが得られるとは限らなかった。塩浦本人だけに関わることで、特に労力を少しでも使うことは、何かにつけて言い訳をしてまでも、基本的に聞き入れられることは無かった。親は人前で良い親ぶりたい気分の時には塩浦を悪者に見立てて目立つように、的外れどころか決めつけの捏造による批難すらして見せるが、塩浦に対して良い親ぶりたい気分の時には多少の労力を使うこともある。しかし、親本人が面倒でやりたくないと思うことは、決して妥協もしなかったのである。故に、基本的には『親の用のついで』の範囲で塩浦自身が画策し、一人で動かなければならなかった。それでも、できる範囲は精々が『条件さえ揃えば一人でできる』程度のものだった。親が「する」と言ったことは実現されず、しかし、親の都合や気分で事の直前になりいきなり使われるのは常だった。そこに、拒否権は無かった。
『子』として否応無く合わせさせられる『親の都合』は『親の機嫌』にも適用され、物事が親の思い通りにならなければ罵詈雑言や暴力は親の『当然の権利』となっていた。
その昔、塩浦が学生時代に学校でイジメを受けて病んでいた時期も、例外ではなかった。
特に父は、塩浦が思い通りにならないからと、塩浦の心の拠り所だった創作物を『破壊』したこともある。それは、『破壊』すれば『復元』できないツクリのものだった。そして、発狂して叫ぶ塩浦を見ても、父はより悦び嘲笑い、罵倒するだけだったのである。
塩浦はそれ以来、実家を離れてからも過干渉に警戒しながら、親に見つからないように隠れて創作をしていた。しかし、再び『その時』は訪れることとなったのである。
そもそもが時間や労力を要する酷い過干渉によってまともな私生活が困難になり、体調を崩す等仕事にも支障を来すので肩身の狭さもありその仕事を辞めざるを得なくなったのが始まりだった。一応それを両親に報告すると、『仕事をしないのならば家のことや祖母の食事の世話をして当然』と話は一方的に飛躍し、父の都合の良いように決定され、覆ることは無かった。そして『親の権利』をフル活用し、無理矢理実家に連れ戻されたのである。
祖母は塩浦の監視にもなったのだろう。生前は、一日中大音量でテレビを見たり、ほぼ毎日訪ねてくる友人と半日は大声で話したり笑ったりし、一人で動き回れる程には元気だったが、自由にできる人手があるのならば昼食は冷たいものよりも温かいものを欲し、時間になっても来なければ大声で呼んだり携帯電話を鳴らしたり、と人を使うのが当然な立場だった。便宜上家庭内で最大の権力を持つ父が祖母に良いツラをするために、自分ではなく他人である娘を差し出すのである。最大の権力を後ろ盾にできるのだから、陰で友人と「私がこの家で一番偉いもの」等と話すような祖母の性格を考えれば、それに便乗し調子に乗ることは想像に難くない。とはいえ祖母も父の不機嫌の原因の一つにもなり八つ当たりを受ける身にもなり、と、二人の関係は滑稽に見えるものだった。母はそんな二人を全肯定して庇い、裏で悪口を言い、自分のこととなると時には本人に言い返したりもしたが、塩浦の味方になることは無かった。二人と塩浦の間に何かあれば、必ず二人を庇い聖人ぶり、塩浦のすべてを否定したのである。
そして、ある日。
機嫌の悪い父が八つ当たりをするために、わざわざ塩浦の部屋まで来た時のことである。
父が足音をひそめて歩いてきたこともあり、いきなり襖を開けられた塩浦は対応が遅れてしまった。そして、その時に取り掛かっていた創作物を見られ、知られてしまったのである。
「――――まッッッたそんなモンを!!!」
そんな精一杯の怒鳴り声は、嬌声にも似て聞こえた。気持ち悪い、と生理的に嫌悪してしまう程の不快さだった。
創作物を無理矢理取り上げられ、『破壊』されてしまうのは、一瞬のことだった。
――――私のすべてだったのに。
――――どうしても、『私』を排除したいのか。この世から消し去りたいのか。
――――――そもそも『私』を『破壊』すること自体が、快楽なくせに。
塩浦は長い年月を経て繰り返し、否、以前よりも激しく、胸の奥底から重い何かが荒れ狂うのを感じた。
波だ。それは、面に出すには枯れ果てた、空がヒビ入るような響きとなった。
発狂して叫ぶ塩浦に、父は相変わらず、昔に同じくしたように、ひん曲がった粘着質な笑顔と声色で罵倒を始めるのだった。
塩浦は理解した。
関心がある程に、危険で大変な状態なのだと知った。最初から何も知らずに無関心でいることは、安全で楽なのだと悟った。そして――――――そう時間が経たない内に、表情が亡くなった。自ら何かに関心を持つ気力すら、風化してしまったようだった。
――――ああ、アレが無ければ『生きたい』と思えたかもしれないのに。まだ、すがりつけるようなものがあれば、執着できるものがあれば、持っていて尚求める欲があれば――――――、ああ。
はっ、と納得。静かに、わずかに目を見開く。
思考がころり、転がった。
腑に落ちた。
――――――――なんだ。根は、奴らと同じじゃないか。
そんな自分を嫌悪した。
そろそろ、息が詰まってきた。
塩浦は動かずに見つめ返し、彼女の想いを甘受することにした。ガラス玉のように綺麗な瞳には、柔らかく灯る暖かい橙色の他に、不釣り合いに滲むような暗い人影が映り込んでいる。
最期に見たのは、やっと苦痛から解放される喜びでほっとした笑顔となった、安らかな面持ちだった。




